第15話:『絶望の魔神、希望の女神』
――女神、本人も、ご一緒とはな。
枢機卿が放った言葉は、まるで時間が止まったかのような、絶対的な静寂を、この禍々しい洞窟の最深部にもたらした。
仲間たちの、息を呑む気配が、痛いほどに伝わってくる。誰もが、信じられない、というように、その視線を、樞機卿と、そして、静かに佇むソフィアの間で、さまよわせていた。
「……ソフィア、さん……が……?」
リナのか細い声が、静寂を破った。
「女神……様……? まさか、あの、いつも、俺たちに呆れてる、あの姐さんが……?」
ジンが、信じられない、というように、頭を掻いている。
「ど、どういうことだ……。ソフィアさんが……本物の……?」
サラは、あまりの衝撃に、言葉を失っていた。
そして、アンジェラは。
「おお……おおお……おおおおおおおおおおおおっ!」
彼女は、わなわなと、全身を打ち震わせ、その美しい顔を、感涙と、恍惚と、そして、これまでの自分の非礼を悔いる、絶望で、ぐちゃぐちゃにしていた。
「わ、わ、私の、目の前にいらっしゃった、この、あまりにも美しきお方こそが……! 本物の、生きた、女神ソフィア様、そのご本人であったと……! なんという、なんという僥倖! そして、私は、そんな御方を前にして、パンがどうの、下着の色がどうのと、なんという、不敬極まりない戯言を、述べ立てていたのだあああああ!」
彼女はその場に崩れ落ち、五体投地で、ソフィアに向かって、必死に謝罪と祈りを捧げ始めた。
樞機卿は、そんな俺たちの動揺を、実に楽しそうに、眺めていた。
「いかにも。その女こそ、この世界を管理する、秩序の女神、ソフィア。我ら『魔神教団』が、永きに渡り、その力を追い求めてきた、至高の贄よ」
彼は、黒いローブを脱ぎ捨て、その正体を、現した。その下に着ていたのは、法国の枢機卿の法衣ではなく、黒と紫を基調とした、邪悪な紋様が刻まれた、禍々しい司祭服だった。
「我らの目的は、ただ一つ。この洞窟に眠る、偉大なる我が主、魔神様の、完全なる復活! そのためには、対極の力を持つ、女神の、その聖なる神気と魂が、必要不可欠なのだ!」
樞機卿の言葉と同時に、彼の背後に控えていた、黒いローブの者たちも、次々と、そのフードを取った。
現れたのは、それぞれが、人ならざる、異様な気配を纏った、魔神教団の幹部たち。
妖艶な笑みを浮かべ、二本の曲刀を構える、女剣士。
全身を、黒い鋼鉄の鎧で固めた、巨大な、重装甲騎士。
その瞳に、狂気の光を宿し、指先で、小さな黒い炎を弄ぶ、若き魔導士。
そして、その顔に、女神への、深い憎悪を刻みつけた、堕落神官。
彼らは、俺たち一人一人を、値踏みするように、品定めするように、見つめていた。
「驚いている暇は、ないようだな」
ジンは、顔の血の気を拭うと、ニヤリと笑った。
「へっ……なるほどな。どうりで、ユウキの旦那が無茶苦茶なわけだ。だが、面白え! 女神様だろうが、なんだろうが、俺たちの、大事な仲間だってことに、変わりはねえ!」
「その通りだ!」サラも、剣を構え直した。「驚いたが、納得はできる! ソフィアさんが、どれだけ、俺たちを、そして、ユウキを、守ってくれていたか!」
「師匠が……女神様……。ならば、私は、女神の弟子! なんと、光栄なことでしょう!」
「おおおお! 女神ソフィア様! このアンジェラ、この命に代えても、貴方様を、お守りいたしますぞおおおお!」
仲間たちの、覚悟は、決まった。
ソフィアが女神であるという事実は、彼らを、絶望させるのではなく、逆に、これ以上ないほどの、強い結束と、闘志で、結びつけていた。
「愚かなる人間どもめ。女神一人、守りきれるとでも、思うか?」
樞機卿が、せせら笑う。
「――かかれ! 奴らを、一人残らず、魔神様への、捧げものとせよ!」
その号令を合図に、魔神教団の幹部たちが、一斉に、俺たちに襲いかかってきた。
戦いの火蓋は、今、切られた。
◇
洞窟の最深部は、一瞬にして、激戦の舞台と化した。
剣と、魔法が、激しく交錯し、火花と、衝撃波が、壁という壁を、削り取っていく。
それは、これまでの、ドタバタな冒険とは、全く違う、命のやり取り。死と、隣り合わせの、本物の戦いだった。
「神鳴流・改――『月光』!」
ジンは、これまでの、スケベな表情を完全に封印し、研ぎ澄まされた剣士の顔で、妖艶な女剣士と、渡り合っていた。彼の、神速の剣技は、女剣士の、予測不能な、踊るような二刀流に、ことごとく、いなされる。
「あらあら、いい男。でも、少し、動きが硬いわよ?」
「うるせえ! 俺は、仲間(ダチ)の前じゃ、いつだって、カッコつけるって決めてんだよ!」
「はあああああっ!」
サラは、正面から、重装甲騎士の、大盾の猛攻を受け止めていた。彼女の、絶望的な方向音痴は、もはや、そこにはない。ただ、ひたすらに、パーティの盾として、リーダーとしての覚悟で、その重い一撃を、耐え続けていた。
「お前の、その無骨な攻撃では、私の、仲間たちの、指一本、触れさせるものか!」
「燃え盛れ、煉獄の炎! 吹き荒べ、極北の吹雪よ! 『エレメンタル・バースト』!」
セレスティアは、もう、魔法の暴発を、恐れてはいなかった。彼女は、自分の持てる、最大、最高の魔力を、無詠唱で魔法を操る、天才魔導士相手に、叩きつけていた。
「無駄だ。お前の魔法は、力が、拡散しすぎている」
敵の魔導士は、セレスティアの、荒れ狂う魔法を、指先一つで、いなし、あるいは、吸収していく。だが、セレスティアの瞳には、諦めの色はなかった。
「この、女神の裏切り者めが! その腐った信仰心、私が、叩き直してくれる!」
「ふん、哀れな信者よ。お前が信じる女神など、ただの、秩序に縛られた、無力な人形に過ぎん!」
アンジェラは、自分の信じる「正義」と「女神」のために、堕落神官と、激しい、信仰のぶつかり合いを、演じていた。ズレてはいるが、その想いは、本物だった。
仲間たちは、皆、死力を尽くして、戦っていた。
だが、敵は、あまりにも、強い。
幹部たちは、それぞれが、一国の騎士団長クラスか、それ以上の実力者。徐々に、徐々に、仲間たちは、追い詰められていく。
そして、俺とソフィアの前には、元凶である、樞機卿が、立ちはだかっていた。
「さあ、女神ソフィア。おとなしく、その力を、こちらへ、渡してもらおうか」
彼は、その手に、黒い霧でできた、禍々しい杖を構え、強力な、闇の魔法を、俺たちに、放ってきた。
「させるか!」
俺は、聖剣を構え、ソフィアを守るように、その魔法を防ぐ。だが、その魔力は、あまりにも強大で、一撃、一撃を防ぐたびに、腕が痺れ、呼吸が、乱れていく。
防戦一方。ジリ貧。
このままでは、俺も、仲間たちも、いずれは、力尽きる。
その、残酷な事実を、誰よりも、理解していたのは、ソフィアだった。
彼女は、俺の背後で、静かに、しかし、固く、覚悟を決めていた。
彼女の脳裏に、これまでの旅の日々が、走馬灯のように、駆け巡る。
初めて、俺と出会った、あの神聖な空間。
「貴方と一緒に旅がしたい」と、馬鹿正直に、叫んだ、彼の顔。
共に笑い、共に悩み、そして、共に、戦ってきた、短いけれど、あまりにも、色鮮やかな、時間。
そして、自分の心の中に、確かに芽生えた、温かくて、切なくて、どうしようもなく、愛おしい、この感情。
(……ユウキ。貴方と出会えて、私は、本当に、幸せでした)
彼女は、俺に、静かに、告げた。
