第7話 プリンセス


 翌日の水曜日。演劇部は活動のないオフの日。

 いつもなら教室の空気も少し緩む放課後だったけど、セラの心には張りつめた糸のような緊張感が漂っていた。


 昇降口で待っていた美奈子と合流すると、彼女は明るく笑って言った。


「さっき、桂一郎君に連絡したよ」


 セラは無言で頷いた。喉が、ひりついていた。

 改めて見せるという現実が、思っていた以上に重かった。昨日の夜、決意したはずだったのに、胸の奥には冷たい恐怖が澱のように沈んでいた。


「大丈夫、セラくん可愛いから」


 美奈子は笑いながら励ましてくれる。けれど、その声もどこか遠くに感じた。無理に表情を作ることもせず、セラは黙って準備室へと向かった。


 午後四時を過ぎたばかりの準備室には、まだ西日が射していた。古い窓ガラス越しに入る陽の光はやや黄色味を帯びていて、埃の粒を浮かび上がらせる。静まり返った室内には、どこか古びた舞台道具の匂いが漂っていた。セラは、控えめに息を吐きながら、ひとつひとつ確かめるようにドレスへと袖を通していく。


 ドレスは、柔らかなシフォン生地。触れればすぐに壊れてしまいそうなほど繊細で、舞台用にしてはどこか本物の少女の夢をそのまま布にしたようだった。色は水色。快晴に滲む雲のような淡い色合いが、セラの青白い肌に溶け込むように馴染んでいった。


 窓辺に吊るされたレースのカーテンが、微かな風にふわりと揺れる。セラは黙って椅子に座り、鏡の前に向かった。パフで頬を整え、そっと睫毛を指で持ち上げる。その動作はもはや、演技ではなかった。目元に光が宿り、唇の輪郭に優しく紅を差すと、そこに現れたのは、たしかに魔法にかけられた少女だった。


 まるでガラス細工のように繊細で、どこにも尖ったところのない輪郭。微かに伏せられた瞼の下には、青みを帯びた静謐な眼差しが隠れている。肩に触れた髪が、柔らかく揺れた。喉元にかけて垂れるリボンは細く、微かな動きで揺れていた。


 着替えは、昨日よりもずっと慎重に進めた。肌に触れる布の一枚一枚を、確かめるように身に纏っていく。ドレスの布地は繊細なレースと柔らかなシフォン。淡いグラデーションが春の陽光のように肌を柔らかく照らし、細身の腰と薄い肩を優しく包み込んだ。ウエストに添えられた細いリボンが、セラの華奢な体を一層引き立てている。


「うん、綺麗」


 鏡の中にいたのは、まるで夢の中から抜け出してきたような少女──精巧なガラス細工のような存在だった。白磁のように滑らかな肌、憂いを帯びた瞳、儚く色づいた唇。きらめくドレスの裾が舞台用のライトに透けて、まるで光そのものを纏っているようだった。


「ちょっと待っててね。来たみたいだから、呼んでくる」


 そう言い残して美奈子が出ていくと、セラは一人、鏡に映る自分を見つめた。緊張で鼓動が早くなる。でも、今だけは──自分のことを少しだけ、好きになれそうだった。まるで魔法をかけられたシンデレラみたいだ、と、そんな風に。


「セラくん、連れてきたよー! 出てきてー!」


 美奈子から声がかかる。セラは、一度だけ深く息を吸ってから、足を踏み出した。舞台袖に立つと、足元からライトの熱がじわりと伝わってくる。

 照明はすでに点いており、赤味を帯びた光がドレスの裾に当たり、セラの体の周囲に微かな影を落としていた。床の木材は少しだけ軋み、踏むたびにきしむ音を立てる。それが鼓動のように、セラの身体に響いた。


 ステージに足を踏み入れた瞬間、ライトに照らされて、シフォンのドレスがふわりと揺れた。まるで空気に浮かぶ花びらのように。客席は暗く、よく見えなかった。


 ──しかし、そこには確かにの影がそこにあった。桂ちゃんと……


「……な、なんで紫乃……」


 セラは小さく呟いて、美奈子を探した。美奈子は舞台袖で、善良な笑みを浮かべたままだった。セラは美奈子へ問いかけるような視線を送るが、次の瞬間、紫乃が足音も荒く、舞台に駆け上がってきた。


