心霊バイク便

VmarutaX

プロローグ 深夜の配達

その夜は、梅雨らしい蒸し暑さに包まれた、寝苦しい金曜日の夜だった。


エアコンのないゆいの部屋は、2階の東側に窓があり、南側にはベランダに通じる掃き出しのサッシがついている。両方を網戸にし、東の出窓に扇風機を置くのがいつもの夏の夜の習慣だった。ふだんなら、その涼風だけで眠れる。


だが、その夜は違った。


目を覚ましたのは、暑さのせいではなかった。最初に感じたのは、足先のジーンとしたしびれ。そしてそれが太ももから胸、首筋、頭へと這い上がるように広がっていく。めまいのような感覚に襲われた瞬間、体が突如として動かなくなった。


冷静になろうとしている意識と、パニックに陥る心がせめぎあう。手は動かない。足も動かない。下の階にいる両親を呼ぼうにも、声が出ない。ただ目だけは開いていて、見えるのは自分の部屋の天井だけ。首すら動かず、周囲の状況もわからない。


どうにか動きたい。逃れたい。その思いとは裏腹に、体はまるで石のように硬直していた。


どれほど時間が経ったのか。


――その時だった。


遠くから、バイクのエンジン音が聞こえてきた。


「ボロロロロロロ……」


その音は、ゆっくりと家に近づいてくる。やがて庭先で止まり、「キーー……スタン」とブレーキとスタンドを立てる音が重なった。


(新聞配達?)


瞬間的にそう思ったが、我が家では新聞を取っていない。父の「ニュースはネットとテレビで充分だ」という方針だった。


まだ外は暗い。空が白む気配もない。そんな時間だ。


「ドスッ」


部屋の隅で何かが落ちたような音がした。


目だけをわずかに動かして視線をやる。すると、視界の端に、白くふわっとしたものがかすかに映った。幽かに揺れるような、それが何だったのか確認する間もなく――


再び「ブロロロロ……」というバイクの音が遠ざかっていく。


その音が完全に聞こえなくなった頃、全身から力が抜けた。


汗びっしょりの体を起こし、深く息を吐いた。


そして、さっき何かがあった部屋の隅に目をやる。


タンスの脇に、見覚えのない赤い手帳がひとつ、立てかけるように置かれていた。


「……何、これ?」


6穴バインダー式のシステム手帳だった。


恐る恐る中を開いてみると、年間スケジュールは何も書かれていない。手帳の裏表紙には翔の文字が記されていた。


翔――兄の名前だった。


病気で入院中の兄がメモしているのを見たことがあった。兄のシステム手帳、男なのに、なんでこんなに真っ赤な手帳を使ってるんだろう――。そう思って、ある日聞いてみたことがある。「おにぃ、何で赤なの?女の子みたい」と言うと、「俺が死んだら、お前が使えるだろう!」と言うので、「馬鹿なこと言わないで!」と本気で怒ったのを思い出す。あの言葉が、冗談ではなかったことに気づく。


兄が亡くなって一年、いま目の前にある。兄が亡くなってから手を触れていないはずなのに、スケジュールは今年のものに差し替えられていた。そして、普通のスケジュール帳と違うのは金曜日の枠だけが太字になっていることだった。そして、5月26日(月)兄の命日は赤い太枠で囲われていた。「お兄ちゃん……」


胸がいっぱいになる。


怖さよりも、懐かしさと温かさが胸に広がっていた。


きっと兄が、届けてくれたんだ。


深夜、誰にも気づかれずに。


バイクに乗って――。




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