第7話 前編『ドラゴンの骨、見たことある?』第7話 後編『うん、爬虫類だな』
第7話 前編『ドラゴンの骨、見たことある?』
雨の日だった。
カーテン越しに、窓ガラスを叩く静かな雨粒の音。時折、風が木々を揺らす音がかすかに聞こえる。リビングはほんのり薄暗く、天井の灯りだけが、やわらかな黄色い光で空間を照らしていた。
信吾はソファに座り、会社から持ち帰った資料の束を膝の上に広げていた。内容はあまり頭に入ってこない。少しだけ湿気を帯びた空気が、紙の質感をほんのわずか変えている気がした。
その隣には、美沙がうつ伏せになって寝転がっている。クッションを抱きかかえるようにしてスマホをいじっていたが、すでに画面は消えていた。気怠げに、天井のライトをぼんやりと見上げている。
そして、その足元には、ゴンちゃんが小さく丸まっていた。
くるんと巻いた尻尾の先が、たまにぴくりと揺れる。くしゃみのときに出る火花が周囲を焦がさないよう、信吾たちは近くに防炎ブランケットを敷いている。最近は、彼なりに自制できるようになってきた――つもりだ。
「……雨の日って、時間がゆっくりになるよね」
美沙が、ぼそっとつぶやいた。
「そうか?」
「うん。なんか、止まってるみたいな感じ。外に出る気にならないし、空もグレーで、音も静かだし……。こういうとき、ゴンちゃんって寝るの得意だよねぇ」
視線の先で、ゴンちゃんが“きゅう”と小さく鳴いて、丸まった身体を少しだけ揺らした。まぶたはすでに閉じかけていて、半分夢の中にいるような顔だ。
「生き物って、天気に正直なんだよな」
信吾がそう言って、ページをめくる手を止めた。美沙がそれにかぶせるように、ふと思い出したように言った。
「……あ、そういえばさ」
「ん?」
「お父さん、ドラゴンの骨見たことあるって言ってたの、覚えてる?」
信吾の手が止まった。ふと、遠い記憶が頭をよぎる。
「……ああ、言ってたな。中学生のときくらいだったか。あれ、冗談じゃなかったのかな」
「本気っぽかったよ。なんか、学会だっけ? 展示会? そういうのに行ったときに、標本を見たって」
「“あの人”が、そういうところに顔を出してるのがまず意外だけどな」
美沙がくすっと笑った。
「でしょ? だって、お父さん、無口すぎて何考えてるのか全然わかんないじゃん。会話なんて、ほぼゼロだし」
「うちの家族、無口遺伝子強すぎるんだよな。母さんですらたまに心配してたし」
「うん。でも、動物には優しいんだよ。診察のときとか、めっちゃ声かけてたよ。“よしよし、怖くないぞ〜”って」
「人間相手には“うん”“で?”しか言わないのにな」
2人でふふっと笑い合う。
ゴンちゃんがそれを聞いてか、小さく“ふにゃ”と鳴いて身じろぎした。まるで“話してること、ちゃんと聞いてるよ”と言っているみたいだった。
「……でもさ。お父さんがああいう風に、はっきり何かを語ったのって、珍しかったじゃん?」
「うん。あのとき、妙に印象に残った」
「たしか、“あんな形の骨は初めて見た”って言ってた」
「それな」
信吾は、ふと膝の上の資料を閉じ、ぼんやりと空を見上げた。
「……お父さん、何を見たんだろうな」
「ドラゴン、かもね。今考えると、笑いごとじゃない」
「そもそも、ゴンちゃんだって……ほら。あれ、明らかに爬虫類の延長じゃ済まないよね」
美沙が言うと、ゴンちゃんがくしゃみのような動きで「ふごっ」と鼻を鳴らした。
「認めたな?」
「まさかね。でも……お父さんの話、ちゃんと聞いてみたくなった」
「ぼくもだよ。普段は必要最低限しか話さない人が、あんなに語ったのって、あれが最初で最後かもしれないし」
しばらく、会話が止まった。
窓の外で雨音が少し強まる。しとしとというより、ざぁざぁに近い。けれど、家の中の空気は不思議と穏やかで、時間だけがゆっくり流れていた。
「……会いに行ってみるか」
「え?」
「今週末。ちょうど俺も休み取れそうだし。美沙も空いてるんだろ?」
「うん、まあ……行ってみる?」
彼女は身体を起こし、クッションを抱きしめながら信吾の顔を見た。
「ゴンちゃん、実物見せたら、お父さんどんな反応すると思う?」
「きっと、“うん、爬虫類だな”って言って終わりだぞ」
「言いそう〜〜!」
2人で笑い合う横で、ゴンちゃんがひとつ大きなくしゃみをした。
――ぱすっ。
ほんの少し火花を散らして、信吾の資料が焦げる。
「こらゴンちゃん!」
そんな雨の日の午後だった。
第7話 後編『うん、爬虫類だな』
動物病院の駐車場に車を停めると、信吾はエンジンを切り、深呼吸をひとつした。
