07. 人生の壁
夫のたばこの火の不始末だった。執務室の灰皿からこぼれ落ちた火種が絨毯へ燃え移り、寝静まる屋敷に広がっていった。
メイドが異変に気づいたとき、火の手はすでに邸宅の半分を覆っており、私は着の身着のまま子どもたちを抱えて安全な場所へ走った。
長男と次男、そしてまだ赤子の長女。
三人の顔を見てほっとしたのも束の間、本の存在を思い出し、メイドたちに子どもたちを任せて燃え盛る炎の中へ舞い戻った。
私の私室は夫の執務室から遠い。おかげで本は無事だ。
火の粉をかぶらぬように大切に大切に抱えて安全地帯へもどる。
とたんに、夫の張り手がとんできた。
「子どもを置き去りにしてなにをしていた! そんな薄汚い本一冊のために命を捨てるつもりか!」
カッと頭に血が上った。
怒りに身を任せたのはあの宝石事件以来、久しぶりだった。
「子どもたちは私の宝! この本は私の
夫になにを言ったところでむだなのは、私が一番よく知っている。
反論はそれだけにとどめて、私は子どもたちを抱きしめた。
火事は屋敷を丸々焼いて鎮まった。
邸宅を囲むように配置した庭が延焼を止めてくれたおかげで、周囲に被害はおよんでいない。人命も守られ、けが人もいなかった。
夫が男爵家の出ながらも独立しており、由緒正しい先祖代々の品々とやらもない家だったことは、いまとなっては運が良かったと言える。
火災の規模の割には被害は最小で済み、私は安堵した。
その後、私たち家族は、私の実家に身を寄せた。
火事で失った書類の再発行に尽力する夫に代わり、居館再建の手配を代行し、ジャムを売り、子どもたちの様子にも気を配る日々。
あちこちの取り引き先に事情を説明して回る夫とはすれ違いが増えたものの、それでも時間を見つけては屋敷にもどり、顔を見せてくれる程度の交流はあった。
いがみ合う仲でも、それなりに相手を尊重する思いやりを持てるくらいには関係を育てることができてる――
そう思っていた。
冬が近づく、ある朝食の席で、メイドが父に小さく耳打ちする。
「アンドレア様はお部屋で朝食を摂られるそうです」
「……ン、そうか」
首肯の直前に、小さな咳払い。
感じた違和は小さかった。
だけど妙に耳について、私は目線を朝食室の隅々に配った。
母が、ハッと短く息を吐く。ほんの一瞬だけ、目尻を上へ持ち上げる。口の端が嘲笑するような形に歪むも、すぐ元通りに真顔を作る。
女の勘はするどいというけれど、一体なにをどう汲み取って直感につなげているのだろう。
当事者でありながら、私はその感覚を説明できない。
ただ雷に打たれたような確信が頭のてっぺんからつま先へと駆け抜けた。
浮気だった。
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