EP26 密着ストレッチ
「――背中を押させてもらいます」
声に息を少し混ぜて告げると、長座で膝を伸ばした彼の背後に回り、手のひらを肩甲骨の内側へそっと据える。腕にゆっくり力を載せ、上体を前へ倒す方向へ誘う。
「うぐっ……いてて」
けれど、筋がぴんと張ってまるで動かない。肩の周りも腰のあたりも、緊張が頑なに居座っている。
「ふふっ、思った以上に硬いですね。普段からちゃんとストレッチしないといけませんよ」
これは、もう少し
密着するための口実を得た水鳥みたいに、体の内側が軽くなる。これから自分が何をするのか想像して、口の端が自然とほどけた。
「もう少し強く押しますね」
「え? 強くって、ちょっと待っ――」
言い終わる前に、私は彼の背へ体重を預ける。背中に胸をやわらかく押し当て、両腕を彼の上腕に回してホールド。
抱え込む形で支点を作り、呼吸のリズムに合わせてじわり、じわりと角度を深める。モコモコの生地越しでも、心臓の鼓動が私の胸骨に反響してくるのがわかる。
……どうですか、佐山くん? ちゃんと、感じてくれていますか。
耳の後ろから覗き込むと、横顔は必死に笑いを作ろうとして作れない表情。理性の綱と、どこかから課された
その葛藤に、言葉にできない昂りが腹の底でぱっと灯る。背中越しに伝わる体温の波が私の胸の形を撫で、熱がさらにせり上がってくる。
「いい感じですね。あと10秒くらいにしましょうか」
追い打ちをかけるように、耳殻の縁すれすれへ吐息を落として、ゆっくり数をほどいていく。
「わ、わかった!! わかったからちょっと離れて――」
「10……」
温度のある息が皮膚の薄いところへ染み、背中越しに彼の呼吸が一拍ぶんだけ乱れる。囁きが耳の奥で反響して、小さな震えが首筋から肩へ伝わるのが、胸に触れた鼓動でわかる。
「9……8……」
数字が短くなるほど、私は言葉を細く長く引き延ばす。音の尾が耳たぶに触れては消え、そのたびに胸と彼の背中が、布越しにかすかに擦れる。
微かな摩擦音、きしむマット、2人分の脈拍――触覚の粒が重なり合って、背骨の一本一本に灯りがともる。
「7……6……5」
ゆっくり、でも確かに――私が押す強さと囁く速度が、彼の体のリズムを少しずつ塗り替えていく。
胸郭が私の胸に合わせて上下し、肩甲骨の内側で熱が膨らみ、背筋の奥が甘くほどけるのが背中越しに伝わる。
数字が唇からこぼれるたび、彼の全身がぴくりと跳ね、私の中にも同じタイミングで波が立つ。
「4……3……2」
私は腕の輪をほんの少し狭め、包み込む形で支えながら、背骨に沿って圧を微調整する。
触れて、離れ、また触れる、その往復が快楽の微細な波を連れて戻ってくる。
「……1」
最後の数字を、息だけの声で耳の奥に置く。同時に張り詰めていた糸を弾くように、胸と背の重なりを強める。
「――0」
その一語を耳のすぐ後ろでやわらかく砕いた瞬間、張り詰めていた糸が――爆ぜた。
視界の端が白くほどけ、全身の毛細血管へ熱が一斉に駆け抜ける。胸と背中が重なった線から火花が散るみたいに、甘い電流が指先とつま先の奥まで走り抜け、意識がほんの刹那ふわりと浮く。
――人生で初めて感じる、極上の瞬間。10秒という短さが信じられないほど濃密で、気を抜けば本当に飛んでしまいそうだった。
私はじわりと力を抜きながら、最後の余韻だけを彼の背中に残し、乱れた呼吸をひとつ、ふたつと整えた。
* * *
少し呼吸を整えてから、私は彼の正面に座り直した。先ほど私がやった開脚のフォームを、今度は彼に。
先ほどとは逆に、今度は私が
私はその糸を、ほどけないように、でも確実に――ゆっくりと手繰り寄せる。マットレスがきしりと鳴り、腕から肩、鎖骨の奥へと力が伝わっていく。
こちらへ、こちらへ。彼の体幹の重さが少しずつ私の方へ傾き、距離が手のひら一枚から息一つ分へ縮まっていく。
迎え入れる場所は決めてある。
母性の象徴――柔らかな双丘。
そこに彼の顔をそっと受け止めてあげるつもりで、私は上体をわずかに開き、胸の前の布に空気の余白をつくった。甘い檜の残り香が、呼気といっしょに彼の方へ流れる。
誰が見ても近い、という距離になったところで、ようやく彼の表情に気づきの色が走る。瞳孔がかすかに開いて、眉間に戸惑いの影が落ちた。
「え……ち、ちょっと待て!」
「大丈夫ですよ、もう少しです」
静止の言葉を、私はやわらかく越えていく。指にもう半節だけ力を込め、糸を一巻き。
彼の上半身がさらに落ち、吐息が目に見えるほど荒くなる。視線が迷子になった末、ぱくりと双丘に噛みつくように吸い寄せられて、そこで濃く、重く沈む。
布と肌の境目、その暗がりの温度まで測ってしまうみたいな真剣さに、理性という薄い殻へ細いヒビが入る音が――たしかに、聞こえた気がした。
このまま流れに身を任せて、顔を埋めたい。
そんな欲求の輪郭が、目の奥で膨らんでいくのが見える。
そして、私の体の方も反応する。胸の裏で鼓動が速さを増し、パーカーの内側で肌が微かに粟立つ。
彼の顔はもう、私の胸から数センチ。吐息が毛足をそよがせ、その温度が乳骨の奥へすっと入ってくる。
……どうしますか? このまま、本能に従って顔を埋めてしまいますか?
心の中で彼に囁きを落としながら、私はさらに指を絡め直す。
理性の殻から溢れ出したその本能――見せて。今ここで。
首をわずかに前へ傾ければ、ふたりの間にある最後の空気がひと息ぶん、溶けてしまう。
――その時だった。
「うおおおお!」
彼が弾かれたように上体を跳ね起こし、糸がぷつりと切れた。熱を帯びた空気が置き去りにされ、数歩ぶんの距離が一気に戻る。
彼は肩で息をし、視線を泳がせたまま、顔に残った紅潮をどうにか押し隠そうとしている。
惜しい――その一語を飲み込み、私は指先に残る鼓動の余韻をそっと握りしめた。
「……どうしたんですか? ただのストレッチなのに」
余裕を浮かべつつも、本能を見損ねたわずかな不満が、声の端に滲む。彼は顔つきを変え、歯の間から絞るように言った。
「こんのぉ、わざとじゃ――」
はい、もちろん――
階下から、聞き慣れた声が階段の隙間を抜けて上がってきたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます