第一章 昼下がりと、女神の横顔

第二話


 その日、放課後の教室には、もう誰もいなかった。

ホームルームも終わり、部活へ行く者は消え、帰る者も去っていく。

教室に残ったのは、僕と——白鷺ユリだった。


「……まだ帰らないの?」

そう尋ねたのは、僕だったと思う。

自分でも意外だった。普段の僕なら、話しかけることなんてしなかったはずなのに。

ユリは窓の方を向いたまま、少し首を傾けた。

「静かだから、ここ」

「……うん。わかる」

そのとき、彼女が手にしていたのが文庫本だったことに気づいた。


 それは、僕が一週間前に図書室で読んでいたものと同じだった。

「それ、好きなんだ。俺も読んだよ」

「そう。なんか、主人公が……ちょっと、似てる気がして」

「え? 誰に?」

「あなたに」

僕は一瞬、返す言葉を失った。

でもユリはそれ以上何も言わず、椅子をひとつ動かして、僕の隣に腰を下ろした。


 それからしばらく、何も話さなかった。

ただ、並んで座って、風の音や誰かが遠くで閉めたドアの音を聴いていた。

不思議と落ち着いた。

緊張よりも、静けさが心に広がっていた。


「……ねえ、真嶋くん」

「なに?」

「真嶋くんって、何型?」

「何型…?」

「うん、血液型」 唐突な質問に響は一瞬動きが止まる。

「えーっと、AB型だけど…」

「そっか」 ユリの口元がかすかに笑ったように見えた。

「なんで? なんでそんなこと聞くの?」

「う、うん、なんでもない。ただ聞きたかっただけ」

響は隣に座る学年一に美少女にプライベートなことを聞かれ、まんざらではない顔になっていた。

「白鷺さんは?」

「私もAB型」

「そ、そうなんだ…一緒なんだ」 響は嬉しそうに言った。

そんな浮ついた響にユリは無表情に 


「真嶋くん?」

「え?」

「どうして、いつも、なにか隠しているような表情するの?」

突然、まったく予期せぬ方向からの質問に響は戸惑う。

「隠してる? どういうこと?」

ユリの方を見るが、ユリはじっと響の目を静かに見ているだけだった。

「い、いや…なにも隠してなんかいないよけど…」

ユリはそれを聞いて、かすかに目を伏せた。


 そして——ふいに、僕の顔をまっすぐ見た。

瞳の奥が、揺れていた。

何かを求めるような、でも自分でもそれが何か分からないような、そんな目。

そして、言葉の代わりに——

彼女は、ゆっくりと顔を近づけてきた。

距離が、ひとつ、またひとつと縮まっていく。


 息遣いが混ざるほど近くなったとき、僕は目を閉じた。

唇と唇が、触れ合った。

一瞬だった。

本当に、触れただけ。

まるで風が頬を撫でるくらいの、かすかな熱。


——と思った、そのとき。

ユリの手が、僕の首筋に触れた。

そのまま、彼女は僕の顔を強く引き寄せる。

次の瞬間、彼女の唇が、もう一度——深く、重なる。

驚いた。

抗おうとして、でも動けなかった。

頭の中が真っ白になる。

唇が押しつけられる。

息を奪うように、舌が割り込んでくる。

口内を這うように、熱が流れ込み、甘くて苦い感覚が脳を刺す。

目を開けると、すぐそこに彼女の顔があった。


 まぶたを閉じたままの横顔。

長い睫毛が震え、吐息が熱を帯びている。

まるで——彼女の奥にある何かが、僕の中に流れ込んでくるようだった。

僕はただ、息を止めて、それを受け入れていた。

気がつけば、時間の感覚も消えていた。

ようやく離れたとき、僕は、何も言えなかった。

視界が霞む。

喉が渇く。

手が震えている。


「……びっくりした?」


ユリがそう言った。

わずかに潤んだ瞳で、口角を少しだけ上げる。

「ちょっと、試してみたくなったの。ごめんね」

声は優しいのに、どこか含みがある。

可愛い笑顔なのに、冷たい水の中で咲いた花みたいに、掴めない。

「……えっと……」

何を言えばいいのか、言葉が出てこなかった。


 彼女はそれ以上は言わず、立ち上がって教室を出ていった。

その後ろ姿が消えたあとも、僕はしばらく、動けなかった。

唇がまだ熱を帯びていた。

そして、心の奥のどこかで、わずかな不安が芽生えていた。


——これは、ただの恋じゃない。

そんな予感が、ふと、首筋を撫でた気がした。


 放課後の教室を出たあと、僕はしばらく中庭のベンチでぼんやりしていた。

風が冷たくなってきたことにも気づかず、

視線だけ空を見上げて、何度も、さっきのことを思い返していた。


——あれは、夢じゃない。

けど、どうしても、夢みたいだった。

唇に、まだ感触が残っている。

口の中の温度も、心臓の高鳴りも、まだ続いている。

「……ディープキスって、ほんとにするんだな……」

誰に言うでもなく呟いたその瞬間。

「……なに、今の独り言?」

後ろからいきなり声がして、心臓が跳ねた。


 振り返ると、祐真がジュース片手に立っていた。

どうやら自販機帰りらしい。

「……えっ? いや、なんも……」

「お前、今日マジで変だぞ。顔ゆるみっぱなし」

「……ゆるんでない」

「いや、ゆるんでるって。っていうか、なんかやった?」

「やってないって!」

即答したけど、否定の声が一オクターブ高かった気がする。

祐真はニヤニヤしてるし、もう逃げるしかなかった。

「じゃ、先帰る!」

「はいはい、爆ぜろ爆ぜろ青春爆発!」

叫ぶ祐真を背にして、僕はそそくさと帰路についた。


 家に着くころには、少しだけ落ち着いてきたつもりだった。

玄関を開けると、台所から母さんの声。

「おかえり、響。今日は早いのね」

「うん、たまたま」

靴を脱ぎながら答える。

けれどそのとき、自分がニヤけてることに気づいた。

慌てて表情を引き締める。

でも母さんは、僕の顔を見るなり、眉をひそめた。


「……なんか、いいことあった?」

「え? べつに?」

「うーん……なんか怪しいな。顔に“何かありました”って書いてるよ?」

「か、書いてないし!」

「お母さんのカンをなめるなよ~?」

母さんは笑いながら鍋をかき混ぜていたけど、

僕はそれ以上その話を広げたくなくて、そそくさと部屋に逃げた。


 扉を閉めたあと、ベッドに倒れ込む。

天井を見つめながら、もう一度、あのときの感触を反芻する。

ほんの少し開いた唇。

あの引き寄せる手の熱。

溶けるような、でもどこか掴めないキス。


——白鷺ユリ。

一体、あれはなんだったんだろう。

ただの気まぐれ? 冗談? それとも、何かの罠?

考えようとして、考えるのをやめた。

とにかく、もう一度会いたい。

それだけが、頭の奥に浮かんでいた。

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