第13話:『王都の恋火花と、忍び寄る戦争の影』

王城の一角、我々のために特別に用意されたその区画は、もはや単なる「部屋」という言葉では到底表現しきれない、壮麗な翼殿(よくでん)と呼ぶべき豪奢な空間だった。そのあまりの現実離れした光景に、俺は未だに夢の中にいるのではないかと、自分の頬をつねることさえあった。


天蓋付きの巨大なベッドは、選び抜かれた鳥の羽根が幾重にも重ねられているのか、体を横たえるとまるで重力から解き放たれ、柔らかな雲の上に浮かんでいるかのような心地よさに包まれる。毎朝、窓から差し込む陽光は、計算され尽くした角度で王都の壮麗な庭園を黄金色に染め上げ、その光景は一枚の神々しい絵画のようだった。小鳥のさえずりが優雅な目覚ましとなり、銀食器の澄んだ音と共に運ばれてくる朝食は、大陸中から取り寄せられたであろう高級食材の絢爛なパレード。見たこともない色鮮やかな果実、黄金色に輝く鳥の卵、そして一口食べれば脳が蕩けるような甘さの蜜。極めつけは、浴室に設置された蛇口だ。ひねればもちろん温かい湯がとめどなく溢れ出すのだが、もう一方の蛇口からは、なぜか甘く芳醇な香りを放つ薔薇水が流れ出てくる始末。これで体を清めれば、一日中、高貴な香りに包まれて過ごせるという、貴族の考えることは常軌を逸しているとしか言いようがなかった。


我々は魔物を討伐した英雄として、文字通り破格の、いや、常識を超えた待遇を受けていた。しかし、そんな夢のような豪奢な生活も、そのきらびやかな一枚皮をめくってしまえば、そこにはやはり、俺たちの変わらない日常が広がっている。すなわち、予測不能なカオスとドタバタが織りなす喜劇の、舞台が少し豪華になったに過ぎなかったのだ。


そして、その混沌の中心には、いついかなる時も、二人の、この世のものとは思えぬほど美しい女性の、燃え盛るような熾烈な火花が存在していた。


「ユウキ様! おはようございます! さあ、麗しい朝ですわ、どうかお目覚めくださいまし! 今日は我がアーレンス王国が誇る純白の名馬『シルフィード』に跨り、風を切って朝駆けとまいりましょう!」


まだ薄暗さが残る早朝、俺の寝室の重厚な扉を、まるでそれが存在しないかのように軽々と、そして元気いっぱいに開けて飛び込んでくるのは、この国の王女、エリザベート・フォン・アーレンスその人であった。彼女は、一国の王女という高貴な身分でありながら、毎朝誰よりも早く俺の居住区画に現れては、半ば強引に俺を起こし、様々なデートプラン――少なくとも彼女はそう信じて疑っていない――を、太陽のような笑顔で提案してくるのだ。その行動力と天真爛漫さは、時に嵐のようでもあった。


だが、その太陽の進撃の前には、必ずと言っていいほど、鉄壁の守護者が静かに立ちはだかる。


「あら、王女殿下。ごきげんようございます。早朝から随分とご機嫌麗しゅうございますわね。ですが、大変申し訳ありませんが、あいにくユウキは、本日、私と先約がございまして」


俺の寝室の扉の前、来客用の豪奢なソファには、いつの間にか、まるでずっとそこが定位置であったかのように、ソフィアが優雅に腰掛け、朝の紅茶を嗜んでいるのだ。彼女は、完璧な淑女の微笑みを唇に浮かべている。その所作は流れる水のようで、非の打ち所がない。しかし、その慈愛に満ちているはずの美しい瞳は、エリザベートを射抜くかのように、氷のような冷たい光を宿していた。


「ユウキと二人で、この国の成り立ちと英雄譚について、少しばかり書物を紐解き、研究をしようと約束しておりましたの。国の英雄たる者、その礎となった歴史を知るのは、当然の務めでございますものね?」


ソフィアの言葉は、どこまでも丁寧で理路整然としている。それはエリザベートの提案を「遊び」と断じ、自身の提案こそが「英雄の責務」であると暗に示唆する、高度な牽制であった。


「なんですって!? そのような堅苦しい勉学など、後回しでよろしいでしょう! 男というものは、まず体を動かし、心身を鍛えることこそが重要ですわ! 英雄ならなおのこと!」


エリザベートも負けてはいない。彼女の主張は明快で、情熱的だ。王族としての威厳と、一人の女性としての純粋な想いが、彼女の言葉に力を与える。


「まあ、王女殿下。脳を鍛えることも、立派な鍛錬ですわよ? 筋肉ばかりでは、いざという危急の場面で、的確な判断を下すことはできませんから。力と知、その両輪が揃ってこそ、真の英雄と呼べるのではないでしょうか」


バチチチチッ!


