第17話『のんちゃんのお見舞い』
第17話『のんちゃんのお見舞い』
今日は久しぶりに出社の日だった。午前中の打ち合わせを終えてデスクに戻ると、隣の席の後輩がぽつりと言った。
「信吾さん、野中さん今日お休みらしいですよ。体調崩したって」
「えっ、野中さんが?」
思わず聞き返してしまう。
「はい。珍しいですよね、あの人が休むなんて」
「……ああ、うん。ほんとに」
野中香代──のんちゃん。 職場でも必要以上には話さない人だけど、ちゃんと責任感があって、自分のペースを崩さない。 その彼女が“体調不良で休む”なんて、本当にめずらしい。
ぼくはその後の仕事にも少しだけ集中しきれないまま、夕方には帰宅した。
「ただいまー」
「おかえりー。どうだった?」
美沙がキッチンから顔を出す。
「特に問題はなかったよ。でも……野中さん、今日会社休んでた。体調不良だって」
「のんちゃんが? えっ、そうなんだ」
美沙は少し驚いたように目を見開き、そしてすぐに言った。
「じゃあ、お見舞い行こうか」
「……行っても、喜ぶかな」
信吾はちょっと戸惑いながら訊く。
「喜ばなくても、悪くはないと思う」
きっぱりとした言葉。その美沙の横で、ゴンちゃんが「きゅ」と小さく鳴いた。
まるで「ぼくも行くよ」とでも言っているようだった。
「……ゴンちゃんも行く?」
美沙がゴンちゃんを見て訊くと、
「うん。そうだね。ゴンちゃんも、のんちゃんのこと好きだしね」
と、すぐに笑顔でうなずいた。
けれど、すぐに美沙は少し顔をしかめて、声を潜める。
「でも……バレないようにしないと。近所の人に見られたら……大変だから」
「そうだな……」
ぼくが少し心配そうに言うと、
「大丈夫。上手くやるから。それに赤荻さんがくれたゴンちゃん用カート、ちゃんとカバーかければわかんないよ」
と、美沙は自信満々に胸を張った。
そのまま話はまとまり、美沙がのんちゃんに連絡を取ることにした。とはいえ、あまりに急なお見舞いでは失礼かもしれないので、ぼくが先に軽く連絡を入れることにした。
【信吾→のん】
『今日は体調大丈夫? 無理しないで休んでね。』
少し間を置いて、のんから返信が来た。
【のん→信吾】
『ありがとう。薬飲んで寝てた。少しマシになった』
それに続けて、もう一通。
『どうかした?』
ぼくは一瞬迷ってから、正直に送る。
『美沙さんがね、お見舞い行こうかって言ってるんだ。ゴンちゃんも一緒に。今日じゃなくてもいいんだけど』
数分後。
『いいよ。今日なら静かで助かるかも』
そのやりとりを見て、美沙がうれしそうに笑った。
「よし、じゃあ準備しよう。ゴンちゃん、今日はお出かけだよ」
「きゅ!」
ゴンちゃんは返事をして、カートの近くへと小走りで向かった。
* * *
のんの家は、信吾の家から車で15分ほどの場所にある。のんは一人暮らしで、小ぢんまりとした平屋の家に住んでいた。
車を降りると、美沙はカートのカバーを軽く直しながら言った。
「中、だいじょうぶ?」
カートの中では、ゴンちゃんが静かに丸まっていた。
「きゅ」
まるで「任せて」と言わんばかりの表情。
「じゃ、行こっか」
のんの家の玄関先でチャイムを鳴らすと、しばらくして扉が開いた。
「こんばんわ」
「……どうも。上がって」
のんはいつも通り、感情を大きく動かすことなく、それでも来訪を拒む様子もなく、静かに招き入れてくれた。
部屋に入ると、カーテン越しのやわらかい光が、室内をふんわりと包んでいた。
「今日はごめんね、急に」
美沙が言うと、のんは首を横に振る。
「来てくれて助かる。気が抜けてたから、ありがたい」
「無理してない? ごはんとか食べれてる?」
「適当に。おかゆは作った」
言葉少なに答えるのんの視線が、カートの方へ向いた。
「……いるの?」
「うん、ちゃんと連れてきた」
美沙がそっとカートのカバーを外すと、中からゴンちゃんがひょこっと顔を出す。
「……きゅ」
のんは、それを見て、ほんのわずかに目尻をゆるめた。
「おかゆの匂い、ちょっと残ってる。気になってるかも」
その一言に、ゴンちゃんがすんすんと鼻を動かした。
「さすが、するどい」
美沙が笑いながら言うと、のんはゴンちゃんの方に手を伸ばした。
「上がっていいよ」
ゴンちゃんはするりとカートから降り、トトト……と音を立てて床を歩き、のんの横でぺたんと座った。
「……きゅ」
まるで、“今日はそばにいるよ”とでも言うかのように。
のんはその隣で、何も言わずに微笑んだ。
* * *
そのあと、三人はのんのリビングで静かに過ごした。
のんは湯たんぽを抱えながら、毛布にくるまってソファに座っていた。ゴンちゃんはその足元。
テレビをつけると、ちょうど午後のドキュメンタリーが流れていた。日本の山奥に暮らす老犬の話。画面に柴犬が映るたびに、ゴンちゃんのしっぽが少しだけ動いた。
「この子、テレビ好きだよね」
のんが言った。
「うん。特に動物が出てると反応する」
と、美沙。
「……犬に反応してるの、不思議」
「ね。自分は犬じゃないって思ってるのかも」
「自分が何か、わかってる気もする」
そんな話を交わしながら、空気はとても穏やかだった。
「……あ、これ」
美沙がバッグから包みを取り出した。
「のんちゃんにって、ちょっとしたおみやげ。ハーブティーと、無添加のクッキー」
「ありがとう。ちょうど食欲ないから、助かる」
「ゴンちゃんには……ほら」
美沙がもう一つ小さな包みを取り出す。中にはゴンちゃんにもクッキーが入っていた。
ゴンちゃんは、ぱっと顔を上げて「きゅっ!」と嬉しそうに鳴いた。
「わかりやすい……」
のんがぽつりとつぶやく。その口元に、わずかな笑み。
そのまま、日が少しずつ傾いていく。
「……じゃ、そろそろ帰ろうか」
美沙が立ち上がると、ゴンちゃんもトトトとカートのそばへ歩いていく。
「また来るね。……ううん、また“会いにくる”って感じかな」
「うん。ありがとう」「ちょっと元気になった」
のんの声は、やっぱり淡々としていたけれど、ちゃんと温度があった。目元も少し、優しかった気がする。
玄関先まで見送ってくれるのんに、美沙が言う。
「今日は、行ってよかった。あんまり無理しないでね」
「……うん。ゴンちゃんも、ありがとう」
「きゅ」
空には、夕方の光がやわらかく残っていた。
その光の中を、カートを押しながら、美沙とゴンちゃんは静かに車へと向かった。
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