第9話:『ギクシャクな女神と、連携不能な合同訓練』



***


あの、焦げ付いた仲直りの夜が明けてから、

俺たちの旅には、以前とはまた違う、新たな種類の沈黙が訪れていた。


それは、凍てつくような拒絶の沈黙ではない。


例えるなら、春先の薄氷の上を、壊さないように、そっと歩くような、

そんな、ぎこちなくて、もどかしい沈黙だった。


俺は、ちらりと、数歩先を歩くソフィアの背中を見た。


彼女は、もう俺に背を向けてはいない。

時折、俺の隣を歩くこともある。

だが、その会話は、どこかよそよそしかった。


「今日の天気は、崩れそうですね」

「はい、そうですね」


「水は、まだ足りていますか?」

「はい、大丈夫です」


まるで、初めて会った他人同士のような、当たり障りのない言葉の応酬。

以前のように、彼女が俺をからかったり、俺が彼女の美しさに見惚れてくだらないことを言ったりする、あの気楽な空気は、どこかへ消えてしまっていた。


彼女は、俺と、極力目を合わせようとしない。

その美しい横顔には、常に、戸惑いと、何かを堪えるような、複雑な色が浮かんでいた。


俺も俺で、どう彼女に接していいのか、完全に分からなくなっていた。


あの夜、彼女が見せた涙。

そして、剥き出しの感情。

俺が知っていた、完璧で、慈愛に満ちた女神様とは、全く違う、一人の女性としての、脆くて、繊細な一面。


その姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。


下手に話しかけて、また彼女を傷つけてしまったらどうしよう。

そんな不安が、俺の口を重くさせていた。


そんな俺たちの様子を、後ろからついてくる仲間たちは、ハラハラ、ドキドキしながら見守っていた。


「おいおい、ユウキの旦那と姐さん、まだギクシャクしてやがるぜ。見てるこっちが胃に穴が開きそうだ」

ジンが、小声でサラに囁く。


「仕方ないだろう。あんなことがあった後だ。だが、このままでは士気に関わる。何か、手を打たねば……」

サラは、リーダーとしての責任を感じているのか、腕を組んで深刻な顔をしている。


リナとセレスティアは、オロオロと、俺とソフィアの間を行ったり来たりしている。


「ユウキ、元気ないね……。あたしが、面白い顔してあげようか?」

「師匠、お疲れですか? 私が、回復魔法を……あ、いえ、なんでもありません!」


そして、マリアは、と言えば。


「わ、私のせいで……。私が、パーティの雰囲気を、悪くしてしまって……」

すべての責任を自分一人で背負い込み、今にも泣き出しそうな顔で、地面の石ころの数を数えていた。


俺は、そんなマリアの姿を見て、思わず声をかけた。


「マリアのせいじゃないよ。気にすんなって」


俺が、彼女の頭をポンと軽く撫でた、その瞬間。


数歩先を歩いていたソフィアの肩が、ピクリと、ほんのわずかに震えたのを、俺は見逃さなかった。

彼女は、振り返りもせず、ただ、歩く速度を、ほんの少しだけ速めた。

その小さな挙動の一つ一つが、俺の胸に、ちくりと小さな棘のように刺さった。



そんな、重苦しい旅が二日ほど続いた日の午後。

ついに、痺れを切らしたサラが、パンッ! と大きく手を叩いた。


「このままではいかん! 我々の間には、明らかに連携が不足している! これは、パーティとして致命的な問題だ!」


彼女は、全員を見渡し、力強く宣言した。


「よって、これより、我々の絆とチームワークを高めるための、合同訓練を開始する!」


場所は、街道から少し外れた、見晴らしのいい荒野の平原。

遮るものは何もない。

訓練には、うってつけの場所だった。


「いいか、お前たち! 訓練内容は、模擬戦だ!」

「二つのチームに分かれ、互いの全力をもって、相手チームのリーダーから一本取るまで戦う!」

「これで、お互いの実力を知り、信頼を深めるのだ!」


サラのその提案は、もっともらしく聞こえた。

この澱んだ空気を打破するには、体を動かすのが一番かもしれない。


こうして、半ば強引に、チーム分けが始まった。


「まず、ユウキと、そこのお嬢さん(ソフィア)は、リーダーとして別々のチームだ!」

サラの独断で、俺とソフィアが、敵同士になることが決定した。


そして、くじ引きの結果、


【チーム・ユウキ】

俺、リナ、セレスティア、アンジェラ


【チーム・ソフィア】

ソフィア、ジン、サラ、ゴードン、リック、マリア


という、絶妙にバランスの悪いチーム分けが完成した。


「聖勇者様と、刃を交えねばならぬとは……! これも、女神様が与えたもうた、最大の試練! 全力でお相手させていただきます!」

敵チームになったアンジェラが、なぜか感動に打ち震え、ハンマーを構えている。


「師匠と敵同士……。ですが、これも師匠に私の成長を見ていただく、絶好の機会です!」

セレスティアも、なぜかポジティブに燃えている。


一方、俺は、ソフィアと戦う、という事実に、ただただ気が重かった。

