片吟の図書館
七名菜々
前編
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
一、存在しない本が本棚にある。
二、夜中に本が宙を浮く。
三、図書館で死んだ生徒がいる。
四、その生徒の霊が本を読んでいることがある。
五、読むと呪われる本がある。
六、コピー機が勝手に動く。
七、人を喰うペンギンが現れる。
いわゆる『図書館の七不思議』と呼ばれるものだ。
「いや、なんで図書館だけに七つも不思議があるんだよ。学校の七不思議なら分かるけど」僕はカウンター越しに立つ男に向かって言った。
彼の名は
「学校の七不思議もあるぜ」と理人は得意げに言う。オカルト部で仕入れてきたというくだらないうわさ話を披露せずにはいられないらしい。「一、理科室に七不思議がある。二、体育館に七不思議がある。三、図書館に」
「もういいって。いくつあるんだよ」
「だから、七不思議だって。七七不思議。計四十九不思議」
「多いって。しかもなんだよ、その図書館のやつの、『人を喰うペンギン』って。それだけちょっと異質過ぎないか?」
「そうなんだよ。つまり、図書館には八つ目の不思議があるんだよな」
「八つ目?」怪談にしては縁起のいい数字だ。
「『七不思議の七つ目が、ちょっと変』」
「くだらない」吐き捨てるように僕は言った。
「とにかく、俺はオカルト部の研究題材に『図書館の七不思議』を選ぼうと思ってるんだよ」
「勝手にすればいいけど、僕を巻き込むなよ」
前のめりに言う彼を軽く手であしらいながら、僕は理人から一冊の文庫本を受け取った。それをスキャナに通した途端、ビーッと短くエラー音が鳴る。
「あれ理人。これ駄目だ。貸出禁止」
「え、まじ?」
「ほら。よく見ろよ、背表紙んとこ。赤いシールが貼ってあるだろ? 貸出禁止の印。オリエンテーションの時に教わったろ」
「うわ、まじだ。なんで? 貸出禁止って普通、図鑑とかみたいな高い本だろ? こんな薄っぺらい文庫本が貸出禁止なことあるのかよ」
「たしかに。なんでだろ」
僕は手元のノートパソコンの画面に目をやった。そこに開かれているのは図書館の貸出管理システムだ。この学校の図書館に所蔵されている書籍にはひとつひとつICタグが貼り付けられていて、それをスキャナで読み取ると書籍の情報が画面に表示される仕組みになっていた。蔵書情報のステータスの欄を確かめると、間違いなく『貸出禁止』と書かれている。
「『étude:01』、
書名、作者、出版元の欄を順に読み上げた。いずれも聞いたことのない名前だ。作者はまだしも、出版社までまるで聞き覚えがないとは珍しい。余程小規模な会社なのだろうか、あるいは僕が無知なだけか。続いて僕は本の方を改める。奥付を見る限り、管理システムの情報に間違いはなさそうだ。ぱらぱらとページを捲ってみると、内容はどうやらSFの掌編集らしいということが分かる。他に情報がないかと裏を向けてみたが、裏表紙にはあらすじすら書かれておらず、真ん中に小さくロゴマークがあるだけだった。『片吟文庫』の文字の上にある円形の枠の中には、本を持ったペンギンのイラストが描かれている。真っ黒い顔に浮かぶ白く縁取られた黒い目が、じっとこちらを見つめているような気がした。
「あっ」
裏表紙を眺めていると、僕はあることに気がついた。
「これ、個人出版の本かも」
「個人出版?」と理人が首を傾げる。
「うん。出版社を通さずに、個人が自分でデータを作って印刷所に発注するんだ。いわゆる同人誌ってやつ。ほら、裏表紙にバーコードがないだろ? 一般に流通してる商品じゃない証拠だよ」
「へえ。個人でこんなちゃんとした本が作れるんだな」
