一章 偽る人③
妃嬪に加え、数千人の女官や宦官が働く後宮は、まるで一つの街のようだ。
中心には皇帝と后の宮殿がそびえ、その両翼には妃嬪の華やかな宮殿がならんでいる。
杏はその一角を横目に、石畳の上を進んだ。
今日はよく晴れ、陽の光も穏やかだ。たくさんの妃嬪たちが、春の空気を楽しんでいる。色とりどりの衣が風にそよいで、美しい花のようだ。
花園では、どこかの妃が仲間を集めて琵琶を奏でていた。王の宮殿らしい、のどかで優雅な光景だ。
「そういえば、あれってどういう意味があるんですか?」
杏が指したのは、いくつかの院の門口に置かれた盛り塩だ。
となりを歩く律が、小さく笑う。
「あれは、一種のまじないだ」
「おまじない?」
「昔、ある皇帝が羊に車を引かせて後宮を回っていた。
どこで夜を過ごすかは、羊が止まったところ次第。
そこで妃たちは塩や竹の葉を戸口に置き、羊を引き止めようとした。その名残だ」
「はー、なるほど。皇帝が来るようにってことですね」
「ウチもしてあるヨ、ホラ」
東側の院が見えてきた。瑠那の言うように、韻夫人の門前にも塩の山があった。
竹の葉も添えられているが、他とは少しだけ違った。
「お塩が白くなくて、赤っぽいですね」
「お嬢サマが龍玄宗から買ったトクベツな塩! 効き目バツグン!」
教団の名を聞いて、杏は唇をとがらせた。
「あの、叔父上。どうしてまだ龍玄宗が信じられているんですか?
龍玄宗の“奇跡”はタネもしかけもあるインチキだと、父上が暴きましたよね?」
律は軽く肩を落とす。
「暴いたことは事実だが、全部闇に葬られた」
「どうして!」
「教祖の龍公主が、当時の政の中心にいたからだ。
公になれば、国が揺らぐ。だから“奇跡”は奇跡のままだ」
杏はぽかんと口を開けた。空に叫ぶ。
「天龍様のお力を騙ったインチキが見過ごされるなんて、それこそ天への大逆じゃないですか~!」
「声が大きい」
律は騒ぐ口をふさいだ。杏はしぶしぶ声量を落とす。
「龍娘娘が、陰后様の宮殿にいると聞きましたけど。本当なんですか?」
「本当だ。陰后は四年前に流産して以来、二人目のお子を強く望まれている。それで龍娘娘に頼っているんだろう」
龍玄宗は過去、子に恵まれない妃を懐妊させるという“奇跡”も起こしている。
「龍公主は、インチキを知って怒った信者に刺されて死んだのに。彼女、よく戻って来ましたね」
杏が皮肉っぽく言うと、律は控えめに訂正した。
「自分で戻って来たというより、おそらく、連れて来られたといった方が正しい」
「だれにです?」
「内侍監の
宦官たちが、律を無遠慮に見つめながら通り過ぎて行く。
全員の腰に、龍玄宗のお守りが揺れていた。
「龍公主は奇跡を使って、妃嬪や宦官を信者に取りこんだ。
信仰の力で後宮を支配し、宮廷をも掌握した。
仇信は第二の龍公主になろうとしているのだろう」
「はあ……なんとも、厄介なことで」
杏は憮然とした面持ちで、赤い塩の山を指で崩した。
不意に、院の奥から美しい調べが聞こえてくる。
「あれ……こちらでもどなたか、琵琶を演奏なさっていますね」
「コレ、お嬢サマ。楽器、得意」
瑠那が我がことのように胸を張る。
その自慢は大げさではなかった。院の近くを通る女官たちの足が、音に引かれて思わず緩んでいた。
「さきほど花園で演奏していた方もなかなかでしたが……こちらの音色の方が、心を揺さぶられる気がしますね」
「花園にいたのは
律が少し考えてから応じる。
「新年の楽会では、彼女が毎年のように独奏を務めているが……韻夫人が選ばれたことがないのが不思議なほどだな」