まるで物理的な音が聞こえるかのように、二人の美女の視線が激しく交錯し、その間に目には見えない紫電の火花が激しく散る。一方は王族の血統に裏打ちされた絶対の自信と天真爛漫な猛攻。もう一方は女神の威光を背負った絶対の守護と計算され尽くした策略。そのあまりに高レベルな攻防に、俺はベッドの中でただひたすら狸寝入りを決め込むことしかできなかった。どちらに味方しても、もう一方から何をされるか分かったものではない。下手に動けば、この神々の闘争の余波で我が身が滅ぶ。それが、この数日で俺が学んだ生存戦略だった。


この戦いは、朝の寝室だけに留まらない。例えば、食事の時などは、もはや局地戦を通り越して全面戦争の様相を呈していた。


大食堂の長いテーブル。俺の右隣にはエリザベートが、そして左隣にはソフィアが、まるでチェスの駒のように完璧な布陣で俺を固めている。


「ユウキ様、こちらの白身魚のポワレ、大変美味ですわよ! レモンとハーブの香りが食欲をそそります。さあ、わたくしが、丁寧に骨を取って差し上げますわ!」


エリザベートが銀のナイフとフォークを巧みに操り、ふっくらとした魚の身だけを器用に小皿に取り分ける。その手際は、まるで熟練の料理人のようだ。


「あら、ユウキ。貴方は、お魚よりもお肉の方がお好きでしたわよね? こちらのローストビーフ、完璧な火加減ですわよ。シェフに命じて、貴方の好みに合わせてミディアムレアに仕上げさせましたの。さあ、あーん」


ソフィアは、滴る肉汁が宝石のように輝く厚切りのローストビーフをフォークで差し出し、有無を言わさぬ微笑みで俺に迫る。その声は優しく、しかし逆らうことを許さない響きを持っていた。


右から魚、左から肉。俺は、まるで親鳥から餌を与えられる雛鳥のように、ただただ交互に差し出される最高級の料理を、反射的に口に運ぶだけの存在と化していた。美味しい。間違いなく人生で一番美味しい食事のはずなのだが、両隣から放たれる凄まじいプレッシャーのせいで、正直なところ味などほとんど分からなかった。ただ、胃だけがキリキリと痛むのを感じていた。


そして、俺の仲間たちは、もはや日常と化したこの高レベルすぎる女の戦いを、一種のエンターテイメントとして、安全な距離から、しかし非常に興味津々な目で見守っていたのである。


「おい、賭けようぜ。今日の昼飯は、エリザベート様とソフィア様、どっちがユウキの旦那の隣をキープするかに」


ジンがニヤニヤしながら、サラとセレスティアに声をかける。


「俺は、ソフィア様に金貨一枚だな。あの、有無を言わさぬ『正妻オーラ』とでも言うべき威圧感は、一日の長があるぜ。エリザベート様もすごいが、どこかまだ甘さがある」


「私は、エリザベート様に賭けますわ。あの、王族ならではの、常識の枠に囚われない天真爛漫な猛攻は、時にどんな策略をも打ち破ります。侮れませんわよ!」


「うーん、そうですね……。どちらも甲乙つけがたいですが……。私は、ユウキさんが最終的に逃げ出す、に銅貨三枚……」


サラとセレスティアが真剣な表情で議論を交わしている。頼むから、本当に頼むから、俺を賭けの対象にしないでくれ。俺の胃の寿命が縮むだけなんだ。


恋という感情を明確に自覚してから、ソフィアは劇的に変わった。以前の彼女は、どこか一歩引いた場所から俺たちを見守り、導くような、慈愛に満ちた控えめな女神だった。だが、今の彼女にその面影は、もはやどこにもない。


彼女は、積極的に、そして実に計算高く、俺の隣というポジションを死守しに来る。エリザベートが乗馬や剣の稽古といった、体を動かすアクティブな誘いをかければ、ソフィアはすかさず読書や歴史研究、あるいは古代遺跡の謎解きといった、知的好奇心を刺激するアプローチで対抗する。その全てが、「英雄であるユウキの能力を高めるため」という、誰も反論できない大義名分のもとに行われるため、俺は断ることができないのだ。断ろうものなら、「英雄としての自覚が足りませんわ」と、あの美しい微笑みで諭されてしまうのがオチだった。


彼女は、もはや、ただ俺たちを守護する女神ではない。愛する男を、強力なライバルから守り抜き、そして確実に手に入れるためならば、相手が一国の王女であろうと一歩も引かずに渡り合う、恋する一人の乙女であり、同時に、恐るべき策略家へと、その姿を変貌させていたのである。



そんな、ある意味では平和で、しかし非常に賑やかで、そして俺にとっては胃の痛い日々が続いていた、ある日のことだった。


俺たちは、国王陛下直々の命令で、城の一室へと呼び出された。そこは、いつもの煌びやかで壮麗な謁見の間ではなかった。部屋に入るなり、革と古い羊皮紙の匂いが鼻をつく。巨大な大陸地図が壁一面に広げられ、そこには様々な色の駒や線が引かれている。周囲の壁には、各国の情勢や軍備、特産品などを記したであろう羊皮紙が、所狭しと貼り付けられていた。ここは、まさしく国家の頭脳であり心臓部、作戦司令室のような場所だった。


玉座に座る国王は、いつもの威厳に満ちた覇気のある表情ではなく、その眉間には深い憂いの色が刻まれている。我々を一瞥すると、重々しく口を開いた。


「……よく来てくれた。実は、諸君に、頼みたいことがある」


その声には、いつになく深刻な響きが宿っていた。国王が、静かに、しかし言葉を選びながら語り始めたのは、このアーレンス王国と、東の隣国である「ロザリア法国」との間に、急速に緊張が高まっているという、憂慮すべき事実だった。


ロザリア法国。その名は俺も聞いたことがあった。もともとは、我々が信仰する女神教の教えを、独自に解釈した「聖女信仰」という、少し変わった宗派が根付いた国だ。女神そのものを信仰の対象とするのではなく、女神の言葉を直接地上に伝えるとされる「聖女」を最高位に戴き、その神託を絶対のものとする教義。これまでは、教義の違いこそあれ、アーレンス王国とも比較的、穏やかで友好な関係を築いていたという。


だが、その均衡が崩れたのは、数ヶ月前のことだった。


急進的かつ排他的な思想を持つ、新しい教皇が教団の実権を握ってから、国の雰囲気は一変したのだという。新教皇は、「女神の唯一の代弁者たる聖女に、世界はひれ伏すべきである」と公言して憚らず、聖女の言葉こそが絶対の真理であり、それに従わない国は女神への反逆者であると断じた。そして、その教義を盾に、周辺国への軍事的な圧力を、日増しに強め始めていた。


「……そして、近々、その法国から、外交使節団が、この王都にやってくる。表向きは、両国の友好親善を深めるため、ということになってはいるが……」


国王の顔が、苦渋に満ちて険しく歪む。


「十中八九、我々を威嚇し、何らかの無礼、あるいは無謀な要求を突きつけてくるだろう。そこで、諸君に、だ。彼らを歓迎するための夜会に、この国の英雄として、出席してもらいたい。諸君がいる、という事実だけで、奴らへの強力な牽制になるはずだ。我が国にも、神々の寵愛を受けし英雄がいるのだ、とな」


法国との、避けられぬかもしれない戦争の影。俺たちの王都での生活は、ただのラブコメじみたドタバタ劇では、終わらない様相を呈し始めていた。



数日後。王城の大広間では、ロザリア法国からの使節団を歓迎するため、国を挙げての盛大な夜会が催された。


天井からは、これでもかというほどの数のシャンデリアが吊り下げられ、その無数のクリスタルが放つ光が大理石の床に反射し、広間全体が昼間のように、いや、それ以上に明るく輝いている。床は鏡のように磨き上げられ、歩く貴婦人たちのドレスの裾が優雅な波紋を描いていた。壁際には、陸と海の幸をふんだんに使った山海の珍味が、まるで芸術品のように美しく並べられ、宮廷楽団が奏でる優雅なワルツの調べが、会場を満たしていた。


集まった貴族たちは、男も女も、それぞれが己の財力とセンスの粋を尽くした最高級のドレスや、勲章を輝かせた軍服でその身を飾り、互いの富と名声を競い合っているかのようだ。


そんな絢爛豪華な空間で、俺たち一行は、慣れない正装に四苦八苦していた。


「うう……なんだよ、この首が締まる服は……。まるでギロチン台にかけられてる気分だぜ。これじゃ、せっかくの美味い酒も、喉を通りやしねえ」


ジンは、窮屈そうに燕尾服の襟を何度も指で引っ張り、緩めている。だが、その文句を言う口とは裏腹に、彼の目はすでに、シャンパングラスを優雅に運ぶ、美しいウェイトレスたちの、特に形の良いお尻をロックオンしていた。その探索能力だけは、どんな状況でも衰えることを知らない。


「ユウキ……見てくれ……。わ、私は、ちゃんと、歩けているだろうか……? 裾を踏んでしまいそうで、怖い……」


隣では、サラが美しい深紅のドレスを身にまとっていた。炎のような彼女の髪と相まって、燃える花のように見事で、とてもよく似合ってはいるのだが、普段、分厚い鎧しか身に着けていないせいか、その動きはまるで、製造されたばかりのからくり人形のように、ぎこちなく、カクカクしている。


「ひゃっ!?」


案の定、というべきか、背後から小さな悲鳴が聞こえた。振り返ると、セレスティアが自分の淡い青色のドレスの長い裾を、見事に自分で踏んづけて、盛大に転びそうになっている。慌てて俺が腕を掴んで支えたが、彼女は顔を真っ赤にしていた。


「むうう……! なぜなのですか、聖勇者様! 女神の教えによれば、このような軟弱なパーティーにおいても、いついかなる敵の襲撃にも備え、身を守る鎧を着用することは、敬虔な信徒の義務のはず! 私の、特注のドレスアーマーを返してください!」


そんな中、アンジェラはただ一人、この状況に心から憤慨していた。彼女は、ふわりとしたピンクのドレスの上から、特注の、胸に大きなハートマークが彫られた鋼鉄の鎧を重ね着しようとして、サラとセレスティアに両脇から羽交い締めにされ、全力で止められていた。その光景は、夜会の優雅な雰囲気の中で、異質なカオスを放っていた。


そんな、良くも悪くも個性的な仲間たちの中で、ソフィアだけが、まるで夜空から切り取った月光をそのままドレスにしたかのような、美しい銀色のドレスを、一分の隙もなく完璧に着こなしていた。その姿は、生まれながらの王女であるエリザベートすらも、一瞬、その輝きが霞んで見えるほどの、圧倒的なまでの気品と、人間離れした神々しさを放っている。俺は、そのあまりの美しさに、またしても己の貧弱な語彙力を呪い、ただただ、時が止まったかのように見惚れることしかできなかった。


やがて、楽団の奏でるワルツが止み、高らかなファンファーレが鳴り響いた。夜会の主役である、ロザリア法国の使節団が、大広間に入場してきたのだ。


その団長は、痩せぎすで背が高く、まるで蛇のように、ねっとりとした粘着質な目つきをした初老の男だった。豪奢な紫色の法衣をその身にまとっているが、どこか品がなく、悪趣味に見える。その胸には、枢機卿という彼の高位を示す、巨大なアメジストの宝石が鈍い光を放っていた。


枢機卿は、出迎えた国王陛下に、表面上は丁寧な、しかし、その実、心の欠片もこもっていない形だけの挨拶をすると、その蛇のような目で、会場全体を値踏みするように、じろりと見渡した。そして、その侮蔑を隠そうともしない視線が、俺たち一行の上で、ピタリ、と止まった。



「ほう。貴方が、あの、深海の魔物クラーケンを討伐したという、噂の英雄殿か」


枢機卿は、ぬるり、とした音のしそうな独特の動きで、俺の前にやってきた。その薄い唇には、隠しきれない侮蔑の色が、歪んだ笑みとなって浮かんでいる。


「ふん。見たところ、ただの、運が良かっただけの、世間知らずな若造にしか、見えませんがな」


その、外交儀礼など欠片も存在しない、あまりにも無礼極まりない言葉に、俺の隣にいたエリザベートの柳眉が、ピクリと鋭く吊り上がった。


「あなた! 我が国の英雄に対し、その物言いはなんですの! 無礼であろう!」


彼女が、王女としての気概と怒りを込めて、相手を激しく咎めようとした、まさにその時だった。


それを、優雅な、しかし有無を言わせぬ絶対的な仕草で、そっと制した者がいた。ソフィアだった。


彼女は、静かに、そして凛として一歩前に進み出ると、その神々しいまでの微笑みを、正面から枢機卿に向けた。


「枢機卿様。お初にお目にかかります」


彼女の声は、春の小川のせせらぎのように、どこまでも穏やかで丁寧だった。だが、その美しい瞳には、相手の魂の、一番奥底にある醜い澱みまで、すべてを見透かすかのような、冷徹な神の圧力が宿っていた。その尋常ならざる眼光に、歴戦の聖職者であるはずの枢機卿が、思わず、たじろいだ。


