第四章 あれは…僕じゃない

第四章 あれは…僕じゃない


第一話


 最近、学校の空気が変わってきている。

明確に“何か”が起きているわけじゃない。

でも、そうとしか思えなかった。

無言の時間が少しずつ増えて、

廊下ですれ違う誰かの目が、ほんの一瞬、鋭くなった気がして。


「なんだよ、ただの気のせいだろ」

そう思おうとするたび、心の奥ではっきりと声がする。

——お前は、見たじゃないか。

そう。

“自分そっくりの何者か”が、こっちを睨んでいた。

あれは絶対に幻覚なんかじゃなかった。

あれ以来、僕はひとりで帰れなくなった。


 放課後、昇降口のベンチで体育館の方を見ながら、

僕はいつものように祐真を待っていた。

祐真は、気にしていないようでいて、ちゃんと毎日付き合ってくれていた。

そのことが、ありがたくて、悔しくて、少しだけ情けなかった。

「お待たせ、今日もいっしょに帰宅警備隊?」

「……ありがと」

「いいって。お前が震えながら後ろから来られるほうが怖いし」

そんな軽口を叩きながら、僕たちは並んで歩き出した。


 夕暮れの住宅街は静かで、

カラスの鳴き声だけが空に響いていた。

歩道のアスファルトに夕陽が反射して、影が長く伸びる。

僕たちの影も、並んでいた。

……いや。影が、ひとつ、増えていた。

ふと、祐真が立ち止まった。


「……あれ、なんか今、いたよな?」

その声に僕も足を止め、視線を向ける。

塀の向こう。

フェンスに囲まれた古びた駐車場。

日中は使われていない空き地のような場所。

その端に——誰かの影があった。

夕陽を背にして、はっきりとは見えない。

けれど、それが僕に“似ていた”のが、直感でわかった。

「……やめよう、行かないほうがいい」

「お前が見た“自分”ってやつが見間違いだって証明しなきゃ。 確認だけしようぜ」

祐真は、僕の腕を引っ張るようにして、フェンスの隙間から駐車場に入った。

僕は足がすくみそうになったけれど、祐真の後を追った。


 一歩、また一歩。

乾いた砂利の音が、やけに大きく響く。

——そこにいた。

人?

男性?

学生服?

僕…?

そうだ…僕が、いた。


僕と同じ制服。

同じ髪型。

同じ顔。

でも、そいつは僕を見たとき、微笑んだ。

ほんのわずか、口の端を吊り上げて。

祐真が、言葉を失ったまま横にいた。

「おい……響……あれ……あれ…お前だよ…な?」

「……わからない……でも、ちがう。あれは…俺じゃない」

そいつは一歩、こちらに足を踏み出した。

足音がまったく同じで、背筋に冷たいものが走る。

何かを言うでもなく、ただこちらを見つめてくる。

祐真が、すっと前に出た。


「おい、お前……誰だ?」


返事はない。

けれどそいつは、一歩、また一歩と近づいてくる。

「……響、逃げろ」

「え?」

「いいから、走れ!!」

その叫びと同時に、僕の足は反射的に動いた。

背中に祐真の声と、もうひとつの僕の足音が重なる。

心臓の音が、世界を塗りつぶす。

ただ一つの確信が胸にあった。

——あれは、“僕”じゃない。



 翌日の教室。

窓の外は雲が厚く、朝からずっと陰鬱な光しか差してこない。

机に肘をついてうつむく僕の隣で、祐真が低く声を落とした。


「……なあ、昨日のこと、やっぱ警察に行かないか?」

僕は返事をしなかった。

「さすがにさ、見たろ? 俺も見た。あれ、絶対ヤバいだろ」

祐真の目は真剣だった。

いつものような軽口は一切なかった。

「……でも」

「“でも”じゃねえよ。お前の分身が実際に存在してて、俺ら襲われかけたんだぞ? 何もしないのはおかしいだろ」

僕は、机の上で拳を握った。

「……仮に行ったとしてさ。俺たち、なんて説明すんの?」

「え?」

「“自分にそっくりな人間がいて、追いかけてきた”って言うの?

“俺がもう一人いて、影から笑ってた”って?」

「……」

「誰が信じるんだよ……

証拠もない。写真もない。何もされてない。

俺がそこにいた、って話をしても、“いたのはお前だろ”で終わる」

自分で言いながら、喉がつまった。

「そんなこと言ったら……“気が狂ってる”って思われるだけだよ……」


 祐真は黙った。

唇を噛みながら、視線を落とした。

教室にはざわめきがあった。

窓の外のグラウンドではサッカー部が練習を始めている。

けれど、その“日常の音”が、どこか遠くに感じた。

そしてそのとき——


「やあ、二人とも、元気か?」

朗らかな声が背後からかけられた。

担任の佐々木先生。

化学の担当で、知的で声が柔らかくて、クラスでも人気がある先生だった。

笑顔で、僕らの隣にしゃがみ込むようにして視線を合わせてくる。

「なんか最近、二人とも元気ないみたいだぞ。悩み事か?」

「……あ、いえ……大丈夫です」

反射的に返事をしたけれど——

その瞬間、背筋に氷が這った。


先生は、笑っていた。

いつものように、優しく。

でも、目が、笑っていなかった。

目の奥が、濁っている。

焦点が合っていないような、何かを演じているような、そんな目だった。

そして、微かに口元が引きつっていた。

「……そうか。それならよかった。うん、何かあったら、いつでも相談してくれよ」

先生は立ち上がり、ほかの生徒の方へとゆっくり歩いて行った。

その背中を見送りながら、僕と祐真は顔を見合わせた。

何も言ってないのに、同じ疑問が頭に浮かんでいた。


——今の、佐々木先生……なんか佐々木先生じゃない

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