第40話:手の内、届く ― 曹操、筆を執る ―
許昌の曹操の幕舎。
静寂が支配していた。
だが、その静けさは、
嵐の前の静けさだ。
曹操は、顔を蒼白にした使者から、
洛陽からの報告を受け取っていた。
それは、呂布が、
「内より裂ける」謀略を、
剣ではなく、言葉と覚悟で退けた、
一部始終の報告書だった。
「呂布が……斬らなかった、と」
曹操は、報告書を読み終え、
静かに呟いた。
その目は、
信じられないものを見たかのように、
大きく見開かれている。
そして、眉間に深く刻まれた皺は、
彼の心の動揺を物語っていた。
彼の知る呂布は、
迷うことなく逆賊の首を刎ねる男だった。
しかし、目の前の報告書は、
その呂布が、民の言葉に耳を傾け、
その苦しみに寄り添ったと告げている。
「主よ。あの呂布は、
もはや武力のみを恐れるべき相手では
ございませぬ」
郭嘉が、静かに進み出た。
彼の顔には、
かつての呂布への侮りはない。
あるのは、冷徹な分析と、
新たな脅威への認識だけだ。
「奴は、自身の『義』をもって、
民の心を掴みきった。
それは、武力による支配よりも、
遥かに恐ろしい」
程昱が続いた。
「主よ。民の心を掴んだ呂布は、
決して揺るがぬ基盤を得ました。
このまま放置すれば、
中原の民は、次々と奴に靡くでしょう。
あの呂布が、真に天下の王と
なりかねませぬ」
程昱の声には、
強い危機感が滲んでいた。
彼の見立てでは、
呂布の成長は、予想を遥かに超えていた。
曹操は、腕を組み、深く考え込んだ。
呂布。
かつては己が利用できるとさえ考えた男。
だが、その男は、
今や、自身の覇道を阻む、
最大の障害となっていた。
「王道の呂布」と、
「覇道の曹操」。
その対比は、
明確になりつつある。
「ならば、どうする、奉孝」
曹操が、郭嘉に問うた。
郭嘉は、静かに地図を広げた。
そこには、洛陽を中心とする、
複雑な中原の勢力図が描かれている。
「呂布を討つには、
もはや、我らだけの力では足りませぬ。
李儒との連携も、
先の戦で破綻いたしました」
郭嘉の言葉に、曹操の顔が歪む。
董卓の死後、李儒は権力を失い、
董卓軍の残党は、
さらに統制を失っている。
もはや、当てにはならない。
「ゆえに、包囲網を築くのです」
郭嘉は、地図上のいくつかの地点を指した。
「袁紹、袁術、孫策、韓遂……
呂布を警戒する諸侯は、数多おります。
彼らに、呂布の危険性を説き、
共に手を組むよう、説得するのです」
郭嘉の提案は、
まさに外交戦の始まりだった。
剣ではなく、言葉で敵を縛る。
「だが、あの呂布が、
そう簡単に囲まれるか」
曹操が呟いた。
「奴は、武だけでなく、
その知略にも長けておる。
賈詡、荀彧、徐庶といった化け物を抱え、
こちらの動きを読んでくるだろう」
曹操の警戒は、並々ならぬものだった。
「主よ。呂布は民の王。
ならば、奴の『民の信』を砕けばよい」
郭嘉の目に、冷徹な光が宿る。
「奴の治世は、民に支えられております。
その基盤を揺るがす策こそ、
最も効果的かと存じます」
郭嘉の言葉に、曹操の目が鋭く光った。
民の信を砕く。
それは、曹操の覇道における、
最も冷酷な手段だ。
「よし、決めた」
曹操は、静かに言った。
彼の心は、もはや迷わない。
「筆を執れ、郭嘉」
曹操は、机に向かい、
筆を手にした。
その目は、一点の曇りもなく、
遠く洛陽の空を見据えている。
「袁紹に文を送る。
董卓亡き今、
天下を乱すは呂布であると。
そして、その強大さに、
諸侯が団結すべき時が来たと」
曹操の言葉は、
冷静で、そして計算し尽くされていた。
「袁術には、天下の玉璽をちらつかせ、
その野心を煽る。
孫策には、呂布の武勇を称えつつ、
その傲慢さを刺激する。
韓遂には、西涼の地を餌に、
呂布への警戒を促す」
曹操の筆は、
流れるように竹簡の上を滑る。
その文字は、
呂布を包囲するための、
見えない鎖となっていく。
許昌の夜空に、月が昇る。
曹操の幕舎では、
静かに、しかし確実に、
「呂布包囲網」の構築が始まっていた。
それは、呂布が「義」をもって築き上げた
王道を打ち砕くための、
冷徹な「覇道の戦略」だった。
曹操の「手の内」は、
今、天下の諸侯へと、
静かに、そして着実に、
届き始めていた。
洛陽の呂布よ、
貴様は、民の信を得た。
だが、この曹操は、
天下の諸侯の利を操る。
真の戦いは、これから始まるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます