第二幕:まどろみと、深い溝の端
朝の光は、薄絹を通したようにやわらかだった。
カーテン越しの陽射しが、寝台にかかる白いリネンをほんのりと染めている。
淡く香る果実の匂いと、ふたつの吐息だけが、そこにあった。
「……これ、ほんとにベッドで食べるんですか……?」
「ええ、朝の特権よ。ぐっすり泣いて、よく眠れた子へのご褒美」
「泣いてたの見てたんですかっ!?」
「寝ながら鼻をすすってたわ」
「うわああぁぁぁっ!」
リリアはシーツに顔をうずめながら、枕をぽふぽふと叩いた。
けれど、膝の上にある銀のトレイは、すでに魅力的な香りで満ちている。
焼きたてのパン。果実を煮詰めたジャム。
あたたかいハーブティー。
そして――何より、魔王がリリアのために丁寧に用意したという、その気持ち。
「……いただきます」
小さくつぶやいて、リリアはそっとパンにナイフを入れる。
ベッドの端に座る魔王は、まどろみのまま、ティーカップを傾けていた。
「……静かですね」
「ええ。こうして、ひとりとひとりが静かに過ごせる朝は、戦火の時代にはなかったものよ」
「……魔王様」
「リュシア、でいいのよ」
「……じゃあ、リュシア」
「ふふ。あなたの口からその名前が出ると、ほんの少し、くすぐったいわね」
笑いあって、数秒の沈黙が流れた。
そのあとで、魔王――リュシアは、そっと目を伏せて言った。
「……リリア。少し、昔の話をしてもいい?」
「……はい」
「百年前――“浄火戦争”と呼ばれたあの戦い。
私は、燃えた森を見ていた。あの時、人間の軍が掲げた言葉は、“神の意志”。
けれど、その意志の名のもとに、焼かれたのは、子どもたちだった」
リリアの手が、ジャムを塗る途中で止まった。
静かに、息を飲む。
「私たちは“魔族”と呼ばれたけれど、ほんとうは違う。
森に逃げた者たち――火を扱う者、声なき声を聴く者、ただそれだけの“異能の民”だったの」
「……それは……」
「その子たちに牙はなかった。爪も、角も。
ただ、“違う”という理由だけで、火が注がれた」
声に怒りはなかった。
あるのはただ、静かな哀しみと、失われたものへの弔い。
「辛かったら、言ってね。
でも私は、あなたにこの話を隠したくないの。
“魔族と人間の間にある溝”――それを、あなたにだけは包み隠したくないの」
リリアは、膝の上のトレイをじっと見つめていた。
パンの香りが、急に遠くなる。
代わりに、遠くで火がはぜる音がしたような気がした。
「……私、まだ、うまく飲みこめません。
でも、聴きたいです。あなたがそれでも、私とここにいてくれる理由を」
魔王は頷いた。
「ありがとう、リリア。
あなたはほんとうに、残酷な子ね。
私の心の底にある傷を、まっすぐ覗き込んで、“そこに触れたい”って言ってくれるなんて」
「……それ、褒めてます?」
「最大級の褒め言葉よ」
ふたりは、また少しだけ笑った。
朝の光は、窓辺に差し込み、ベッドの端まで届いている。
パンの温もりが、ジャムの甘さが、少しだけ緊張をほどいた。
(知ってしまったら、無垢ではいられない)
(でも、知らなければ、私は“あの祈り”を繰り返してしまう)
リリアは、魔王と向き合って生きることを、ほんの少しずつ覚悟しはじめていた。
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