第一章:静寂の亀裂
書斎の空気は、古紙と革装丁の匂い、そして言いようのない何かの気配で満たされていた。夜も更け、ガス灯が揺らめくロンドンの街路の喧騒は、分厚い窓と書架の壁に阻まれ、深閑とした静寂だけが私を包んでいた。私の目の前には、ハドソン教授が遺した混沌の海が広がっている。乱雑に積まれた古文書の写し、羊皮紙に描かれた解読不能な図形、そして、何よりも私の理性を揺さぶるのは、机の片隅に鎮座するあの漆黒の石——「鳴動石」であった。
それは人の頭ほどの大きさで、磨かれた黒曜石とも異なる、光を呑み込むような絶対的な黒だった。手を伸ばせば、季節にそぐわない氷のような冷たさが伝わってくる。不思議なことに、この石が近くにあると、書斎の静寂はより一層深まるように感じられた。まるで周囲の物音がこの石に吸い込まれ、その内部にある名状し難い虚無へと消えていくかのようだった。私は無意識のうちに、この石に長時間触れることを避けていた。
私はまず、教授の膨大なノートを時系列に整理することから始めた。初期のものは、彼の明晰な知性が光る、実に学術的な考察に満ちていた。しかし、ある時点を境に、その筆跡は熱に浮かされたように乱れ始める。きっかけは、アナトリア高原の辺鄙な村で、彼はある古物商からこの「鳴動石」を入手したことにあるらしい。
『──この石は歌わない。語らない。ただ、沈黙する。だが、その沈黙は空虚ではない。それは、我々の宇宙が奏でる調和という名の薄っぺらな欺瞞を嘲笑うかのような、冒涜的なまでの密度の濃い静寂なのだ──』
ノートのその一節を読んだとき、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。教授は正しかったのだ。この石は、ただの物質ではない。それは、我々の知覚の外側にある何かへの「扉」あるいは「窓」のようなものではないか?
深夜、疲労が思考を鈍らせ始めた頃だった。不意に、私はある異変に気づいた。ホールに置かれた古めかしい大時計が刻む、慣れ親しんだ規則正しいリズム。
チク、タク、チク、タク……。
その音が、ほんの一瞬、奇妙に乱れたのだ。
チク……タク……チクタクチク……タク……。
私は顔を上げた。
気のせいか? 疲労が見せる幻聴か? そうに違いない。
私は自嘲気味に首を振り、再びノートに目を落とした。だが、一度意識してしまったその「間」は、私の集中を執拗に妨げた。時計の振り子の音は、もはや安らぎをもたらす時の指標ではなく、不安定な心臓の鼓動のように、私の神経を逆撫でする不快な物音と化していた。
その夜、私はノートの中に、何度も繰り返し現れる一つの名前に気づいた。「イライアス・ヴェンティマー」。それは、『不協和音詩篇』の狂える翻訳者の名だった。教授は、ヴェンティマーが遺したとされる稀覯本を探し求めていたようだ。その走り書きの横には、音の波形とも、冒涜的なシンボルともつかぬ図形が、まるで痙攣するかのように描かれていた。
私は教授の書架へと向かった。埃っぽい背表紙を指でなぞり、数千冊の中からその一冊を探し出す。そして、ついに見つけたのだ。黒い革で装丁された、題名もない私家版の書物を。ページをめくると、そこにはヴェンティマー自身の筆による、狂気に満ちた詩と散文が綴られていた。そして、私は凍りついた。ある一節が、まるで私の経験を予言していたかのように、目に飛び込んできたからだ。
『……かの律動の最初の兆候は、汝の周りにある最も規則正しいものの中に現れるであろう。時計の針の歩み、滴り落ちる水音、己が心臓の鼓動。それら秩序の砦に、最初の亀裂が入る。僅かな揺らぎ、ほんの一瞬の不一致。汝はそれを疲労のせいだと自らを欺くだろう。だが、それは始まりに過ぎぬ。静寂に亀裂が入り、そこから「外」なるものが染み出し始めた証なのだ……』
私は、弾かれたように本から顔を上げた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。ホールの時計は、今や再び、何事もなかったかのように正確な時を刻んでいた。だが、私にはもう分かっていた。私の気のせいではなかったのだ。
私は静寂の中にいるのではない。静寂が、破れ始めたのだ。
書斎の隅に置かれた「鳴動石」が、闇の中でより一層深く、嘲笑うかのように沈黙している。私は、ハドソン教授が歩んだ狂気への道を、今まさに、その第一歩を踏み出してしまったのかもしれない。そしてその道から、もはや引き返すことはできないであろうことを、予感していた。
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