白銀の龍

福田智一(ちいち)

第1話 鱗を拾った日 運命が動き出す

(はぁぁぁ〜〜)

帰宅時間でごった返す渋谷の駅のホームで、

田嶋佐知(たじま さち)は、思いっきりため息をついた。


魂が抜け出そうなため息だったが、帰宅に急ぐ人々の喧騒の中では、気に留める者はいない。


混み合った電車に乗り込んだ佐知は、携帯のメールを見る。


友人や家族のグループからの、誕生日祝いメッセージ。


ざっと目を通して、お礼のスタンプを押しておく。




携帯を閉じて、同じ車両に乗り合わせた人々をボーッと見た。




(今日が誕生日の人もいるのかな?)


都会の満員電車一両には多い時で300人くらい乗ってると聞いたことがある。



(300人のそれぞれの人生か…)




佐知は、それなりに順風満帆な人生を歩んできた。


仕事も、志望通りの外資系IT企業のUXデザイナーとしてキャリアを積んできた。


恋人は同じ会社の先輩でセールスエンジニア。


4つ年上の彼、生島修(いくしま しゅう)とはもう3年付き合っている。



(3年も経つと、誕生日なんて忘れちゃうのね…)


29歳。


結婚のことなんて、言ったことない。



でも、心のどこかで期待していたのは事実。




勘のいい修のこと、佐知の心の内を読まれていたかもしれない。




今、修は海外へ出張中。


そう、時差もあるしね。



メッセージ来なくても気にすることはないよね。




そう思いながら、佐知は電車を降り、アパートへ帰る道もずっと携帯を気にした。




そんなことで、修との関係をどうするか決めてるわけではなかった。


勝手な言い分だが、すれ違い始めた現実を、確認したかっただけだ。




気持ちをずるずる引きずるのは嫌だ。




憧れの会社、高収入、ハイスペックな同僚達、仕事ができて人当たりがよく、みんなに人気のある彼氏。



そんな中にいても、自分だけとても"普通の人"に感じた。



今まで上手くいっていたと思っていたけど、結局、30歳までには結婚したいみたいな、否定していた願望があったようだ。




(何なんだろうな?この焦り感)


案外ステレオタイプだった自分に嫌気が差したが、素直に認めようとする自分もいた。




(疲れやすいお年頃ってことよね)


佐知は、もやもやする気持ちのまま、携帯のメッセージを待っていた。




_______________


2日経っても、修からは何の連絡もなかった。




忙しいのかもしれない。




だけど、今回のメッセージを待ってたのは、それなりの掛けがあったからだ。




これ以上すれ違うなら、長期休暇を取ろう。




佐知の会社では、1年間の長期休暇が取れる。


申請は1ヶ月前からだが、佐知はそれを誰にも内緒で申請していた。


もちろん修にも内緒だ。




彼と離れて自分を仕切り直したい。


修の出張が終わる前に、離れたい。




逃げる?




そうかもしれない。




行き先も誰にも言わず、旅に出ようと思う。




彼はなんていうだろうか?




もうどうでもいい。




何の約束をしてるわけでも無い。




自然消滅でいいよね。




彼女の誕生日を無視してる時点で終わってるよね。




(リセットしよう)


佐知は、不安定になってる自分を立て直す旅を計画した。



(あちこちの温泉と神社巡りをしたかったんだ)

佐知は、荷物をレンタルコンテナに移動して、

アパートも引き払った。



しばらく、住所不定。



誰も自分の行方を知らない。



なんてミステリアスなんだ!




誕生日頃の、嫌な気持ちはいつのまにかワクワクする冒険の旅への期待感に入れ替わっていた。



佐知は修に別れの手紙を書いた。


三年の恋愛期間をありがとう。

楽しかったし、好きだった。

だけどそれだけじゃ過ごせなくなってきた。

修もわかってるよね?

これはあなたへの手紙であり、

わたしのけじめでもあります。

さようなら。


そんな内容を万年筆で書いた。


旅立つ日、佐知は駅のポストの前で一瞬躊躇ったが、吐く息と共にそれを押し込んだ。


(…私は自分を仕切り直す)



___________________



佐知は先ず、10日間の湯治をしに鄙びた温泉宿で過ごした。


携帯も使えない。


佐知は今までの穢れが落とされて行く気分だった。



(これぞデトックス……)


湯治場で顔見知りになった老婦人と、当たり障りのない会話をするのも楽しかった。



何に追われるでもない、他人の顔色を見なくていい。


疲労していた心と身体は優しく労われていった。




「ここはゼロ磁場なんだそうよ」

ぬるめのお湯に浸かりながら、老婦人が言った。




「ゼロ磁場?」


「私もよくわからないけど、みんな言ってるわ。

ほら、電気のプラスとマイナスがあるでしょ?

それがここではどちらでもなくなって、ゼロになるだとか。」


「へえ、そうなんですね」

「"気"が整うのだそうよ」

「"気"ですか?」


「そう、気分の気、気持ちの気、気力の気、、これが整うのよ」

「なるほど」

そこで湧いた温泉だからか。

本当に整う気がする。




「この先に、龍神の池があるの、行ってみた?」


「あ、まだ行ってないです」

「行ってみるといいわ。龍が見えるかもよ」

老婦人は、ふふふと笑ってまた目を閉じた。




佐知は、龍神の池に行ってみることにした。



案内板に従って行くと、まあまあ急な粗野な階段があり、あの老婦人本当に行ったのかしら?

と思うほどの山道だった。



最後の案内版に辿り着き、息を切らしながら登ると、青紅葉の下にタタミ8畳ほどの池が現れた。




静かだ。




池に流れる湧き水の音と、青紅葉が風にそよぐかすかな音。




佐知は池の淵に跪き、覗き込んだ。




吸い込まれそうな水の色。




流れる湧き水で水面は揺ら揺らと揺れ、光に反射する。


どのくらい深いのか、なぜか果てしなく深いような、ここからどこかへ繋がっているような、水。



佐知は手をつき、水面に自分が映るくらい身を乗り出して池を眺めた。




すると、揺れる水面の右手から、白とも銀とも言える影がふわぁっと浮き上がった。




佐知はその影に目を奪われた。




それは長細く、徐々に水面に上がってきているように見えた。




佐知は身動きが取れず、声も出ず、そのまま池を覗き込んでいた。




ただ、心臓が激しく脈打ち、白銀の影がゆっくり浮き上がってくるのを見守っていた。




その時、佐知の額から汗が一粒、ポトリと池に落ちた。


すると急に風がサーッと吹き、佐知は尻餅をついた。



(何だったの?)



佐知はどきどきが止まらないまま、もう一度恐る恐る池に目をやるが、白銀の影はすでに無かった。



佐知はしばらくそこに座り込んでいたが、ようやくなんとか立てたので、ゆっくり来た道を引き返した。




湯治場に戻って、夕飯の食堂で老婦人に会った佐知は、池で影を見た話をした。




「あらまあ。龍神様に会ったのね」


「え?龍神なのですか?

見たことあるんですか?」



「いいえ、無いわ…」

老婦人は楽しそうに言った。




「龍神様はどちらを向いていた?」



「え?

あ、えっと、右手から出てきたので、向いていたのは西…かな?」



「そう…」

老婦人はお茶を啜りながら言った。



「ここの湯治が終わったら、西の方へ行くといいわ」


(西へ…)


次の予定を立てていなかった佐知は、それならそうしようと西方面の地図を見た。




あまり人がいないところがいいな。




せっかくだから、龍繋がりで池や川があるところがいいな。




今いる湯治場から西方位で探していると、"龍須川たつすがわ"という小さな川の名前を見つけた。



(あ!あるじゃない)


その川は、神社の敷地を流れる川だ。



(天倉神社……)