「お嬢サマ、可哀想。見た目でダメ。選ぶ人、見る目ナイ」
瑠那はつま先で小石を蹴った。
「気の毒に。陛下がお選びになるなら、結果は違ったろうに」
「演奏、だれも聞かナイ。だからお嬢サマずっと病気。可哀想」
「……ふむ?」
杏は指についた赤い塩を舐めた。まろやかな塩味で、ただの岩塩だと分かる。
「瑠那! 瑠那はどこ? まだ戻ってこないの? 本当にグズなんだから!」
院の奥、中庭に面した回廊に、韻夫人が姿を現した。
瑠那があわてて駆けだす。
「戻りました、お嬢サマ。医官、連れてキタ」
「遅いわよ! ――って、それ」
「どうも、いつかのヤブですー」
あいさつするや否や、杏に向かって琵琶の
「何であんなの連れてきたのよ!」
「他、どこも断られて……」
「この役立たず!」
怒声が響く。中庭の隅で、女官たちは肩を寄せて縮こまっていた。
「相変わらずですね」
杏がそっと近寄っていくと、女官たちは肩を広げた。
すでに顔見知りだ。同じ苦労を味わっている者同士、気安さが生まれていた。
「気の強いお方ですよね、韻夫人。ご両親には甘やかされてお育ちで?」
「父君は相当甘いようですわ。ひんぱんに物が届きますもの」
女官の抱えているカゴには、美しい絹布と文が詰まっていた。
「父君は、ということは、母君は……?」
「実母はすでになく、父君のご正妻とは不仲だったそうです」
韻夫人は妾腹の娘ということだ。
「瑠那の話では、腹違いの兄妹にも嫌がらせを受けていたとか」
「あのご容姿は、注目を集めますよね。良くも悪くも」
杏は、陽光で金に輝く髪を横目にした。
「瑠那の背に隠れて、泣いていたこともあったそうですよ」
女官の補足に驚く。
瑠那に怒鳴り散らす今の姿からは、想像もできなかった。
「でも……だからこそ韻夫人の音色は、あんなにも胸に迫るものがあるのかもしれませんね」
杏はまぶたを閉じて、先ほどの音色を思い出した。
まるで翡翠の珠のような音色だった。何度も削られ、角をすり減らされ、傷だらけだからこそ美しく光る。
「才に気づいたが父君が、幼い頃から厳しく鍛えさせたそうですから」
「では、舞台に立てない今の状況は、悔しさもひとしおでしょうね」
韻夫人に突き飛ばされ、瑠那が地面に転んだ。
主人が去ってから、女官の一人が助け起こす。
「大丈夫、大丈夫。心配ナイ」
瑠那は顔に砂をつけたまま、子供のように笑う。
あまりの屈託のなさに、杏はいっそ感嘆した。
「瑠那さん、あんな目に遭っているのに、本当に明るいですよね」
「そうなんです。それがせめてもの救いです」
うなずいて、女官は回廊に立てかけてあるホウキに気付いた。
「あの子、また出しっぱなしだわ。片付けてくる」
「余ったちまき、瑠那にあげましょう」
下手にかばえば自分たちが八つ当たりの的だ。惜しみない同情を捧げながら、女官たちは女官たちなりに哀れな同僚を労わった。
「ちなみに戸口の塩って、おいくらだったんです?」
杏の問いに、女官は肩をすくめた。
「代金は同じ重さの金よ」
法外な値段に、杏だけでなく律も呆れた。
「俺はそろそろ行くが――おまえは? 戻らないのか?」
「せっかく来たんですから、お茶くらい頂いて帰りたいじゃないですか」
大胆なことをいう姪に、律は目を見張った。
「おいおい、今度は湯をかけられるぞ」
「帰っても閑古鳥の世話をするくらいしかないんですから、いっそ治ると困る病の治療にあたってみますよ」
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