第5話:『残念な魔導士と、暴発する恋心?』

***


商業都市セレブリアの巨大な門を後にして、俺たちの旅は新たな局面を迎えていた。

いや、局面というか、単純に騒々しさが三倍くらいに跳ね上がった、と言うべきか。


「ユウキ! 見ろ! 今日こそ、俺と貴様のどちらが真の剣士か、決着をつける時だ!」


街道のど真ん中で、ジンが腰の刀に手をかけ、朝っぱらから俺に勝負を挑んでくる。

これが、この数日間で何度目になるか分からない、恒例行事だった。


「いや、だから俺は剣士じゃないって言ってるじゃないですか……」


俺が困惑していると、ジンは「問答無用!」と叫んで斬りかかってくる。

そして、その次の瞬間には、必ず何かが起きるのだ。


例えば、木の枝に引っかかって盛大にすっ転ぶとか。

足元の石ころで足を滑らせて近くの小川にダイブするとか。

飛んできた鳥のフンが顔面にクリーンヒットするとか。


そのことごとくが、ソフィアの『祝福』による奇跡的な不運であることに、ジンはもちろん、俺自身も気づいていなかった。


「ぬうう……! 今のは、太陽が眩しかっただけだ! ノーカウント!」


小川でびしょ濡れになりながら叫ぶジン。

その隣では、サラ率いるパーティが、地図を広げて深刻な顔で議論を交わしていた。


「よし、分かったぞ! この地図によれば、この丘をまっすぐ突っ切るのが、水の都アクアリアへの最短ルートだ!」


リーダーのサラが、自信満々に指し示した先。

そこには、どう見ても「崖」としか形容できない、切り立った断崖絶壁がそびえ立っていた。


「いや、サラさん、どう見てもあれは崖です!」

「リーダー、こっちが街道ですよ! 馬車も通ってます!」


仲間であるゴードンとリックの悲痛な叫びも、自信に満ちたサラの耳には届かない。


「何を言うか! 崖に見えるのは、敵を欺くための巧妙なカモフラージュだ! 行くぞ、お前たち!」


「「行けるかぁぁぁぁ!」」


そんなカオスな光景を少し離れた場所で眺めながら、俺はリナと一緒に、道端に咲く小さな黄色い花を摘んでいた。


「ユウキ、これ、冠にしたらソフィア姉ちゃん、似合うかな?」

「おお、いいな、それ! きっと喜ぶぞ!」

「えへへ、じゃあ、いっぱいつーくろっと!」


リナは、すっかりソフィアにも懐いていた。

当初の目的であったお宝奪取計画は、彼女の頭の中から綺麗さっぱり消え去っているようだった。


「ユウキ、あーん」

「ん?」


リナが、どこからか採ってきた木苺を、俺の口元に差し出してきた。


「ほら、あーん」

「いや、自分で食えるって」

「いいから! ほら!」


俺が仕方なく口を開けて木苺を食べると、リナは満足そうに笑った。


そんな俺たちのやり取りを、ソフィアは、やはり数歩後ろから、静かに見守っていた。

彼女の表情は、いつも通りの完璧な微笑みだ。


だが、俺がリナから木苺を食べさせてもらった、その瞬間。

二人の周りをひらひらと飛んでいた、美しい紋様の蝶が、まるで風に煽られたかのように不自然な軌道を描き、俺とリナの顔の間に、ひらりと割り込んだ。


「うわっ!?」

「きゃっ!」


突然の蝶の乱入に、俺とリナは驚いて少し距離を取る。

蝶は、何事もなかったかのように、また優雅に飛び去っていった。


(……ユウキは、注意力が散漫ですね。旅の途中では、どんな些細なことが命取りになるか分かりません。私が、しっかりと見ていてあげないと……)


ソフィアは、自分の心の中でそう結論づけた。

彼女の無意識下で発動する小さな奇跡の数々。

そのすべては、ユウキを危険から守るための、保護者としての善意。


彼女は、まだ、そう信じていた。

自分の胸の奥で、日に日に存在感を増していく、独占欲という名の小さな獣の正体には、まだ気づかずに。



幾多のドタバタ(主にジンとサラが原因)を乗り越え、俺たちはセレブリアを出発してから一週間後、ついに目的地の水の都アクアリアへと到着した。


「…………言葉が、出ない……」


城門をくぐった俺たちは、そのあまりにも幻想的な光景に、完全に心を奪われていた。

この街には、道がない。


いや、正確には、道という道のほとんどが、エメラルドグリーンに輝く、透き通った水路になっているのだ。

街全体が、巨大なラグーンの上に浮かんでいるかのようだった。


人々は、白鳥や龍をかたどった、優雅なデザインの小舟(ゴンドラ、と呼ばれているらしい)を巧みに操り、水路の上を行き交っている。


建物は、白亜の壁と青い屋根を基調とした、優美な曲線を描くデザインで統一されており、窓という窓には、色とりどりのステンドグラスや、繊細なガラス細工がはめ込まれ、太陽の光を浴びて宝石のようにきらめいていた。