ちらりと彼女の顔をうかがうと、彼女もまた、無表情のまま、静かにこちらを見ていた。

その瞳の色は、読み取れない。


こうして、パーティの未来を占う(かもしれない)、世紀の一戦の火蓋が、切って落とされた。


「いくぞ、お前たち! 我が作戦は『疾風怒濤』!」

「まず、私とジンが左右から敵陣を攪乱し、その隙にゴードンとリックが遠距離攻撃!」

「マリアは後方で支援! そして、リーダー(ソフィア)が、敵将ユウキの首を取る! 完璧な布陣だ!」


サラが、勇ましく号令をかけた。

しかし、彼女は、号令をかけ終わった瞬間、自分が向かうべき「右」がどちらか分からなくなり、その場でグルグルと回り始めた。


「うだうだ言ってねえで、行くぜぇ! ユウキ、今日こそてめえを倒す!」

そんなリーダーは無視して、ジンが、一直線に俺めがけて突っ込んできた。

その速さは、まさに弾丸のようだ。


「師匠! お下がりください! ここは、私が!」

セレスティアが、俺の前に立ち、援護魔法を唱え始めた。


「敵の動きを封じる、氷の檻よ! 『アイス・プリズン』!」

彼女の杖から放たれた極低温の冷気が、ジンに向かって飛んでいく。


だが、その魔法は、ジンを通り越し、彼の背後を走っていた、味方であるサラを、足元から完璧に氷漬けにしてしまった。


「な……ぜ……」

仁王立ちのポーズのまま、氷の彫像と化したサラ。


「うおおおおお! サラさーん!?」

「リーダーが、アート作品に!」

ゴードンとリックが、悲鳴を上げる。


その混乱の隙を突き、ジンは、俺の目の前まで迫っていた。

「もらったぁ!」


彼が、刀を振り上げた、その瞬間。

ジンは、自分の額から噴き出した、大量の汗で、足元の地面がぬかるんでいることに気づいていなかった。

ツルン、と、まるでギャグ漫画のように、綺麗に足が滑る。


「しまっ……!」

体勢を崩したジンは、そのまま、先ほどサラが氷漬けになったことで生まれた、巨大な氷の塊に、顔面から激突した。

ゴーン、という鈍い音が、荒野に響き渡った。


「聖勇者様! 貴方様の強さ、この身で受け止めさせていただきます!」

「これぞ、女神様への、愛の試練! 我が最大奥義! 『聖槌・ミーティアストライク』!」


敵チームのアンジェラは、もはや模擬戦ということを忘れ、天高く飛び上がると、燃え盛る隕石のように、俺めがけて突っ込んできた。


「あ、あぶな……!」

その時、俺の隣にいたリナが、素早い動きで俺を突き飛ばした。

俺は、地面をゴロゴロと転がり、アンジェラの直撃を免れる。


だが、アンジェラのハンマーは、俺がいた場所の地面に叩きつけられ、大規模な地割れを引き起こした。

その地割れは、運悪く、仲間であるマリアの足元まで伸びていた。


「きゃあああああ!」

マリアは、バランスを崩し、地割れの底へと落ちていく。


「マリアさん!?」

俺は、慌てて地割れの縁まで駆け寄り、彼女に手を伸ばした。

「しっかり掴まれ!」


結局、訓練は、それ以上続くことなく、全員が泥と埃と、若干の氷の破片にまみれて、終了した。

連携が深まるどころか、我々のチームワークの欠如が、改めて浮き彫りになっただけだった。



その夜。

俺たちのキャンプ地には、昨日までとは打って変わって、疲労困憊ながらも、どこか穏やかな空気が流れていた。

あれだけ派手に体を動かせば、ギクシャクした気分も、少しは紛れるらしい。


俺は、訓練の疲れからか、夕食もそこそこに、毛布にくるまって、いつの間にか眠ってしまっていた。

夢うつつの中、誰かが、そっと俺のそばに来るのを感じた。


「……ユウキ、風邪、ひくなよ」

リナの声だ。彼女が、自分の毛布を、俺の上にかけてくれたらしい。


「……師匠の寝顔……。ふふ、子供みたいで、可愛い……」

セレスティアの声。彼女が、俺の寝癖を、そっと直してくれている気配がする。


「……全く、世話の焼ける……。だが、お前がいないと、始まらんからな」

サラの声。彼女は、焚き火の火の粉が俺に飛ばないように、大きな盾を立ててくれているようだった。


「聖勇者様……。安らかな、お眠りを……。女神様の、ご加護があらんことを……」

アンジェラの、祈るような声。


「……ユウキさん……ごめんなさい……。そして、ありがとう……ございます……」

マリアの、小さな、小さな声。


みんな、なんだかんだ言いながら、俺のことを、心配してくれている。

その温かい事実に、俺は、眠りながらも、自然と笑みがこぼれた。


ソフィアは、そんな光景を、少し離れた岩の上に座って、ただ、黙って見ていた。

ユウキの周りに集まり、甲斐甲斐しく世話を焼く、他の女たち。


以前の彼女なら、その光景に、またしても、胸を焼くような嫉妬を感じたはずだ。

そして、無意識に、あるいは意識的に、彼女たちの邪魔をするような、小さな奇跡を起こしていたかもしれない。


だが、今の彼女は、違った。

彼女は、燃え上がりそうになる黒い感情を、ぐっと、奥歯を噛み締めて、堪えた。


(……これでは、ダメです。また、あの夜と同じことの繰り返しになってしまう……)