「うん。多分、図鑑みたいに高価な本ではなくても、希少なものだから貸出禁止になってるんじゃないかな。万一紛失されたりしたら、買い直すのは難しいから」
「なるほどな」理人は僕の手から文庫本を取り上げ、しげしげと眺めながら言った。「なあ。貸出禁止の本って、校内だけでも持ち出しちゃ駄目なのか? 俺、次の授業自習になったから、その間の暇つぶし探しに来ただけなんだけど」
「あー、
「銀平さん? 誰それ」
「
図書館で過ごすことの多い僕は必然的に司書とも親しくなり、いつの間にか彼を『銀平さん』と下の名前で呼ぶようになっていた。
「全く覚えてない」
「ちゃんと聞いとけよな」
「だって、うちの司書ってロボットじゃなかったか? あ、もしかして司書ロボットのことを『銀平さん』って呼んでる?」
「違うよ。あれはポチ」
『ポチ』と発音した僕の声に反応したのか、ちょうどその司書ロボットがゴトゴトと音を立てながら僕たちの方へ向かってきた。
「オヨビデショウカ?」
理人の隣で停止してロボットは言った。今時のロボットは大抵人間と区別がつかないほど流暢に喋るが、彼の言葉は電子音丸出しの片言だ。
「おまえ、こいつのことポチって呼んでんのかよ」
「僕が名付けていいって言われたんだ」
「そういえばこいつ」と言って理人はポチの前に屈み、その姿をしげしげと観察し始めた。「ちょっとペンギンっぽいかもな」
「はあ?」
ポチの背丈は人間の半分くらいで、円柱に近い丸っこいフォルムをしている。丸い頭部の真ん中には本を本棚に出し入れするための、三角形の板が二枚合わさったような形状のアームが付いており、腹の辺りには本を置くためのトレーが取り付けられていた。
「ほら。このアームの部分とか嘴っぽいし、トレーの部分も、ペンギンが両手で抱えてるみたいに見えないか? もしかして、『人喰いペンギン』はこいつのことかもしれないな」
「何言ってんだよ。ポチが人を喰うわけないだろ」
僕は溜め息をついてから、理人の手から再び文庫本を取り返し、ポチのトレーの上に置いた。
「ポチ、ちょうどよかった。この本、本棚に戻しておいてくれないか」
「カシコマリマシタ」
ポチは僕たちに背を向け、大きな二つの車輪をゴトゴトと鳴らしながら本棚の方へ向かっていった。
ずんぐりむっくりした身体を揺らしながら不器用に歩くその後ろ姿は、確かに少し、ペンギンっぽい。
***
放課後、僕はまたしても受付当番で図書館にいた。
実を言うと、受付当番は『当番』と言いつつも、担当する人員は僕一人しかいないのだ。この高校には何故か図書委員会というものがなく、図書館の番は文芸部員が行う決まりになっており、そして文芸部には新入生の僕一人しか部員がいないためだった。毎日昼休みと放課後に図書室に拘束されるなんてとんだブラック労働じゃないかと思わないでもないが、僕は図書室で過ごすこの時間が気に入っているため、今のところは不服を申し立てるつもりもなかった。特に放課後の図書室は利用者も少なく静かで落ち着く。文芸部で小説を書いている僕にとっては、気になることがあればすぐに調べものができて相談できる相手もいるこの環境は、一日の中で最も集中できる絶好の執筆タイムだった。
ふと僕は手を止め、「ポチ」と司書ロボットを呼んだ。返事があったかどうかも確かめないまま、「西洋文化史に関する資料をいくつか持ってきてくれないか」と続きを言う。
遠くの方でポチの駆動音がする。僕が顔も上げずに書きかけの原稿を読み返していると、「こんなのでどうかな」と目の前に本が差し出された。
「ありが、うわぁ!」
僕は思わず飛び上がった。
そこにいたのはポチではない。この図書館の人間の方の司書、銀平さんだ。
「いつからいたんですか!」
銀平さんはそれには答えず、「随分集中してたね」と笑う。
「もう、驚かさないでくださいよ」