常に耳に聞こえてくるのは、サラサラという心地よい水のせせらぎと、ゴンドラを漕ぐ船頭たちの、陽気な歌声。

空気は、ひんやりと湿り気を帯び、潮の香りと、水辺に咲く睡蓮のような花の、甘く爽やかな香りが混じり合っていた。


すべてが、芸術品のように美しく、調和している。

まるで、街そのものが、一つの巨大な宝石箱のようだった。


「すげえ……。こんな綺麗な場所、ゲームの世界でも見たことねえ……」

「ユウキ! 見て、お魚がいっぱい! 手、届きそう!」

「おい、お前ら! あそこの酒場だ! あそこの酒場には、水の精霊が造ったっていう、絶品の地酒があるらしいぞ!」

「サラ、まずは宿の確保とギルドへの挨拶が先だ!」


感動に打ち震える俺たち。

そんな中、ソフィアだけは、初めて訪れたはずのこの街を、どこか懐かしむような、穏やかな目で見つめていた。

その横顔は、この美しい水の都の景色に溶け込んで、一枚の絵画のようだった。


ひとまず宿を確保した俺たちが、情報収集のために街の中心にある巨大な湖へと向かうと、そこは大変な騒ぎになっていた。


「リヴァイアサンだ! 幼体だが、本物のリヴァイアサンが出やがったぞ!」

「逃げろ! ギルドの討伐隊はまだか!」


湖の中心で、巨大な水柱が上がっていた。

人々がパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑っている。

その視線の先、広大な湖の水面を大きく盛り上げ、一匹の魔物がその巨体を現した。


長く、蛇のような体。

硬質な鱗は、濡れたように青黒く輝き、背中には鋭いヒレが並んでいる。

ワニのように裂けた巨大な口からは、鋭い牙が無数にのぞいていた。


全長は20メートルほどか。

伝説の海の魔物、リヴァイサン。

その幼体だというが、放つ威圧感は凄まじいものがあった。


だが、人々はただ逃げ惑っているだけではなかった。

その視線には、恐怖と共に、わずかな期待の色が混じっている。

彼らが見つめる先――湖畔の広場に、一人の女性が、その魔物と対峙するように、凛として立っていた。


「……美しい……」


俺は、思わず呟いていた。


腰まで届く、流れるような銀色の長髪が、湖からの風にさらさらと揺れている。

知性を感じさせる紫色の瞳は、強い意志の光を宿して、前方の魔物をまっすぐに見据えていた。

体にぴったりとフィットした、優美なデザインのローブは、彼女の完璧なプロポーションを際立たせている。

その手には、先端に巨大な魔石が埋め込まれた、白木の杖が握られていた。


彼女の周りだけ、空気が違う。

まるで、物語の中から抜け出してきた、賢者か大魔導士。

その場にいる誰もが、彼女の勝利を信じて疑わない雰囲気が、そこにはあった。


「あれは……『銀閃の魔導士』セレスティア様だ!」

「おお! あの若さで、王国でも五指に入ると言われる天才が、なぜこの街に!」

「彼女なら、きっとあんな魔物、一撃で……!」


周囲の期待を一身に受け、セレスティアと名乗られた女性魔導士は、ゆっくりと杖を構えた。



セレスティアは、静かに瞳を閉じた。

そして、その唇から、古の言語で紡がれた呪文が、鈴を転がすような、美しいソプラノの声で流れ出し始めた。


それは、非常に複雑で、長大な詠唱だった。

しかし、彼女の声は一切淀むことなく、まるで一編の詩を歌い上げるかのように、滑らかに、正確に、魔法の言葉を紡いでいく。


彼女の詠唱に呼応するように、周囲の空気がビリビリと震え、膨大な魔力が彼女の元へと収束していく。

その様は、まるで嵐の前の静けさ。

ジンも、サラも、「……こいつは、本物だ……。俺たちが束になっても敵わねえ」と、ゴクリと唾を飲むのが分かった。


そして、ついに。

セレスティアは、カッと目を見開いた。

その紫の瞳に、雷光が宿る。

杖の先端の魔石が、まばゆい光を放った。


