七、逢瀬

 翌日、朝餉あさげを食べ終わった咲夜花の元へ、須佐之男命が現れて言った。


「クシナダ、出かけるぞ」


「出かけるって、どこにですか?」


「ついてくればわかる」


 須佐之男命は、やわらかな笑みを浮かべると、咲夜花の手をとった。


 引かれるまま咲夜花がついて行くと、須佐之男命は、そのまま長い廊下を抜けて、八雲宮の外へと出て行くではないか。


(一体どこへ行くのだろう……)


 ここで暮らすようになってから、咲夜花が八雲宮の外へ出るのは初めてだ。周りは、白い霧に囲まれていて、自分がどこに立っているのか判然としない。


 歩きながら目が慣れてきたのか、前方に白い塀と赤い門が見えてきた。須佐之男命が片手を前にかざすだけで、触れてもいないのに門が勝手に開いてゆく。門は、全部で三つあった。


 二人が三つ目の門をくぐった先には、深い谷が眼下に広がっていた。咲夜花には、その光景に見覚えがあった。八重垣谷だ。


「うわぁ……!」


 足元に広がる光景を目にして、咲夜花の口から感嘆の声がもれる。


 その時はじめて咲夜花は、八雲宮がどこに建っているのかを認識した。遥か下方に、ちらちらと何かの光が反射して見える。沢だ。周りのつるつるとした岩壁を雨水が流れ落ち、谷底に沢ができている。一体どれくらいの高さがあるのか見当もつかないほど、目のくらむ高さだ。


 ここからどうやって進むのかしら――――そう咲夜花が不思議に思って下を覗いていると、横から須佐之男命が、ひょいと咲夜花を抱きかかえた。


「え」「しっかり俺につかまっていろ」


 低い声が、すぐ耳元でささやいた。まさか――と咲夜花が驚く間もなく、須佐之男命は咲夜花を抱きかかえたまま、急な斜面を駆け降りはじめた。


「き、きゃあああ…………っ!」


 身体がふわりと宙に浮く感覚がして、咲夜花は目をつぶった。あまりの恐怖に、必死で須佐之男命の首にしがみつく。


 落ちていく、落ちていく――――。


 目をつぶっていても、ごぉごぉと風の音が耳元で獣のように鳴り響き、咲夜花の肌をなぶってゆくのがわかる。


「目を開けてみろ」


 耳元で、須佐之男命の落ち着いた低い声が聞こえた。咲夜花は、恐る恐る目を開けてみる。


「……っ?!」


 口を開けたものの、声にならない。視界に、きらきらと輝く水面が広がっている。


 須佐之男命は、咲夜花を抱えたまま沢の上を風のように駆けていた。


 左右の景色が流れるように後ろへと過ぎ去ってゆき、まるで風が二人を避けているようだ。


 咲夜花の腕の中で、須佐之男命が快活な笑い声をあげる。


「はっはっはっ! どうだ、気持ちいいだろう!」


 その横顔は、成人した男のものであるのに少年のような情熱に溢れていた。咲夜花は、眩しいものを見るように目を細めた。


(ああ、やっぱりこの人は、神様なんだわ)


 と、当たり前のことを考えて、咲夜花の胸がきゅうと締め付けられるのを感じた。こうしてすぐ傍にいるのに、その存在がどこか遠い場所にあるような気がした。


 黒い長髪を遊ばせて、咲夜花を抱えた須佐之男命は、沢の水面をかろやかに駆けて行く。


 つい先ほどまで胸を占めていた恐ろしさが、嘘のように消えていくのがわかる。逞しい腕に抱かれながら、咲夜花は身も心も彼にゆだねていった。


 沢を超え、谷を越え、野を超えて…………やがて二人は、草に覆われた集落跡へとたどりついた。


 須佐之男命が、抱えていた咲夜花をそっと地に降ろす。足が地についても、咲夜花はまだ身体がふわふわと飛んでいるような心地がした。


 辺りには、崩れ落ちた家屋が軒を連ねていた。今は誰も住んでいないようだ。


「ここは……?」


 咲夜花が不安げな視線をやると、須佐之男命は安心させるように目尻を下げた。


「クシナダの故郷だ。どうだ、何か思い出さないか」


 ふるふる、と咲夜花が首を横に振る。まるで見覚えがない。


「そうか…………」


 悲し気に伏せられた須佐之男命の顔を見て、咲夜花の胸がちくりと痛んだ。自分でも思いがけず、次の言葉を口にしていた。


「あのっ、聞かせてください! 須佐之男命さまとクシナダ姫の、お話を―――」


 話を聞けば何かを思い出せるかもしれない、と思ったのだ。……思い出せる自信は、まるでなかったけれども。



  ☯🐍☯🐍☯🐍☯

 


 あの頃の俺は、なんの目的もなく地上を彷徨い、たまたまこの鳥髪とりかみの地を踏んだ。川で喉を潤そうとした時に、出会ったのだ。一人の美しい女に。


 その女は、川でみそぎをしているところだった。俺は、彼女の美しさに一目で心を奪われた。話を聞けば、この地には八岐大蛇やまたのおろちという八つの頭と八本の尾をもつ巨大な怪物がいて、娘を食べていくのだという。彼女の七人いた姉たちも順番に喰われてしまい、今度は自分の番だと、女は泣いた。


 ――そうだ。彼女は名を、クシナダと言った。


 そこで俺は、八岐大蛇を退治する代わりに、クシナダを妻にほしいと申し出た。


 ……ふんっ、八岐大蛇をどうやって倒したのかって?


 俺は、頭から白い羽織を被って女のフリをした。そして油断して俺を喰おうと近づいてきた八岐大蛇を、羽織の下に隠していた剣でたたき斬ったのだ。


 そして俺は、クシナダを妻とし、八重垣谷に八雲宮を建てた。二人で永遠に、この出雲の地で生きてゆこうと誓い合ってな――――。

 


  ☯🐍☯🐍☯🐍☯



「須佐之男命さまは、クシナダ姫のことを心から愛していらっしゃったのですね……」


 そんな危険を冒してまで助けようとしたのだ。よほど強い想いがなければ、できないことだろう。


 クシナダ姫も――――自分を助けてくれた須佐之男命の勇敢さと雄々しさに惹かれたことは、容易たやすく想像できる。


 わかっていたことだったけれども、どこか自分がけ者になった気がして、咲夜花は胸をおさえた。


「その呼び方は好かん。俺のことは『スサノオ』と呼べ」


「では、わたくしのことも『サヤカ』と呼んでくださいますか」


「うむ、そうだな。今のお前は、サヤカと言うのだったな。……夜に咲く花、か。よい名だ」


(覚えていてくださった……)


 咲夜花は、自分でも驚くほどの嬉しさに浮足立つのを感じた。


――この気持ちは、わたしが『クシナダ』の生まれ変わりだから?


 話を聞いても、やはり思い出せない。それでも、クシナダが須佐之男命を想う気持ちは分かる気がした。


「クシナダ姫は……どうして亡くなられたのですか?」


 ふと口を突いて出た疑問に、須佐之男命の表情が暗くなる。その質問には答えず、黙ったまま視線をそらした。


「……覚えて、おらぬか」


「すみません」


「いや。……そのことは、忘れてくれていい」


 どういう意味だろう、と首をかしげた。辛いことを思い出させてしまっただろうか、と咲夜花は聞いたことを少しだけ後悔した。


「行ってみるか?」


 え、と咲夜花が顔をあげると、須佐之男命がいたずらっぽく笑った。


「俺がはじめて女装をした場所に」

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