「見た目だけで人を判断なさるのは、聖職にある者として、いささかいかがなものかと、存じますわ」


ソフィアは、微笑みを崩さぬまま、言葉を続けた。その一言一句が、鋭い刃のように枢機卿の自尊心を切り裂いていく。


「それに。我らが慈悲深き女神は、真に、信仰心篤き者にこそ、奇跡という名の、大いなる『祝福』を、お与えになります。貴国に、そして枢機卿様ご自身に、その大いなる『祝福』が、今も、変わることなく、満ち満ちておられると、よろしいのですが」


その言葉は、遠回しでありながら、何よりも雄弁に、こう言っているのと同じだった。

――お前たちの掲げる信仰は、偽物だ。女神は、お前たちの欺瞞と邪心を、すべてお見通しだぞ、と。


枢機卿の、貼り付けたような笑みが、みるみるうちにひきつっていく。その顔から、さっと血の気が引き、土気色に変わった。彼は、ソフィアという存在が、ただの美しいだけの女ではないことを、その全身で理解したのだ。


その刹那、ソフィアは見逃さなかった。狼狽した枢機卿の、法衣の懐から、ほんの一瞬だけ、黒い霧のような、濃密で、底知れぬほど邪悪な気配が、微かに漏れ出たのを。


(……これは……。ただの人間の、悪意や憎悪ではない。もっと、深く、根源的な……まるで、魔神の瘴気にも似た……)


ソフィアの瞳が、鋭く細められる。会場に、ピリピリとした、張り詰めた緊張が走る。貴族たちは固唾を呑み、楽団員は楽器を構えたまま凍りついていた。


その、今にも何かが爆発しそうな、張り詰めた空気を、根元からぶち壊したのは、やはり、この男だった。


「まあまあ、枢機卿様も、そんなにカリカリしないでくださいよ!」


俺は、満面の笑みを浮かべ、近くのテーブルにあった、大皿に山と盛られた巨大なローストチキンの足を、一つ、鷲掴みでもぎ取ると、それを、枢機卿の目の前にある、空の皿の上に、ドン、と音を立てて置いた。


「これでも食べて、少し落ち着きましょうよ! 美味しいですよ、これ! 肉汁が、口の中でじゅわ~って広がって、最高なんですから!」


………………シーン。


大広間が、水を打ったように静まり返った。

俺の、あまりにも空気を読まない、100パーセント純粋な善意(という名の、致命的なお節介)に。


その場にいた、ほぼ全員が、心の中で、あるいは実際に、ずっこけた。


エリザベートは、美しい額に手を当てて天を仰ぎ、ジンは、必死で口元を押さえて笑いを堪えているが、その肩は小刻みに震えている。サラとセレスティアは、何が起こったのか理解できずに、ただ目をぱちくりさせていた。


そして、当の枢機卿は、怒る気力すら失ったのか、自らの皿の上に鎮座する、黄金色に輝く巨大なチキンの足を、ただ、呆然と、魂が抜けたような顔で見つめていた。


結局、夜会は、なんとも言えない、非常に奇妙でシュールな雰囲気のまま、その幕を閉じたのであった。


だが、ソフィアは、この夜、確信を得ていた。

あの、胡散臭い法国の使節団。そして、あの邪悪な気配を纏う枢機卿。その背後には、間違いなく、かつて世界を恐怖に陥れた魔神の復活を目論む、巨大で邪悪な勢力が存在している、と。


この国の、そして、いずれはこ​​の世界全体の運命を左右するであろう、大きな戦いの足音が、もう、すぐそこまで、静かに、しかし確実に近づいてきていた。


俺は、まだ、そんなシリアスで壮大なことには全く気づかず、一人テーブルに戻って、ローストチキンの、二本目に美味しそうにかぶりついていたのだった。

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