「――集え、万象を裁く神々の雷よ! 我が敵の頭上に降り注ぎ、その存在を塵芥へと還せ! 『ジャッジメント・ボルト』!」


詠唱は、完璧だった。

魔力の収束も、完璧だった。

彼女は、勝利を確信し、魔物めがけて、高らかに杖を振り下ろした。


「いっけえええええええええええええ!」


シーン……。


「…………………………………………」


何も、起こらなかった。


凄まじい魔力は、行き場を失って霧散し、後には、気まずい沈黙と、湖を渡る風の音だけが残された。

魔物は、きょとんとした顔で、セレスティアを見ている。


「…………あれえええええええええええええええええ!?」


セレスティアの、素っ頓狂な絶叫が、湖畔に響き渡った。


その、直後だった。

ゴゴゴゴゴゴゴゴッ! バリバリバリィィィィン!!


セレスティアが狙った場所とは、まったく、ぜんぜん、これっぽっちも関係のない方向――街のシンボルである、美しい時計台のてっぺんに、天を裂くほどの巨大な雷が、寸分の狂いもなく直撃したのだ。


轟音と共に、時計台の上半分が、見事に崩れ落ちていく。


「な、ななな、なんでぇぇぇ!?」


顔面蒼白になったセレスティアは、完全にパニックに陥っていた。


「ち、違う! 今のは、その、ウォーミングアップ! 次こそ本番! 見てなさい!」


彼女は半泣きになりながら、再び杖を構えた。


「燃え盛る煉獄の業火よ! すべてを焼き尽くせ! 『インフェルノ・フレイム』! もえろおおおおおおおおおおおおお!」


今度は、湖の水が、一瞬にして沸騰した。

ゴボゴボゴボッ! と不気味な音を立てて水面が泡立ち、次の瞬間、大規模な水蒸気爆発が発生した。


ドッッッッカァァァァァン!!


巨大なキノコ雲が立ち上り、爆風と、熱湯と化した湖の水が、周囲の見物客たちに降り注ぐ。


「ぎゃああああ! 熱い!」

「服が溶ける!」

「俺のカツラが!」


広場は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

もちろん、肝心の魔物には、ノーダメージだ。

むしろ、熱いお風呂に入ったかのように、気持ちよさそうにしている。


「うわあああああん! なんでなのよおおおおおおお!」


ついに、天才魔導士セレスティアは、その場にしゃがみ込み、子供のように泣き出してしまった。

もはや、威厳も何もあったものではない。


事態は、最悪の方向へと転がり続けていた。

崩れ落ちた時計台の、巨大な瓦礫が、逃げ惑う人々の頭上へと、雨のように降り注ぎ始めたのだ。


「危ないっ!」


俺は、またしても、考えるより先に体が動いていた。

咄嗟に、近くにあった屋台(水蒸気爆発で店主は逃げた後だった)の、巨大な鉄板――この世界にもあるらしい、タコ焼き器のようなものをひっつかみ、盾のように頭上に掲げた。


「うおおおおおおお!」


ガギン! ガン! ゴン!


降り注ぐ瓦礫は、ソフィアの祝福パワーで鋼鉄以上の強度と化したタコ焼き鉄板に当たり、ことごとく弾き返されていく。

その光景に、人々から「おおお!」と歓声が上がった。


その騒ぎに気づいたのか、リヴァイアサンの幼体が、標的を俺に変え、巨大な口を開けて襲いかかってきた。


「うわあああああああ! こっち来たぁぁぁぁ!」


俺は、完全にパニックだった。

手に持っていたタコ焼き鉄板を投げ捨て、とっさに、足元に転がっていた、手頃な大きさの石を掴んだ。

そして、ヤケクソで、それを魔物に向かって、全力で投げつけた。


「あっち行け、このトカゲーっ!」


それは、もはや祈りに近い、ただの悪あがきだった。

だが、奇跡は、起きた。


俺の手から放たれた石は、物理法則を完全に無視した軌道を描き、湖の水面を、ピョン、ピョン、ピョン、と、まるで熟練の水切り職人が投げたかのように、十数回も跳ねたのだ。