佐知はその場所をピンして、次の目的地に決めた。




湯治場でリセットした佐知は、今までの都会の暮らしから開放されたことがこんなにも自由な気持ちになるとは想像もしなかった。




放浪の旅をしている自分も好きになれた。




「あなた、いい顔になったわよ」

老婦人は佐知に笑顔で言った。




「次の行き先でも、いいこといっぱいよ」


「ありがとうございます」


___________________


佐知は、10日間過ごした湯治場を後にし、西の目的地、天倉神社を目指した。



電車を乗り継ぎ、1日がかりの移動だ。


天倉神社は山間の里にあった。



その地に到着したのが夕方だったので、近くの民泊に泊まることにした。



天倉神社に来たと言うと、民泊の主人は自慢げに、「あそこはパワースポットだからな」と言った。


「ゼロ磁場だから!」



(え?またゼロ磁場なんだ)


佐知は、楽しみだと主人に告げ、早朝からお参りに行くからと早く休んだ。




次の日の早朝、

佐知は歩いて天倉神社へ向かった。




6月にしては少し風が強いと思っていたが、神社の鳥居をくぐったとたん、なぜか風が気にならなくなった。




(不思議な参道…)


参道の砂利道を抜け、苔むした岩の並ぶ川辺に手水をしに降りたとき、佐知は言葉を失った。




朝の光が木々のあいだから降り注ぎ、細い霧となって川面を照らしていた。




(あ…天使の梯子……)


神社だから天使じゃないわね、と訂正しながらも、しばらくその景色に立ち惚けていた。



たっぷりの光の筋が水に届き、ゆらゆらと揺れるたび、小さな泡が光の粒となってはじける。



足元の苔はしっとりと濡れ、冷たい水がゆるやかに流れていた。




「ここって……」

声に出すと、まるでそれさえも空気に吸い込まれそうだった。




幻想的な音楽が聞こえそうな風景。




川の水に手を浸し、その清らかな冷たさにしばらくゆだねていると、浅い川底に、光るものを見つけた。




(何だろう?)


佐知はそっとそれを手に取ってみた。




それは透明で、葉っぱのような形の、硬い物体だった。




日の光にかざすと、キラキラと光って美しい。




何かわからないけど、いいもの拾っちゃったと嬉しくなった佐知は丁寧にハンカチでそれを包んだ。




光の木漏れ日は、だんだん川上の方へ流れ、朝日に煌めく静かな川に戻ったようだ。




佐知はそのまま参道に戻り、社殿を参拝し、ふと見上げた一本の杉の木──


その杉だけが、不自然なほどにねじれていた。




ねじれた幹に苔が這い、まるで空を巻き取るように伸びている。



まるで、龍の身体のようだった。



(もしかして、これがゼロ磁場?)


佐知はしばらく大きな杉を見上げていたが、お札を受けようと思い立ち、授与所に寄った。




「ごめんください」

静かな窓口で声をかけた。




「はい」


中から、若い青年が白い着物に青い袴姿で現れた。


彼は、田舎の山奥の神社の宮司というには、失礼ながら垢抜けた好青年だった。



佐知はちょっとドキリとしたが、お札を受けたいと言った。



宮司はお札を渡し、「ようこそお参りくださいました」と、決まり文句を言って頭を下げた。


「あの…」


佐知は、さっき川で拾った透明の硬い葉っぱをハンカチから出し、宮司に尋ねた。




「さっき、川でこれを拾ったのですが、お札と一緒にしてもいいでしょうか?」



佐知がそれを見せた瞬間、宮司の顔が変わった。




「それは!」



宮司の驚いた様子に佐知は怯み、「え?」と後退りした。



が、宮司は差し出された佐知の手を掴み、

「今朝、あなたが拾ったのですか⁈」

と焦ったように言った。



「え、ええ……」

佐知は、拾ってはいけないものを拾ってしまったのかと、怖くなって狼狽えた。



宮司は、手を握ったまま、深呼吸して息を整え、落ち着いた声で言った。




「……ずっとこの日を待っていました」


「え⁈」


その一言に、佐知の心で何かが小さく鳴った。




──確かに、何かが始まる音がした。



山里の、早朝の、静かな神社での出来事だった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る