「……久しぶりだな、ここ来るの」
助手席の美沙が頷いた。「私も……。何年ぶり?」
「3年くらい?」
後部座席でゴンちゃんが、ちょこんと首をかしげている。
「きゅ?」
「うん、お父さんの家だよ」
美沙がやさしく言いながらキャリーケースを開けると、ゴンちゃんは一瞬だけ周囲を警戒してから、おそるおそる外に出た。濡れたアスファルトの匂いを嗅ぎ、風に顔を向ける。
雨はもう止んでいた。
*
病院の建物は、昔からほとんど変わっていない。白い外壁に青い看板、入り口の木製の引き戸。
信吾が引き戸を開けると、受付には見慣れた顔がいた。
「……あら、美沙ちゃん?信吾くん?」
「こんにちは、森下さん。父さん、いる?」
「奥で診察してるわ。呼んでくるから待ってて」
受付の森下さんは、ずっとここで働いているベテランスタッフだった。信吾たちが子どもの頃から変わらず、やさしい笑顔を向けてくれる。
「なんか懐かしい匂い……」
美沙がつぶやく。
「消毒液と獣臭な」
「いや、もうちょっとあったかい感じ」
待合室のベンチに腰かけると、ゴンちゃんが周囲をじろじろと見渡す。天井の蛍光灯、壁に貼られた犬猫のポスター、観葉植物。
そのとき、奥の診察室の扉が開いた。
出てきたのは、無骨な白衣姿の男。山之内茂夫。
「……おう」
声は低く、表情は読めない。でも、それがいつもの父だった。
「久しぶり、父さん」
「うん」
美沙がゴンちゃんを抱えて立ち上がると、茂夫は黙ってその姿をじっと見つめた。
ゴンちゃんは、最初だけ少し身をすくめたけれど、すぐにしっぽを揺らした。
「うん、爬虫類だな」
開口一番、それだった。
信吾と美沙が、同時に吹き出す。
「やっぱり言った!」
「絶対言うと思った!」
茂夫は首を傾げたまま、もう一度ゴンちゃんを眺める。
「火は吹くのか」
「たまに。くしゃみのとき限定で」
「それは珍しいな」
珍しい……のか?
「でさ、お父さん、昔“ドラゴンの骨”見たって言ってたよね?」
美沙が切り出すと、茂夫は少しだけ目を細めた。
「ああ。20年くらい前か。学術研究の一環で、国外の博物館に貸与されてた標本を見た」
「ほんとに?冗談かと思ってた」
「俺が冗談言うか?」
「……言わないね」
信吾も、美沙も、納得するしかなかった。
「で?それと似てるのか?」
「骨格の一部だけだったが……そうだな。肩甲骨の構造が、鳥類よりは重く、でも哺乳類とは違った。あれは……」
茂夫はゴンちゃんの背をひと撫でして言った。
「未分類の爬虫類に近い。そう思った」
「やっぱり、そういうジャンルなんだ……」
信吾が思わずつぶやくと、ゴンちゃんは「きゅ」と鳴いて小さく伸びをした。
まるで、自分のルーツを認められて、誇らしげにしているようだった。
*
そのあと、診察室の奥で少し話をした。
病院には今、入院中の犬が2匹。老犬と、足を怪我した若い猫。
茂夫は動物のことになると、すこしだけ言葉が増える。猫には1日3回薬を与えていること、老犬には特別なクッションを使っていること。
「お母さん、いま何してるの?」
「知るか。たぶんどっかの温泉で犬と遊んでる」
「ありそう……。昔はよくここ手伝いに来てたのにね」
「……ああ」
「覚えてる?診察室の裏で、2人でこっそりアイス食べてたの」
「……ああ、覚えてる」
その話の間中、茂夫はほとんど笑わなかったけれど、目の奥には確かに、やさしい光があった。
「ゴンちゃんは……ここに連れてきて、よかったかもね」
「うん。お父さんが“普通”に受け入れてくれるとは思ってたけど、やっぱりすごいわ」
「普通じゃないかもしれんな。けど、生きてるなら、診るだけだ」
それが、この町の動物病院の院長の言葉だった。
*
帰り際、受付の森下さんが笑いながら言った。
「院長、あの子が帰ったあと、少しだけ笑ってたわよ」
「えっ」
「そっぽ向いてたけど、わかるの。なんか、うれしかったんでしょうね」
車に戻ると、ゴンちゃんは後部座席で丸くなっていた。安心しきった顔で、しっぽを小さく揺らしている。
「……ちゃんと、覚えてるんだろうね。自分を大事にしてくれた人」
美沙がつぶやく。
「かもな」
信吾はエンジンをかけ、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
後ろのシートで、ゴンちゃんが小さなくしゃみをした。
――ぱすっ。
ほんの少し火花が散って、車内の資料が焦げる。
「こらゴンちゃん!」
そんな雨の日の午後だった。
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