その過程で、なぜか石はどんどん加速し、青白い光を帯びていく。

そして、魔物が威嚇のために大きく口を開けた、その瞬間。


光る石は、寸分の狂いもなく、その口の中へと、吸い込まれるように飛び込んでいった。


「…………きゅぅぅぅぅぅ……」


魔物は、悲しげな鳴き声を一つ上げると、その巨体が、内側からまばゆい光を放ち始めた。

硬質な鱗が、まるでガラスのようにひび割れていく。


そして、次の瞬間。

巨大な魔物は、その体を維持できなくなったかのように、キラキラと輝く無数の光の泡となって、静かに消滅していった。


後には、静けさを取り戻した美しい湖と、石を投げた体勢のまま固まっている俺と、唖然としてそれを見つめる、大勢の人々だけが残された。



街は、英雄の誕生に沸いた。


俺は、あっという間に人々に囲まれ、胴上げされ、口々に称賛の言葉を浴びせられた。


「兄ちゃん、あんた一体何者だ!」

「街を救ってくれてありがとう!」

「抱いてくれ!」


訳が分からないまま、俺は、またしても英雄に祭り上げられてしまったのだった。


そんな喧騒の中心から少し離れた場所で、セレスティアは、まだ湖畔に一人、うずくまっていた。

その美しい顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

プライドも、自信も、すべてが粉々に打ち砕かれていた。


自分の魔法の失敗で街を破壊しかけ、その窮地を、どこからともなく現れた、名も知らぬ男に、石ころ一つで救われてしまったのだ。

これ以上の屈辱はない。


「……うっ……ひっく……私の、ばか……才能の、無駄遣い……」


しゃくりあげて泣いている彼女の前に、すっと影が差した。

見上げると、そこに、さっきの英雄――俺が立っていた。

俺は、差し出されたハンカチを手に、少し困ったように笑っていた。


「だ、大丈夫? 誰にだって、失敗はあるって。俺なんて、ステータス、オールFなんだぜ?」


「……え?」


セレスティアは、きょとんとして俺を見上げた。


「うそ……。だって、あんな、魔物を一撃で……」


「いや、あれは、本当に、たまたま……」


俺がしどろもどろになっていると、彼女の大きな紫色の瞳から、またぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

だが、それは先ほどの絶望の涙とは、少し色が違っていた。


「……なんて、お優しい方……。そして、この圧倒的な実力を持ちながら、それを少しも鼻にかけない、この謙虚さ……!」


彼女の中で、俺の評価が、天元突破していた。


「あ、あの! お願いがあります!」


セレスティアは、勢いよく立ち上がると、俺の手にすがりつこうとしてきた。


「私を! この役立たずの私を、貴方の弟子にしてください! そして、もう一度、魔法と、人としての道を、私にご教授ください!」


彼女の白魚のような手が、俺の手に触れようとした、その寸前。


ザッパーーーーン!


まるで、巨大な何かが湖に飛び込んだかのような、盛大な水しぶきが、間欠泉のように、俺とセレスティアの間に突き上がった。


「きゃっ!」

「うわっ、冷たっ!」


俺とセレスティアは、頭から水をかぶり、ずぶ濡れになった。

そこへ、完璧なタイミングで、ソフィアが歩み寄ってきた。

彼女の足元だけ、なぜか全く濡れていない。


「あらあら、お二人とも、ずぶ濡れじゃありませんか。このままでは、風邪をひいてしまいますよ」


ソフィアは、優雅に微笑むと、どこからともなく取り出した、ふかふかの、上質なタオルを、俺の頭にそっと乗せた。

そして、優しく髪を拭いてくれる。

しかし、隣で同じようにずぶ濡れになっているセレスティアには、一瞥もくれない。


その行動は、誰の目にも、完璧な善意と、パートナーへの気遣いに映っただろう。

だが、その結果として、ユウキとセレスティアの間に、物理的な壁が作られ、ユウキの意識は完全にソフィアへと引き寄せられていた。


「あ、ありがとうございます、ソフィアさん」

「どういたしまして、ユウキ。貴方が濡れるのは、見ていられませんから」


またしても、増えた、美人の仲間(候補)。

しかも今度は、とんでもなくハイスペックな(ただし、致命的な欠陥付きの)魔導士。


ユウキを巡る人間関係の糸は、本人の全くあずかり知らぬところで、ますます複雑に絡み合っていく。

女神様の、無意識の「防衛行動」は、これから、一体どこへ向かうのだろうか。


その答えを、まだ誰も知らなかった。

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