五章 恋う人④

 一日が終わり、後宮は静けさに包まれていた。

 今日は満月で明るい。月光が、夜道を行く二人の先を照らしていた。


「この中に孤苓さんをお呼びしています」


 杏は使われていない、無人の院の前で足を止めた。


「いいですか、叔父上。今から私がすることを、完全に再現してくださいね」


 杏は咳払いを一つした。

 すべてを包み込むような優しい微笑を作り、そっと律を抱きしめる。


「『孤苓、おまえの気持ちは受け取った。

 どんな苦労も、どんな涙も、俺がすべて引き受ける。

 だから俺と付き合ってくれ。かならず幸せにする』――覚えましたか?」


 律は無表情だった。淡々と、杏を押し返す。


「触るのは、後宮の掟に背く」

「ダメです。それでは本気さが出ません」

「……代わりに、何か渡す方向でもいいか?」

「ふむ、まあ、いいですよ。香包でも出してください」


 律は蝶番の壊れている門に手をかけた。

 しかし、なかなか動かない。ためらっていた。


「大丈夫ですよ。私の見立てが正しければ、孤苓さんは叔父上になびきません。告白しても、断られます」

「……どうにも、確信が持てないんだが」


 律は手の中にある、高価なすずりを見下ろした。


「もし付き合うことになったら、私が横から叔父上を略奪します。ご安心を」

「略奪……俺がされるのか」


「ほら、早く。あと二人もいるんですから。行きますよ」

「おまえはそこで待ってろ」


 律は外に杏を押し留め、一人で中へ入っていった。

 少しして、孤苓だけが門から出てくる。

 何の未練も見せず、待ち合わせ場所から走り去っていった。


「……本当に断られた」


 遅れて、律が肩透かしを食らったような顔で出てきた。


「幸せになりたいといっていたのに……なぜ逃げた?」

「人の心は不思議なもので。幸せになりたいといいながら、心の奥底では幸せを望んでいないこともあるんですよ」


 予想がぴたりと的中したので、杏は鼻高々だった。得意げに説明する。


「不幸でいたい理由は色々です。人から同情されたいとか、幸せの後に来る不幸が怖いとか。

 孤苓さんの場合は、不幸に慣れすぎてしまったからでしょうね」


 自分は幸せになれるはずがない、と思いこんでいる。

 ろくでもない幼馴染と縁を切れないのも、それが一因だ。


「彼女が幸せをつかむには、まず、その考えを変えないといけないんですよ」

「……不幸でいたい、か。難儀なことだな」


 次に二人は、蓮池へと向かった。

 風に揺れる柳の下では、魏沈雅が待っていた。


「では叔父上。次のお手本です」


 杏は咳払いを一つした。

 律の手を取る。表情は知的に、しかし声には情熱をこめる。


「『魏沈雅殿、俺は冷静に考えた。

 婚姻には温もりより、共に未来を切り拓く知恵が必要だ。

 あなたの聡明さこそ、一緒に人生を歩むにふさわしい。

 どうか俺の伴侶になってくれ』――覚えましたか?」


 律は握られた手を引いた。若干、首筋に鳥肌が立っていた。


「手、取らないといけないのか?」

「そうです。これがないと効果半減です」


 引け腰の律に、杏は断言する。


「求婚を承諾されそうになったら、私が前世からの許嫁だと名乗り出ます。ご安心を」

「前世までさかのぼる必要があるのか……?」


「ぐずぐずしてると、帰っちゃいますよ。行きましょう」

「おまえはここで待ってろ」


 どことなく目がキラキラしている姪を置いて、律は池へと向かった。

 ややしてから、優美な人影がきびきびと宮殿へ戻っていく。


「……本当に断られた」


 律が気の抜けた顔で戻ってきた。


「結婚したいのだろう? なぜ、ことごとく断る?」

「人の心は不思議なもので。好きといわれると、途端に相手を嫌いになったりするんですよ」


 またも予想が的中したので、杏は得意げに胸を張った。


「なぜだ? 普通は嬉しいものだろう?」


「彼女のように自分を卑下する人は、こう考えてしまうんですよ。

 ――つまらない自分を愛するような男なんて、大したことはない、と」


「……求婚された瞬間に、気持ちが冷めるのか」

「うるわしの君が、急にカエルに見えてしまうんです。気の毒ですけど」


 柳の木の下で、蓮池から出てきたカエルが鳴く。


「愛された瞬間、嫌いになるとは。厄介なことだな」


 律は嘆息した。

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