終章 迷う人②
霖は話題を変える。
「顔色が良くないね。何か温かい飲み物でもどう?」
「いただくわ」
「うーん……甘い杏仁湯? でも君は好みも大人びていそうだからなあ……龍井茶の方がいいかな?」
小龍は霖の視線をくすぐったそうにした。
「人から観察されるのは、なんだか不思議。あなたから見た私を教えて?」
「そうだねえ。君は将来、甘味よりお酒に走りそうだ。おそらく底なし。肝を患うことはないだろうけれど、一日二合までにしなさいね」
「どうして?」
「たぶん酔っても顔色一つ変えないで、人の秘密を延々と暴きはじめる。
だから二合まで。それ以上は国が傾く」
小龍は吹き出した。
「肝に銘じておくわ」
「お酒だけに?」
「それは笑ってあげない」
返しは冷たいが、小龍は表情をなごませた。
「桂花陳酒を白湯で割って、と思っていたけれど、やめるわ。杏仁湯をちょうだい」
「甘さは?」
「控えめで。あなたも一緒にどう?」
「遠慮なくご相伴にあずかるよ」
ほどなくして、霖が白磁の椀を運んできた。
金彩のフタを開けると、ほのかな甘い香りが漂った。
温かい湯気に包まれながら、小龍は一口すする。
「――ん」
思わず目を見開く。控えめのはずが、しっかり甘い。
「甘味も人生も、甘すぎるくらいが丁度いいと思うんだよね」
霖はほおをゆるませて、さらに砂糖を足している。
小龍は黙って、そのまま二口、三口と重ねた。
とろみと温もりが体の芯にまで染みてくる。
椀が空になるころには、唇に血の色が戻っていた。
「私……母が嫌いだったの」
小龍は上品に、手巾で口元をぬぐった。
「人を思い通りに動かすのが大好きで、卑怯なこともウソも平気。
欲深くて、自分勝手で。本当に大嫌いだった」
声を荒げることもなく、小龍は淡々と語る。
「母にとって、私はただの飾り。自分をよりよく見せるための道具。
最近は飾りの方が目立ってきていて、ちょっと邪魔そうだった」
小龍はぎゅっと手巾を握りしめた。
娘にとって母は、理不尽な暴君だった。
「嫌いだったのにね。あなたがインチキを暴いたとき、ほっとしたの。
ああ、これで母の目は覚める。やっとふつうの親子になれるって……」
それは母が刺された瞬間よりも、衝撃的なことだった。
憎んでいたものに、すがっていた。その事実に、小龍は深く傷ついた。
「あの人、刺した人のことも、支えた私のことも、全然見なかった。最後まで自分の世界だけを見つめていたわ」
霖は何も言わず、黙って小龍の独白を聞いてくれた。
「信者の人達も、そう。白霖さんが真実を語ってくれれば、みんな目が覚めると思ったのに……結局、最後まで覚めない人もいた」
霖は口を挟んだ。
「ひょっとして、君。僕が今日、何をしようとしていたか気づいていたの?」
「ええ。何度かインチキを暴こうとする人に遭ってきたから、そういう人はもう雰囲気で分かるようになったわ」
「僕、玄視堂を調べていたら、破門されそうになったことがあったんだけど――」
「止めたのは私よ。きっとそのうち騒ぎを起こしてくれるって、期待していたの」
霖は感嘆し、小龍を気の毒そうにした。
「君は真実が人を幸せにすると信じていたんだね」
「そうよ。――でも、違った。違うって知っても、受け入れられなくて。
なぜ、どうしてって。疑問で頭いっぱいになって、倒れちゃった」
空っぽの椀に、涙が落ちる。
霖は胸に小さな頭を抱いた。
「……白霖さん。私、これからどうなるの?」
「君は? これからどうしたい?」
小龍は答えられなかった。
母親に従い続けてきた子供にとって、未来というものはあまりに漠然としていた。
「……僕は、君はある意味で“本物”だと思う。
君がこのまま龍娘娘を演じ続けたとしても、きっと人々はついてくる。
龍玄宗はウソに満ちていたけれど、君だけは信じる価値がある」
すると、小龍はきっぱりと首をふった。
「私は、嫌。ふつうに暮らしたい。
輿になんて乗っていないで、自分の足で歩きたい。自分のものは自分の手で持ちたい。
龍娘娘なんて、もうまっぴら」
皮の薄い足を、真白い手を、小龍は不満げにした。
部屋は王宮で三番目に豪華だが、小龍にとってはただの窮屈な檻だ。
「今の私に分かるのはそれだけ。どうしたらいい?」
「ふつうの暮らし……かあ」
霖は宙を見上げた。
一呼吸の後、指先で次々と縦線を引いていく。
紙に書いた選択肢を一つ一つ消していくように。
やがて指先がある一点で止まった。
「なら、僕の娘になる?」
「白霖さんの?」
「正体を隠して暮らすなら、僕のところが適当だと思って」
「……確かに。教団を崩壊させた人の所に私がいるなんて、思わないわよね」
小龍は未来を具体的に想像してみた。
「あなたとの暮らしは楽しそうだけれど……白霖さんは一人でしょう?
独り身で、子供もいない。また奥さんを取るつもりもないのよね」
「ああ、にぎやかなお家がいいのかな? 実家に帰ればそういう暮らしもできるけど……高尚な訓戒の暗唱で起こされる家って、耐えられる?」
「私、できれば朝は小鳥のさえずりで目覚めたい」
「よかった。僕も同意見だ」
霖は仲間を得たとばかりに、深くうなずいた。
「三人なら、どう? もう少ししたら弟も一緒に住む予定なんだ」
「あなたの弟ということは、私には叔父になるのかしら?」
「そうだね。弟は君より六つ上だから、叔父というよりお兄さんかもね」
「まあ。叔父、兼、兄なんて。すごくお得」
小龍は手を叩いた。
「どんな人? 今の私の叔父よりマシかしら?」
「君の叔父というと皇帝陛下のことだよね……その比較は難しいなあ」
「この前、何もしてないのに、叔父に髪をつかまれたの。
姉に逆らえないから私にあたるなんて、理不尽だわ」
「そういうことは絶対ないね。理不尽どころか理屈尽くで動く性格だ。
でも情はあるから、融通が利かないわけでもない。
堅物な叔父さんは、どうかな?」
「私は結構いい加減なの。きっとちょうどいいわ!」
小龍は錦のかけ布をぽんと蹴飛ばした。いそいそと寝台から出る。
「決めたわ。私、あなたの娘になる」
「そう。じゃあこれからよろしくね、娘」
「はい、よろしく、お父さま」
小龍と霖は、仲良く手と手を取り合った。
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