僕は銀平さんに礼を口にしながら、差し出された本を受け取った。その中に今まさに僕が知りたかった貴族社会の暮らしを解説した本があり、彼の選書の練度の高さに舌を巻く。彼はこの図書館の全ての蔵書データを記憶しているポチ以上に図書館のことをよく知っていて、いつも僕に必要な本をぴたりと当ててくれるのだ。
銀平さんは不思議な人だった。細身で背が高く、全体的に色素の薄い風貌には、ミステリアスな雰囲気がある。外見の年齢は制服を着せても違和感がなさそうなほど若々しいが、その物腰には落ち着きがあり、知識量も若造のそれではない。一度彼に年齢を尋ねたことがあったが、『永遠の十九歳』などと冗談を言ってはぐらかされてしまった。しかし永遠の十九歳という設定が似合ってもいるのがまた不思議でもある。そして何より彼は、神出鬼没だ。ついさっきまでいたはずがいなくなっていたり、いなかったはずが突然現れたり、まるで幽霊のようだと思うことがある。
「新作の進捗はどう?」銀平さんが言った。
銀平さんも小説書く人らしく、僕はよく彼に執筆の相談に乗ってもらっているのだ。
「まだ途中なんですけど、読んでみてもらえませんか?」
「もちろん」
そう言って銀平さんは横長のカウンターをぐるりと迂回して内側に入り、僕の隣の席に座った。作業中のファイルが開かれたノートパソコンの画面を銀平さんの方へ向けると、彼の視線が画面の上を走りだす。
「西洋風の冒険ファンタジーだね」
銀平さんは読むのが速い。僕が何週間もかけて書いた文章をあっという間に読み終え、「プロットはある?」と尋ねた。
僕がプロットのファイルを開いてパソコンを差し出すと、それもすぐに目を通す。
「うん。筋書きは面白いね。筆力次第ではいくらでも良い作品になると思う」
「本当ですか?」
「ただね。やっぱり、
「やっぱり!」
その言葉に、僕はがっくりと肩を落とした。僕の弱点、それは。
「人物造形、ですか」
「うん。よく分かってるね」
銀平さんは、爽やかな笑みを浮かべたまま僕に現実を突きつける。まるで悪魔のようだ。
「保坂君の書く小説は論理的には筋が通ってるんだ。文章もしっかりしてるし、このままでも充分面白いと思う。ただ、もう頭一つ突き抜けたいのであれば、感情の部分の描写力が足りない。それは恐らく、君自身がキャラクターのことをよく理解できていないからだと思う」
「うわー、やっぱり」と僕は頭を抱えた。「自覚はあるんです。分かってはいるんですけど」
「どうすればいいか分からない?」
「はい」
「そうだなあ」と銀平さんは天井を仰いだ。色素の薄いその横顔は、向こう側が透き通ってしまいそうなほど透明感がある。「色んな方法があるけど。僕の場合は、身近な人物をモデルにすることが多いかな」
「身近な人物、ですか」
「うん。家族とか友達とか、誰でもいいんだけど。『この人ならこういうときにこういうことをしそうだな』っていう想像ができる人。そういう人をモデルにすると、必然的にキャラクターが生きてくる」
「はあ、なるほど」
身近な人物。誰かモデルになりそうな人がいただろうか。家族を書く気にはなんとなくなれないので、友人だろうか。とはいえ僕の交友関係は狭く、思い浮かぶ顔は一つしかない。
「あ」
「何? 良いモデルがいたかい?」
「あ、いえ。そうではなくて」
理人の顔から連想して、昼間聞いたうわさ話を思い出したのだ。
「全然関係ない話なんですけど。銀平さん、『図書館の七不思議』って知ってますか?」
僕が理人から聞いた七不思議について説明すると、みるみるうちに銀平さんの顔が曇った。
「ああ、聞いたことはあるよ。あまり出来の良い七不思議じゃないよね」
「七不思議に出来の良し悪しなんてあるんですか」