「セラ……あんた……何してんのよ、これ」


 その顔は、いつものからかい混じりのものではなかった。激しい怒りと困惑で歪んでいた。セラの視線は一瞬、桂一郎を探すが、その視線を遮るように紫乃のカラダがセラの視界を覆った。


「い、いやっ、違う……紫乃、これはちが……っ」


 唇が震え、声にならない。視界が揺れた。


「セラ、あいつのこと──」


「──違うっ! 違う、違う!」


 セラは逃げるように舞台袖へ駆け出した。舞台を降り、袖を抜け、走り出した。音響卓の横、狭い通路をすり抜ける。舞台の背後、暗がりの中、足音だけが響いた。


「待ちなさいっ!」


 先回りした紫乃が再び目の前に現れる。セラはドレスをたくし上げてすぐ横を走り抜けようとした。でも、すぐに背後から伸びた紫乃の手が、セラの腕を掴んだ。


「やめっ……!」


 瞬間、セラは強く振り払った。自分でも驚くほどの力だった。細い身体のどこにそんな力があったのか、紫乃はバランスを崩して、その場に尻もちをついた。


 その瞬間、セラの心は凍りついた。自分は、もう男になりつつあるんだと、そんな当たり前のことを実感した。かつての自分とは違う力を持っていたのだ。


「紫乃……」


 セラはすぐに我に返ると、紫乃が起き上がるよりも前に、舞台から逃げ出した。しかし──体育館の出入口へ向かおうとしたその時だった。


「塚本っ!」


 低い声と共に、太く筋肉質な腕が容赦なくセラの細い肩を掴んだ。鋭く怒鳴る声。大熊だった。怒りで真っ赤になった顔、その目に理性はなかった。


「なにやってんだコラ! 紫乃に手ぇ出して、ふざけんなよ!」


「や、やめて……!」


 セラの声は掻き消された。大熊は、セラの纏うドレスの布地など意にも介さず、乱暴に引き寄せ、押さえ込もうとする。


 細い腰に巻かれていたリボンがほどけ、ドレスの肩紐がずり落ちた。シフォンの裾が裂け、まるで羽をむしられる蝶のように、繊細な布が床に落ちる。


「やめろっ! ドレスを破くな──痛っ!」


 言葉の途中で、セラの肩は乱暴に掴まれた。力任せに引き寄せられ、ドレスの縫い目がきしむ。リボンがほどけ、飾りのビーズが床に散らばる。セラが大切にしていたもの──母と自分自身とで作り上げた大切なドレス……それがどんどんと破かれていく……


「やめてっ! やめて、やめて、やめて!!」


 セラは怒りに任せて、ガラスの靴を脱ぎ、それで大熊の肩を思い切り殴った。けれど、大熊は怯まなかった。


「……てめっ、このクソオカマがよ!!」


 大熊の怒声と共に飛んできた拳が頬を掠め、世界が歪む。ドレスのスカートが宙に浮かび、血が飛沫のように舞った。そしてすぐに顔に衝撃。切れた唇から血が流れ落ちる。鼻も打たれ、呼吸が乱れる。

 ふわり靡くドレスが、赤く染まっていく。


「あああああっ!!」


 セラは叫んだ。もう、自分を守る理性も、美しさも、すべて壊されていた。両手にガラスの靴を握り、再び殴りかかった。しかし、体格差は明確だった。大熊は躊躇なく拳で反撃した。

 頭に響く鈍い音。次いで、みぞおちを蹴り上げられる。細い華奢なからだは、大きく弓なりに仰け反り、不吉な悲鳴と共に倒れ込む。


「う……っ」


 セラは崩れるように膝をつき、その場で嘔吐した。ドレスの裾が汚れる。


「セラ……」


 遠く、誰かが名前を呼んだ気がした。でも、誰でも良かった。もう、セラにとってはどうでも良かった。ドレスに、暗く濁った汚れが染み込んでいく。足元のガラスの靴には血が落ち、鈍く光る。


 セラは震える足で立ち上がり、血と嘔吐物と涙にまみれたまま、体育館を飛び出していった。


 ドレスの裾は破れ、靴も履いていない。髪は乱れ、顔は腫れ上がり、血が頬をつたっていた。でも、セラ何処か遠くへ向かって走り続けた。


 外は土砂降りの雨だった。世界に見捨てられたようだった。もう、誰も追ってこない。でも、止まれなかった。


 すれ違う生徒から視線を感じた。教室の窓から、体育館の壁際から。でも、セラは泣きながら、走り続けた。自分が何者なのか、わからなくなるほどに、走り続けた。


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