第9話 見えない世界の姫

 クスクスと笑い合った後、男はひとこと「じゃあ、またね」と爽やかに言って、海へと戻っていった。

 波に溶けるその背中を見た瞬間、俺の中で“確信”が生まれた。

 俺はその場に飛び出し、アヤの前に立ちはだかった。


「アヤ。俺が追ってこないとでも思ったのか?」


 アヤは小さく「あっ」と息を呑み、目を見開いた。


「今の男……海の“人間”だよな?」


「そうだよ。だから、何?」


 アヤはそっぽを向いて答えた。開き直ったような、どこか拗ねたような声だった。


「アヤ、頼む。ちゃんと話してくれ。今、何が起きてるんだ? 父さんたちは……あの男のことを知ってるのか?」


「知らないよ。でもね、あの人は優しい人なの。敵じゃない。海のことをたくさん教えてくれるの」


「……おい待て。お前の姉ちゃんの命を奪った奴らと、親しくしてて何が“優しい”だよ!」


「今、順調なの。だから……お願い、心配しないで」


「心配するな? 無理言うなよ。俺たちに何も知らせず、ひとりでそんなこと!」


 思わず語気を強めてしまう。


「……教えてくれ。あいつらは何を企んでるんだ?」


「まだ言えないの。でも――信じて。私はユウジンたちを傷つけない。お姉ちゃんのことも……絶対、助けるから」


 アヤはまっすぐに俺を見つめた。

 その目には迷いも、嘘もなかった。


……ふざけてなんかいない。アヤは一人で、何かを背負ってる。だから――


「……分かったよ。でも、無理すんな。何かあったら……ちゃんと言え。俺たちは、いつだってアヤの味方だ」


 俺の言葉に、アヤはパッと表情を明るくした。


「うん……! ユウジン、教えてあげるね。あの人の名前、ディランって言うの」


「ディラン、ね」


「初めて海に潜った日、巨大な魚に丸呑みされそうになったの。その時、ディランが身を挺して助けてくれたの。……それから、海のこと、たくさん教えてもらってる」


「……それで好きになったのか」


「ち、違うよ! そ、そんなのじゃないもん!」


 アヤは顔を真っ赤にして、怒ったようにプンスカ頬を膨らませる。


「で? ディランは“先生”ってわけか。他にもいるのか? 海の“人間”」


「うん。まだ行ってないけど……王国があるらしいの」


「王国……?」


「ディランの話によれば、その王国には“お姫様”がいるんだって。でもね、ずっと眠ってて、意識がないらしいの。ずっと、何年も」


「意識が……ない」


 その言葉が、妙に引っかかった。


 俺は表面ではアヤの話に頷きながら、心の中では別のことを考えていた。


――王国。お姫様。意識がない。


 つまり、動いていない今のうちに手を打てば――エナを吸い尽くすその根源を、断てる可能性がある……。


 やるべきことは、ひとつだ。

 今なら……間に合うかもしれない。


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