彼女は、自分の心の弱さを、はっきりと自覚していた。

そして、それを乗り越えなければ、ユウキの、本当のパートナーにはなれないことも。


(私は、女神として……いいえ。彼の、隣に立つ者として……変わらなくては、いけないのです)


ソフィアは、静かに立ち上がると、輪に加わることなく、その場を離れた。

それは、逃げではない。

自分の感情と、正面から向き合うための、彼女の、小さな、しかし、確かな一歩だった。



俺が、ふと目を覚ました時、夜は、すっかり更けていた。

空には、二つの月が、銀の皿のように浮かび、満天の星が、ダイヤモンドダストのようにきらめいている。

仲間たちは、皆、それぞれの場所で、静かな寝息を立てていた。


俺は、体を起こすと、隣に、誰かが座っているのに気づいた。

月明かりに照らされた、その美しい横顔。

ソフィアだった。


「……起こしてしまいましたか?」

彼女は、こちらを見ずに、静かに言った。


「いえ……。どうしたんですか、こんな時間に」


「……少し、星を見ていただけです」


また、ぎこちない沈黙が、二人の間に落ちる。

だが、それは、昨日までの、冷たい沈黙ではなかった。

どこか、温かい、静かな沈黙だった。


しばらくして、ソフィアが、ぽつりと、呟いた。


「……先日は、取り乱しました。大人気ないことを、言ったと、反省しています」


「……」


「貴方の判断が、正しいとか、間違っているとか、本当は、そういうことでは、なかったのです」


彼女は、言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。


「ただ、私は……。貴方が、私の知らないところで、仲間を増やして……。

私の知らない顔で、笑い合って……。

どんどん、私から、遠くへ行ってしまうような気がして……」


彼女の声は、微かに震えていた。


「……怖かったのです」


それは、女神としてのプライドをかなぐり捨てた、一人の、か弱い女性としての、偽らざる告白だった。

俺は、驚いて、彼女の顔を見た。

月明かりの下、彼女の青い瞳が、潤んでいるのが分かった。


俺は、ようやく、少しだけ、彼女の心を、理解できた気がした。


「……俺は、どこにも、行きませんよ」

俺は、静かに言った。


「ソフィアさんがいなきゃ、俺は、ただのオールFの、何もできない男です。

みんながいて、ソフィアさんがいて、初めて、俺は、ここにいられるんですから」


俺は、少し照れくさかったけど、続けた。


「それに、俺の居場所は、ソフィアさんの隣だって、異世界に来た、最初の日に、もう決めてるんで」


俺の、不器用な言葉。

それを聞いたソフィアの瞳から、一筋、美しい涙が、零れ落ちた。

だが、彼女の唇には、確かな、微笑みが浮かんでいた。


「……ありがとうございます、ユウキ」


彼女は、そう言うと、初めて、自分から、俺の目を、まっすぐに見てくれた。

その瞳には、もう、何の戸惑いも、葛藤もなかった。

ただ、雨上がりの空のように、どこまでも、澄み切っていた。


「貴方は、本当に……ずるくて、そして、優しい人ですね」


俺とソフィアの間の、薄くて、硬い氷が、完全に溶けていくのが分かった。

俺たちの関係は、ただの「転生者と女神」から、喧嘩もして、仲直りもする、対等で、そして、かけがえのない「パートナー」へと、確かな一歩を、踏み出したのだ。


翌朝。

俺たちのパーティには、ここ最近、嘘のように、明るく、晴れやかな空気が戻っていた。


俺とソフィアが、以前のように、自然に、そして、以前よりも、少しだけ近い距離で話しているのを見て、仲間たちも、心の底から、安堵の表情を浮かべていた。


マリアも、もう、縮こまってはいなかった。

その表情には、はにかんだような、小さな笑顔が浮かんでいる。


目的地の貿易都市は、もう、地平線の向こうに、その姿を見せ始めていた。

新たな出会いと、さらなるドタバタが、俺たちを待っているだろう。


だが、今の俺たちなら、きっと、大丈夫だ。

どんな困難も、どんなカオスも、みんなで笑い飛ばしながら、乗り越えていける。


俺は、隣で微笑む女神の顔を見て、そんな、確信に満ちた予感を、胸に抱いていた。

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