第15話 前編『ゴンちゃんって雷が怖いの?』第15話 後編『もっとゴンちゃんを知るために』

第15話 前編『ゴンちゃんって雷が怖いの?』


 朝、カーテン越しの光がいつもよりくぐもっている気がした。

 空気がぬるく湿っていて、遠くの山のあたりに、もくもくとした雲が湧き上がっているのが見える。


「……天気予報だと夕方から天気崩れるかも、って言ってたな」


 リビングで牛乳を飲みながら、信吾は窓の外を見やる。横ではゴンちゃんがすっかり食べ慣れた朝食を平らげ、満足そうにお腹を膨らませていた。


 食後はいつものように、ゴンちゃんが屋上に行きたいと背中を伸ばす。屋上の小屋に上がって、ひなたぼっこをするのが最近のお気に入りだ。


「はいはい、わかってますよ。行こうな」


 信吾が屋上への扉を開けると、ゴンちゃんはしっぽを揺らして小屋に向かって歩き出す――が、途中でふと立ち止まる。


「ん? どうした?」


 ゴンちゃんは、首を上げて空をじっと見上げていた。重たい雲の間から陽が差したり隠れたり。気温の変化に揺らされるように、空は妙な緊張感を漂わせている。


 ゴンちゃんは、きゅぅ、と小さく鳴いたかと思うと、小屋には入らず、くるりと引き返して信吾の足元に戻ってきた。


「……えっ? 今日は小屋じゃなくていいの?」


 首を傾げながら問いかけると、ゴンちゃんは再び空を見て、今度は体をぴたりと地面に伏せた。しっぽがぴくぴくと揺れている。


 ――そのときだった。


 遠くで、低く重たい雷鳴がゴロゴロと響いた。


「……雷?」


 空を仰ぐと、東のほうに積乱雲が少しずつ近づいてきていた。耳を澄ませば、風の音もどこかざわざわとしていて、不安を煽るようだ。


 ゴンちゃんは雷鳴が聞こえた瞬間、びくんと全身を震わせ、信吾にしがみつくように身を寄せた。


「うわっ……! びっくりしたな……。大丈夫、大丈夫だよ」


 信吾は慌ててかがみ込み、ゴンちゃんを優しく撫でる。その背中は驚くほど強張っていて、何度も小さく震えている。


「……もしかして、雷が怖いのか?」


 問いかけると、ゴンちゃんは少しだけ顔を上げ、信吾を見た。丸い瞳が不安げに揺れていた。けれど、それは“わからない”というより、“伝えようとしている”ように感じられた。


