第3話 深雪の独り寝
子の刻をとうに過ぎても、天からの白き使ひは絶ゆることなく、音もなく世を埋め尽くしてゆく。風の音すら聞こえず、がらんとしたる室(むろ)の内には、己が衣擦れの音のみが、大きく響きては消ゆる。都の華やぎも、人の気配も、今は夢のまた夢。ここは世に忘れられし北の片田舎、荒れたる家の内に、女ひとり、長き夜を明かしわびてゐたり。
几帳も古び、綻びたる隙間より、冬の精がそっと忍び入る心地す。火桶に埋もれし炭火は、今は昔の賑はひを偲ぶ赤き涙のやうに、か細く瞬き、やがては白き灰に身を隠さむとする。その頼りなき光が、物思ひに沈む女の顔を幽かにてらし、影を濃くする。その頬を伝ふものありとも、見る人はゐない。
かつては、この同じ火桶を囲み、君と笑み交はし、明くる日も知らず語らひし夜もありき。君が声、その手の温もり、今は幻となりて、この凍える身を一層苛む。「雪が降り積もれば、道も閉ざされ、最早どこへも行けぬゆゑ、そなたの許にのみあらむ」と囁きし君は、いづこへ。都より聞こえ来るは、あやしの女の噂ばかり。君が心は、そちらに燃え尽きて、この鄙(ひな)の住まひは、捨て置かれし古筵(ふるむしろ)のやうに、冷え果ててしまったのか。
『待つ』といふ行ひこそ、我が命をつなぐ唯一の術(すべ)なれど、その行ひが我が心を蝕む毒ともなりにけり。今宵こそはと胸を高鳴らせ、遠き犬の鳴き声にさへも耳を澄まし、やがては諦めに項垂(うなだ)るる。その幾夜重ね来つらむ。
ふと障子の向かうに目をやれば、庭の老松が、降り積もる雪の重みに、今にも折れんばかりに枝をしならせてゐる。健気にも耐へ忍ぶその姿が、我が身の上と重なりて、いとあはれなり。言葉にせねば、この身、雪に埋もれて消え失せむ。溢るる想ひ、ただ歌にのみ託すほかなしと、凍える指先で、冷え切った硯の水をすり、震へる手して筆を取りぬ。
降り積もる 雪に埋もるる 松が枝(え)の いつかとけてふ 世を待ちわびて
歌ひとつ詠みたるにて、この心の闇、晴るるべくもなし。かへりて、言葉となりし我が悲しみは、くっきりと形を持ちて、いや増して胸に突き刺さる。頬を伝ふ涙も、やがてはこの寒気に凍りつかむ。さもあらばあれ。心も何もかも、この深雪と共に凍てつき、感覚さへ失せてしまへば、いかばかり楽ならむか。
されど、愚かにも、耳はなほ、遠き雪道を踏みしめて来る人の足音を、待ち望むをやめぬ。
夜は深く、白く、果てしなく続く。我が魂は、この白き闇の中を、あてもなく彷徨ひ歩くばかり。戸の向かうでは、雪がまた一層、深々と降り積もるのであった。
(現代語訳)
夜中の12時をとうに過ぎても、空からの白い使い(雪)は絶えることなく、音もなく静かに世界を埋め尽くしていきます。風の音さえ聞こえず、がらんとしただだっ広い部屋の中では、自分の衣服がこすれる音だけが大きく響いては消えていきます。都の華やかさも、人々の賑わいも、今となっては夢のまた夢のようです。ここは世間から忘れられた北の片田舎。荒れてしまった家の中に、女が一人、長い夜を持て余し、寂しさに苦しんでいます。
部屋を仕切る几帳(移動式のカーテンのようなもの)も古びて、その布のほころびた隙間から、冬の精霊がそっと忍び込んでくるような気がします。火鉢に埋もれた炭火は、まるで昔の賑やかだった日々を思い出して流す赤い涙のように、か細く瞬いて、やがては白い灰の中に姿を隠してしまいそうです。その頼りない光が、物思いに沈む女の顔をぼんやりと照らし、影をいっそう濃く見せています。もしその頬を涙が伝っていたとしても、それを見てくれる人はいません。
かつては、この同じ火鉢を二人で囲み、あなたと微笑み合い、夜が明けるのも忘れて語り合った夜もありました。あなたの声、その手の温もりは、今では幻となって、この凍えるような身をさらに苦しめるのです。「こんなに雪が降り積もったら、道も閉ざされて、もうどこへも行けやしないから、ずっとお前のそばにだけいよう」と囁いてくれたあなたは、今どこにいるのでしょうか。都から聞こえてくるのは、別の女性の良くない噂ばかり。あなたの心は、その女性にすっかり夢中になって燃え尽きてしまい、この田舎の家は、打ち捨てられた古い敷物のように、すっかり冷え切ってしまったのでしょうか。
「待つ」ということだけが、私が生きている証であり、命をつなぐ唯一の手段のようです。しかし、その「待つ」という行為そのものが、私の心を蝕んでいく毒にもなっています。今夜こそは来てくれるかもしれないと胸を高鳴らせ、遠くで犬が鳴く声にさえも期待して耳を澄まし、そして結局はがっかりしてうなだれる。そんな夜を、もう幾晩重ねてきたことでしょう。
ふと、障子の向こうに目をやると、庭の古い松が、降り積もる雪の重みで、今にも折れてしまいそうに枝をしならせています。必死に耐え忍んでいるその姿が、自分の境遇と重なって見え、たまらなく哀れに感じられます。この思いを言葉にしなければ、この身も雪に埋もれて消えてしまいそうだ。溢れ出してくる感情を、歌に託すしかないと、凍える指先で、冷え切った硯の水をすり、震える手で筆を取りました。
降り積もる 雪に埋もるる 松が枝(え)の いつかとけてふ 世を待ちわびて
(降り積もる雪に埋もれてしまった松の枝のように、ひたすら待ち続ける私が、いつかはこの雪が溶け、そしてあなたの心も解けて、二人の仲が元に戻る日を待ちわびています。)
歌を一つ詠んでみたところで、この心の闇が晴れるわけもありません。かえって、言葉になった私の悲しみは、はっきりとした形を持って、より一層、胸に突き刺さります。頬を伝う涙も、やがてはこの寒さで凍りついてしまうでしょう。もう、それでも構わない。心も何もかも、この深い雪と共に凍てついて、感覚さえ失ってしまえば、どれほど楽になることでしょう。
けれど、愚かなことに、私の耳は今もなお、遠い雪道を踏みしめてやって来る人の足音を、待ち望むことをやめられずにいるのです。
夜は深く、白く、果てしなく続いていきます。私の魂は、この白い闇の中を、目的地もなくさまよい歩くだけ。家の戸の向こうでは、雪がまた一段と、深く、深く、降り積もるのでした。
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