「ユウキ。……ここまでです。よく、戦ってくれました」
その声は、不思議なほど、穏やかだった。
「貴方だけは、逃げなさい。仲間たちと共に」
彼女は、自分の命と、神気と、魂のすべてを、贄とすることで、俺たちを、この絶望的な戦場から、強制的に、転移させようとしていた。
自分一人が、消えることで、愛する人と、その仲間たちの、未来を、守るために。
それが、女神ソフィアが下した、最後の、自己犠牲の決断だった。
◇
だが。
その、女神の、悲壮な覚悟を、一人の、ただの人間が、一喝の元に、打ち砕いた。
「――ふざけるなッ!!!!」
俺の、魂からの叫びだった。
俺は、振り返り、ソフィアの、その細い肩を、強く、掴んだ。
「俺が! なんで、異世界に来たと思ってるんだ! どんなチート能力よりも、どんなお宝よりも、あんたと、一緒にいたいって、そう、願ったからだろうが!」
俺の瞳から、熱いものが、こぼれ落ちる。
「あんたを、一人にして、俺だけ、逃げるくらいなら! 俺は、ここで、あんたと一緒に、戦って死んだ方が、一億倍、マシだ!」
もう、守られるだけの、か弱い存在ではない。
ただ、女神の祝福に、頼るだけの、一般人ではない。
俺は、彼女と、「共に在る」ことを、選ぶ。対等な、パートナーとして。
「俺は、弱い! チートなんて、持ってない! でもな、ソフィア! あんたが、隣にいてくれるだけで、俺は、最強になれるって、心の底から、信じてるんだ!」
俺は、彼女の、涙で濡れた瞳を、まっすぐに見つめた。
「だから、ソフィア! 俺に、あんたの力を、全部、貸してくれ! 俺が、あんたの剣になる! あんたの、翼になる! だから!」
俺の、不器用で、めちゃくちゃで、しかし、嘘偽りのない、魂の叫び。
その言葉は、ソフィアの、自己犠牲の覚悟を、粉々に、打ち砕いた。
彼女の、女神としての、最後の、理性の壁を、溶かしていった。
涙が、彼女の瞳から、とめどなく、溢れ出す。
だが、その唇には、俺が、これまで見た中で、一番、美しくて、一番、愛おしい、最高の笑みが、浮かんでいた。
「…………はい、ユウキ」
彼女は、最高の笑顔で、頷いた。
「私のすべてを、貴方に、捧げます。私の、愛する、たった一人の、勇者様」
その言葉と共に。
俺とソフィアの心が、魂が、完全に、一つになった。
彼女は、女神としての、すべての権能を、一切の制限なく、俺に、注ぎ込み始めた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
俺の全身から、これまでの比ではない、純金の、神々しいオーラが、後光のように、迸った。手にした聖剣が、まるで、第三の太陽が、この洞窟に出現したかのように、まばゆい光を、放ち始める。
洞窟全体が、その、圧倒的な神気に、震えていた。
「な、なんだ、この力は……!?」
樞機卿が、その凄まじいエネルギーの高まりに、初めて、狼狽の表情を浮かべた。
「馬鹿な! 女神が、人間に、これほどの力を、直接、与えるなど……! ありえん! あってはならんことだ!」
俺は、黄金に輝く聖剣を、ゆっくりと、構えた。
体中に、力が、みなぎってくる。
もう、怖くはなかった。
俺は、絶望の淵にいる、仲間たちと、そして、俺の隣で、すべてを信じて、微笑んでくれている、愛する女神に向かって、叫んだ。
「さあ、始めようぜ、枢機気の旦那!」
俺は、反撃の、第一歩を、踏み出した。
「――第二ラウンドだ」
絶望の闇を、切り裂く、希望の光。
俺たちの、本当の戦いは、今、ここから、始まる。
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