「そっか。ゴンちゃんにも怖いもの、あるんだな」


 ゴンちゃんを抱えてリビングに戻ると、彼はすぐにテーブルの下にもぐりこんだ。安心できる場所を求めるように、小さく丸まって身を縮める。


「……あれだけ飛び跳ねてたのに、こんなに小さくなるんだなぁ……」


 信吾は冷蔵庫からお水を用意して、小さなボウルに注いでやった。ゴンちゃんはちょんと顔を出して少しだけ口をつけたが、すぐにまた奥へと引っ込んだ。


 その姿は、なんだかとても幼く見えた。


 お昼すぎになっても雷雲は居座り続け、ときおり稲光が窓の外を照らした。雷鳴はそこまで近くないものの、ゴンちゃんはそのたびにぴくりと反応する。


 信吾は隣に座って、絵本を読むように声を出して本を開いた。


「聞いてるかわかんないけど、ちょっと気がまぎれたらいいかなって」


 テーブルの下に潜むゴンちゃんの耳が、わずかにぴくんと動く。


 「ほらさ、ゴンちゃんってさ、最初来たときよりずいぶん大きくなったし、なんかすごく賢くなったと思うんだよね」


 「昨日だって、屋上の植木鉢倒さなかったし、おやつだって“待て”してから食べたし」


 「日々成長してるって感じ。でも、……成長してても、苦手なものってあるんだな」


 そう呟いたとき、ゴンちゃんがテーブルの下から顔を出し、信吾の膝にそっと頭を乗せてきた。


 「……あ、ごめん、聞こえてた? いや、笑ってるんじゃないよ」


 ゴンちゃんは小さく鼻を鳴らした。きっと少し落ち着いたのだろう。さっきまでの緊張は、少しずつほどけているように見える。


 夕方、美沙が帰宅した。


「ただいまー……って、あら? ゴンちゃん、今日はリビング?」


「うん……雷が怖いみたいで、小屋に行かなかったんだ」


「え、ゴンちゃんが雷……? あんなに元気なのに?」


「だよね。でも、やっぱり怖いもんは怖いんだなって」


 美沙がしゃがみこんでゴンちゃんに声をかける。


「ゴンちゃん、怖かったの? 大丈夫だよ〜、ほら、もうすぐ雷いなくなるからね」


 優しく撫でるその手に、ゴンちゃんはようやくしっぽを少しだけ振った。


「ふふっ。こういう日もあるんだねぇ。……かわいいじゃん、ゴンちゃん」


「うん……なんか、ちょっと安心した」


「安心?」


「うん。あんなに飛べて、火も吹けて、強そうなのに、苦手なものがあるって。なんか……同じなんだなって思った」


 信吾はゴンちゃんの背中をもう一度そっとなでた。


「ぼくもさ、雷ちょっと苦手なんだよね。小さいときに停電して、真っ暗になったのが怖くて」


「そうだったの?」


「うん。……だから、ゴンちゃんの気持ち、ちょっとだけわかる気がしてさ」


 ゴンちゃんは信吾の膝に頭を乗せたまま、ぬくぬくとまどろみ始めていた。


 外の雷は、やがて遠ざかっていった。ゴロゴロという音も小さくなり、夕方の空にはうっすらと西日が差し込む。


「……ほら、雷、もう行っちゃったよ」


 美沙がそう言うと、ゴンちゃんはぱちりと目を開け、そっとリビングの窓に目をやった。


 信吾は、少しだけ笑った。


「ね、ゴンちゃん。苦手でも、逃げてもいいし、誰かに頼ったっていいよ。俺もそうしてきたしさ。……そうやって、ちょっとずつ、慣れていけばいいよね」


 ゴンちゃんは「きゅ」と小さく鳴いた。


 ――それは、まるで「うん」と返事をしたようだった。




第15話 後編『もっとゴンちゃんを知るために』


 雷の夜が明けて、空はうそのように晴れていた。


 ベランダから見える景色は洗い立てのように澄んでいて、葉の上には雨粒がきらりと光っている。

 昨日は怯えていたゴンちゃんも、今朝はいつも通り元気だった。何ごともなかったかのように朝食を平らげ、小屋に行くかと思いきや、今は信吾の足元でごろりと横になっている。


「……怖かったの、もう忘れちゃったのかな」


 信吾は笑いながらも、ゴンちゃんの頭をなでた。ふわふわの額に触れると、昨日の震えていた姿がよみがえる。


 昨日、雷に怯えて身をすくめたゴンちゃん。

 それを見て、信吾はふと考えていた。


 ――ゴンちゃんのこと、どれくらい知ってるんだろう?


 日々一緒にいて、毎日お世話して、遊んで、寝て……。だけど、雷が苦手なことも、ルネと通じ合っていたことも、信吾は“初めて知った”ことばかりだった。


「もっと知りたいな、ゴンちゃんのこと」


 思わずつぶやいたその声に、ゴンちゃんは「きゅ」と返事をする。まるで、それに応えるように。


 午前中、ゴンちゃんがうとうとしている間、信吾は意を決して赤荻さんの作業小屋を訪ねた。

 ノックをすると、いつも通りぶっきらぼうな声が返ってくる。


「開いてる」


 中は工具や木材のにおいで満ちていた。小屋づくりの途中らしい木の板や図面があちこちに広げられている。


「……悪い、散らかってる」


「いえ、こちらこそ突然すみません。あの……ゴンちゃんのことなんですけど、もっと詳しいことを知りたくて。雷が怖かったり、ルネとのことだったり……正直、ぼく、知らないことばっかりで……」


 信吾の言葉に、赤荻さんは一瞬黙って、ふうっと短く息を吐いた。


「……そうか」


 無言で椅子を回し、机の引き出しから何かを取り出す。それは一枚の名刺だった。ちょっと古びていて、文字も手書きっぽい。


「紹介する。権藤って奴だ。市立図書館の司書をやってる。だいぶ変わり者だけど、幻獣に関しちゃ、そこらの学者より詳しい」


 信吾はおそるおそる名刺を受け取る。


「……いいんですか? ぼくなんかが会って」


「いい。元はといえば、先週桜小路がいきなり来たのも、あいつが何か吹き込んだせいだからな」


「えっ、知り合いなんですか、桜小路さんと」


「あぁ、古い友人だ。クセの強さも昔からだが……まあ、信用できる奴だ。お前たちのこと、気に入ってるらしい」


 照れくささを隠すようにそっぽを向いて、赤荻さんはコーヒーを啜った。


「ゴン……坊のこと、今のうちにちゃんと知っとけ。でないと、後で後悔することになる」


 その言葉が、なぜか信吾の胸に静かに響いた。


 翌日。

 信吾は有給を取り、ゴンちゃんを車に乗せて、市立図書館へ向かった。赤荻さんが作ってくれたゴンちゃん輸送用カートの中で、ゴンちゃんは機嫌よく揺られている。窓の外を興味深そうに眺めながら、ときどき鼻先でくもりガラスに「ふー」と曇りをつける。


 図書館ではあらかじめ時間を予約していたため、裏口の搬入口からそっと入り、目立たない通路を通って地下へ。職員たちの視線がなるべく向かないよう、カートの上にはシートが被せられていた。ゴンちゃんも、何となくわかっているのか、今日はおとなしい。


 案内されたのは地下の一角だった。

 埃っぽいが不思議と落ち着く空間で、本棚には見慣れない背表紙が並んでいる。


「お待ちしていましたよ。あなたが、信吾くんですね」


 現れたのは、年齢不詳の男性だった。白髪のポニーテールに眼鏡。マントのような大きなカーディガンを羽織っている。


「私は権藤。市立図書館で司書をしております。……そして自称、“幻獣研究のパイオニア”です」


 少し芝居がかった自己紹介に信吾は戸惑いつつも、「よろしくお願いします」と頭を下げた。


「で、こちらが……うむ、これはこれは」


 ゴンちゃんを見た権藤さんは目を見開き、ゆっくりとしゃがみこんだ。


「素晴らしい。これは見事なワイバーン・タイプD。想像していた以上ですな」


「わ、ワイバーン・タイプDって……なんですか?」


「勝手に命名しております。“ドラゴンの中でも、極めて知能が高く、情緒的な反応を示す”という特性を持つ個体。伝承や古代絵画の中には、その存在が暗示されていることがありましたが、実際に見るのは初めてです」


 権藤さんは目を輝かせたまま、ゴンちゃんの目を覗き込みながら続けた。


「一般的にワイバーンは、知能が低く、戦闘的で、本能に従って行動するとされている。しかしこの子は、あなたと目を合わせ、反応している……これは、思考と感情を両方持っている証拠です。人間でいえば、幼児と同等、いや、もっと高いかもしれません」


 その熱量と説得力に、信吾は思わず「すご……」とつぶやいた。


 まるで博物館の学芸員と話しているようだった。いや、それ以上かもしれない。この人は赤荻さんが言ってた以上に「知識」と「情熱」の塊みたいな人だ。


「雷を怖がるというのも、実に興味深い。おそらく、生得的な恐怖反応でしょう。なぜなら――」


 権藤さんは分厚い書物を取り出し、ページをめくる。


「ワイバーンは、雷に打たれることで命を落とすことがあったため、遺伝的にその記憶が刷り込まれているのではと考えられております。

音ではなく、空気の振動、静電気の兆し、そして空気圧の変化を察知する力……ゴンちゃんも例外ではないでしょうな」


「……それって、ずっと克服できないものなんでしょうか?」


「どうでしょうねえ。恐怖というものは、“知ること”で少しずつ薄れていくものです。たとえば、人が暗闇を怖がるのは“見えないから”であって、明かりがつけば安心するでしょう? それと同じですよ。隣に誰かがいて、安心できる。それが続けば、雷も、怖くなくなるかもしれません」


 信吾はうなずきながら、ゴンちゃんに目をやった。

 ゴンちゃんは、静かに信吾に体を寄せていた。


「それに、この子はきっと、他のドラゴンとは違う成長をするでしょう。知能が高いからこそ、心も育つ。感情も、記憶も、関係性も、大切にする種です」


「……そうだ、もうひとつ気になることがあって。ゴンちゃんって、将来、どれくらい大きくなるんでしょうか?」


 すると権藤さんは「ふふ……」と笑った。


「個体差はありますが、推定で……10メートルは超えるでしょうな」


「じゅ、10メートル!? 家、壊れるじゃないですか!」


「ふふ。成長すれば、空を支配する者となるでしょう。彼らは本来、空の王者。世界を渡り、時に仲間を見つけて、どこかへ飛び立っていく存在です」


 ――どこかへ、飛び立っていく。


 その言葉に、信吾は不意に胸がざわついた。


「……つまり、いつかはゴンちゃんとも、別れの時が来るってことですか?」


「出会いがあれば、別れもある。大切なのは、“その日”まで、どれだけ愛情を注げるか、です。……あなたは、すでに十分、立派にやっておられますよ」


 信吾は、静かにゴンちゃんの頭をなでた。

 ゴンちゃんは目を細め、信吾の手にそっと頭を預ける。


 その後も権藤さんは、ゴンちゃんの羽の質感、体温、足の指の動きまで事細かに観察し、

 「これがワイバーンに見られる筋肉配置ですな」「この鳴き声、録音していいですか?」と止まらない。


「夜はどんなポーズで寝ますか? 飛ぶ夢は見る? ご飯は何が好きで、食後に鳴くことはありますか? ……あと、舌の動き、可能なら動画に……!」


 信吾は圧倒されつつも、「なんか……本当にすごい人だな」と感心していた。


 別れ際、権藤さんは信吾に目を細めて言った。


「また、ぜひいらしてください。観察というより……今後の“成長の記録”を、共に見守りたいものですな」


 信吾は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に、いろいろ……」


 帰りの車の中、ゴンちゃんは疲れたのか、静かに眠っていた。

 信吾はハンドルを握りながら、ふと青空を見上げる。


 ――いつか、空を飛んで、どこかへ行ってしまう日が来るかもしれない。

 だけど、今は、ここにいる。自分の隣に。


「……だから、今を大切にしよう。ゴンちゃんと、毎日をちゃんと生きよう」


 信吾はそうつぶやき、静かにアクセルを踏み込んだ。

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