「そりゃあね。まず第一に、今ひとつまとまりがないよね。七不思議と銘打つなら、同質のうわさを七つ揃えるべきだ。よくある七不思議には、絵と目が合うとか銅像が動くみたいな怪奇現象にまつわるものが多いけど、この七不思議はそこに異質なものが混ざってるだろ」
「人を喰うペンギン、ですか」
「死んだ生徒の件もね。それだけいやに現実味がある」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
「そして、この七不思議は全て、本質的には同じことを言っている。無理やり七つに拡げた感が否めなくて、少しくどいようにも感じる」
「同じこと? 一体どこが」
同じことを言っているのにまとまりがないとは、これはいかに。
「実はね。うわさの元になった事件があるんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「うん。『図書館で死んだ生徒がいる』というのは概ね実話だよ。正確には生徒ではなく卒業生だけどね」
銀平さんはそう言って事件のことを語ってくれた。
「もう五十年くらい前のことかな。彼は君と同じ、文芸部の生徒だった。高校を卒業してすぐにアルバイトを始めた彼は、貯めたお金で本を作った。生まれて初めて作った自分の本の仕上がりを見て、彼はまあ、浮かれていたんだろうね。その本を母校の図書館の本棚に隠すという悪戯を思いついたんだ。彼は高校の夏休み期間中に図書館に忍び込んで、自分の本を持ち込んだ。しかし不運にも、ちょうどその時少し大きな地震が起きた。後世に語り継がれることは決してない小規模な被害の地震だったけど、この高校では、本棚が倒れた。そして彼が下敷きになって死んだ」
銀平さんの話を聞いていると、当時の情景が目に浮かぶようだった。五十年も前の事件のことを、どうしてそこまで仔細に知っているのだろうか。
「彼は相当な本好きだったからね。せっかく本にまみれて死んだのだから、化けて出てれば当然本を読むだろう。霊が本を読んでいれば、霊感のない人からは本が宙に浮いているようにも見えるかもしれない。『存在しない本』というのは、彼が本棚に隠した自分の作品のことだろうね」
「そんなことがあったんですね」
五十年も前のこととはいえ、同じ高校に通っていた生徒が校内で命を落としていたことなんて、僕は少しも知らなかった。
「じゃあ、『読むと呪われる本』というのも」
すると銀平さんは、どうしてか愉快そうに笑った。
「ああ。別に呪いやしないのにね。作者からしたら、自分の作品を読んでくれる人なんてありがたい存在でしかないんだから」
「いや。そりゃあ僕なんかにとってはそうですけど。幽霊からしたらちょっと事情が違うんじゃないですか?」
「いいや、同じだね。幽霊だって作家なんだから」
銀平さんはそう断言してから、「ああ、でも」と顎に手を当てた。
「読んでくれた結果、もし作品を悪く言われたりなんかしたなら、話は別だな。呪っちゃうかもしれない」
その言い方がおかしくて、僕は思わず噴き出した。「呪っちゃうかも、ですか」
「うん。呪っちゃうかも」
彼があまりに真剣な顔で言うものだから、僕はまた笑う。
亡くなった卒業生が残したのはどんな作品だったのだろうか。探せば今もこの図書館にあるのだろうか。彼はどんな気持ちで死んでいったのだろうか。僕は名も知らぬ文芸部の先輩に思いを馳せた。
そして僕はふと気がつく。
「そういえば、ペンギンはどうなるんですか。それからコピー機も」
銀平さんは、七不思議は全て同じことを言っている、と言ったはずだ。
「あれ」
しかし顔を上げると、銀平さんの姿はなくなっていた。
相変わらずの神出鬼没な人だ。
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