さようならクソ女
柳茶
第1話
国道沿いのコンビニの店外で、待ち人を待つ。手にはスマホとビニール袋。袋の中から取り出したのは手のひらに収まるくらいの小さくて細長い箱。白を基調に薄緑色のグラデーションが施されていて、まるで香水のボトルを思わせるようなパッケージ。
——カチッ……ボッ……
ポケットから100円ショップで買ったライターで、タバコに火をつけ、口元に持っていく。
メンソールの独特な風味が鼻を抜け、肺の奥にまで、体に悪い空気がじわじわと染みこんでいく。吸い初めの頃はこの感覚が苦手だった。今では,お手軽な自傷行為はいつの間にか癖になり、何の違和感も覚えなくなっていた。
わたしの吐き出した空気が夕焼け空に滲んで消えていく。
——私の胸の中で燻っているこの思いも、煙と一緒に滲んで消えたら良いのに。
夕焼け空があまりに眩しいから少しだけ感傷的な気持ちになる。馬鹿らしい。悲劇のヒロインぶったポエムを頭の中で垂れ流すなんて、気持ちが悪い。
国道を流れる車は止まることなく進んでいく。白、黒、シルバーの目立たない地味な車が多くて、つまらない。もうどうでもいいか。頭をがくりと下げ、自分の靴を見る。最近買ったばかりの白い靴。シュータン部分に青の線で描かれたおじさんがデザインされている有名な靴。
半分以上残ったタバコを地面に捨て、もう2度と火が大きくならないように丁寧に丁寧に新品の白い靴で踏み潰す。
「タバコのポイ捨てはダメだよ。火事になる」
私の視界に黒色のローファーが映り込む。
ゆっくりと顔を上げていく。
キュッと締まったウエストラインに黒いロングのフレアスカート、そして丈の短い白いクロップドシャツ。そこに、待ち人の彼女が立っていた。
「遅れてきたのに、説教?」
「それはごめん。ちょっと手間取っちゃって……拾いなよ。それ」
彼女はあごで、踏み躙られたぐしゃぐしゃになったタバコを指す。きっと彼女のことだから、私がこれを拾うまでこの場を離れる事はない。「はぁ……」わざとらしくため息をつきながらタバコを拾うと、彼女は「えらいね」とぽつりと呟く。
子供扱いするなと、言いたい気持ちはあるが、反論するとますます子供っぽく見えてしまうから、汚いタバコを携帯灰皿に乱暴に入れる事で気持ちを落ち着かせる。
「それじゃあ、行こっか」
彼女はスカートを靡かせながら、くすんだピンクの車体に白いルーフの小さい車に乗り込む。ウサギの名を冠するその車は、憎たらしいほど彼女に似合っている。
助手席側の扉を開けると、いつもの甘い匂いが鼻腔を刺激する。甘いものが苦手な私だけど、この車の匂いは何度も乗り込むうちに慣れてしまった。
「今日はどこいくの?」
「んー……特に決めてないよ。リクエストがあるなら受け付けるけど?」
「静かなとこ」
「ん、了解」
彼女は、車を発進させ始める。国道沿いのコンビニから抜け出し、都心に背を向け走り出す。彼女が車内のスピーカーのボリュームボタンをカチカチ何度も押すと、聞き馴染みのある音楽が流れる。いつものプレイリスト。彼女の元彼達の好きな曲が詰まったプレイリスト。
わざとらしく音を立てながらビニール袋から、パックのベリースムージーを取り出す。私はこのスムージーが好きではない。ベリーの酸味とバナナの甘ったるさが口に残りつづけ、気持ちが悪いから。でも、彼女はこういう甘い飲み物が好き。
「飲み物、買っといたよ。ベリースムージーすきっしょ?」
「好き。さすが、私の大親友様だね」
大親友……か。
「全く調子のいいやつ」
「奈々が、私を許すからこんな風に育ったんだよ」
「私のせいにするなし」
「ウエーン。奈々ママがいじめる〜」
わざとらしく泣き真似をする彼女の嬉しそうな横顔に無視を決め込む。
こんなふざけたやりとりも毎度のこと。でも、私はこういう生産性のない会話が好きだ。そう自覚できたのは、彼女のおかげ。
車窓に差し込む夕焼けの光が頬をチリチリと焦がす。まん丸は水平線に向かってどんどんと沈み込んでいく。たなびく雲はオレンジ色に染め上げられ、風に押され遠くの街へと向かって進んでいく。思わず写真を撮りたくなってしまうほどの景色が車窓を流れる。
「……久しぶりだね、ドライブ」
私は、責めているように聞こえないよう、なんてことないように聞く。実際、私達が会うのは3ヶ月ぶり。大学も違うし、お互いサークルもアルバイトもあるから仕方がないとはいえ、もう少し会うスパンを縮めることだって出来たはずだ。
まあ、いつも受け身の私が言えることではないのだけれど。
「……そうだね」
彼女は触れてほしくなさそうに呟く。しっとりとしたラブソングが車内を包む。アコースティックギターの伴奏にあわせ、別れた女への未練を歌うその曲は、若者の支持を集め、テレビで何度も流れるほどに人気を集めている。
私と彼女の言葉は消え、失恋ソングしか聞こえない無言の時間。私達は無言の時間に気まずさを感じるほどの関係性ではない。こんな時間を何度も共有してきた。
交差点の信号機が赤になり、それに合わせ車は減速していく。
「このアーティスト、好きだっけ?」
「そーでもないかな。でも、今度ライブに行くの。曲の予習はしておくべきでしょ?」
「誰といくの?」
「ゆうき」
彼女の口から溢れたのは3ヶ月前に別れた彼女の元彼の名前。
私は会ったこともないくせに、ゆうきのことをよく知っている。フットサルサークルに所属する高身長、高学歴のやつ。女が途切れる瞬間はなく、いつも周りに人がいる……らしい。そう、彼女が言っていた。確か、1年前に。
「また付き合ったの?」
「え、違うよ。フツーに友達として行くの」
その横顔は、嘘をついている顔じゃなかった。ごく当たり前の質問に、ごく当たり前の答えを返すときの表情。
彼女から目を逸らし、助手席の窓から外を見る。そこには二人組の女子高生がいた。買い食いしたであろう細長いチューブ状のアイスを食べ、何やら楽しそうに話している。
高校生の頃の私たちもあんな風に、あのアイスを分け合った。ジャンケンで負けた方の奢り。勝率は大体6:4で私の方が多く奢っていた。そんなことを不意に思い出す。
「質問したのに無視するな」
ムッとした顔の彼女がコツンと私の頭を軽く押す。運転席に座る彼女は、もう高校生ではない。当たり前だけど。それが無性に寂しい。私の好きではない大人びた化粧は、きっと、元彼達の好みなのだろう。腹立たしい。
「じゃあ、他に付き合ってるやついないの?」
「じゃあっていうのもおかしくない?別にいいけどさー」
「で、どっち?」
私が促すように聞くと彼女は、やや間を開けて……
「今はいないよ」
今は、か……
彼女は付き合った人にはとことん尽くすタイプ……いや、仲良くなった人にはとことん尽くすタイプだ。でも、歴代の彼氏達は、みんな彼女の方から振っているから引き際はきちんと決めれるタイプでもある。
だからこそ、元彼とライブに行くのはおかしい。彼女らしくない。それとも、会わない3ヶ月の間に彼女が変わってしまった……のかもしれない。
「ふーん」
「聞いたくせに興味ないんかい。ま、良いけどね。奈々のそういうとこ、昔からだし」
「興味ないわけじゃないよ。意外だなって思っただけ」
「何が?」
「元彼とお出かけなんて、今まではしなかったじゃん」
いつの間にか、私たちを乗せた車は高速道路の料金所を通過するところだった。ETC搭載の彼女の車は、料金所を堂々と通り抜け車の波に飲み込まれて行く。
高速道路を走る車から見る景色が好きだ。つまらない凡人の平均的な生活から勢いよく抜け出し、見たこともない景色に連れて行ってくれる気がするから。
夕日はあと少しで沈み切り、月が世界に「おはよう」を言うだろう。私は昼より夜の方が好き。ああ、でも暗いと彼女の横顔が見えづらくなってしまう。それだけが残念。
「……まあね。いや、私もらしくないなとは思ったけど、ね」
たっぷりと時間をかけたあと、煮え切らない返事が彼女から返ってくる。
その横顔が、元彼を思って赤く染まっていたら……もしそうだとしたら腹が立つ。彼女の顔を見ないようにサイドミラーを覗き込むと、随分と不機嫌そうな私が、そこにいた。
「でも、ゆうきといる時の私が1番いいのかもって」
「……どう言う意味?」
「うーん。よりを戻したい……ってこと?」
「なんで、自分のことなのに疑問系なの?」
「分かんない」
ゆうきっていうやつも、女が途切れることがないほどモテるやつだけど、彼女もそういうタイプの人間だ。大学生になってから彼氏が途切れたことはない。五人を短期間で取っ替え引っ替えしていた。
彼氏を振るたびに彼女は、私をドライブに誘う。
「奈々は?好きな人できた?」
「私の話はいいよ。今日は、話したいことがあったから私を誘ったんでしょ?」
「それはそうだけどさ」
高速道路を走ってから、車のスピーカーの音楽が聞こえづらくなってしまっている。私はスピーカーボタンを何度も押す。
聞こえてきたのは、先ほどのアーティストではない、海外のアーティスの曲。この曲を聴くと、考えずにはいられない。映画のように人生が巻き戻せたらって……。
「私、時間を巻き戻すなら高校の頃に戻りたい」
彼女は、そう呟く。
高校の頃の彼女は、今よりもっと地味で、大人っぽいというより可愛らしい感じだった。彼氏もいなかった。移動教室も、トイレも、登下校も私と一緒にいるから、周りから「お前ら、付き合ってるだろ?」って言われるくらいに私達は仲良しだった。
「なんで?今の方が楽しそうじゃん?」
「えー……そんなことないし〜」
彼氏も友達もたくさんできたんでしょ?もう私じゃなくてもいいんじゃん。
夕日は沈みきり、暗い夜が始まった。高速道路を照らす光が車内に差し込み少し眩しい。車はどんどん進んでいく。高い建物は少しずつ見えなくなり、ひらけた土地が高速道路の下に広がる。そういえばどこに向かっているんだ?
「どこ向かってるの?」
「奈々がリクエストしたんでしょ?静かなとこって」
「それはそうだけどさ……具体的な名前は?」
「海」
ドライブの目的地を静かな場所にしたのは理由がある。二人きりになれる場所の方が都合がいいから、海に向かってくれるのは助かる。海なら切り出しやすい。
今日の目的は、彼女に別れを告げること。
高校生の頃から燻るこの恋心を吐き出して、海に流してやろう。もう疲れたのだ。彼女が私の知らない彼女になることに、初めて見せるうっとりした顔で彼氏の名前を呼ぶことに、別れる度に私をドライブに誘うことに。
そして、その誘いを断れない自分に、うんざりしたんだ。
「いいね。海」
「でしょ?」
車がトンネル内に侵入する。トンネルを照らすオレンジの光は、車内を十分には照らしてくれない。ナビを見るに残り30分ほどで着いてしまいそうだ。頭の中で作り上げていた別れの台本を思い返す。心臓はいつもよりも早いテンポで鼓動し、胸が苦しい。
トンネルを抜けた後、しばらくは高速道路を走った車は、一般道へと降りて行く。ナビに映る所要時間は残り15分となっていた。
車内を流れるプレイリストは一周し、またアコースティックギターの失恋ソングが聞こえてきた。私たちの間に会話はない。3ヶ月前のドライブの時はもう少し話をしていたはずなのに。
——カシュ
私は、膝に抱えていたビニール袋から350mlの缶ビールを取り出し、一気に飲み干す。20歳を超えてから、酒を覚えた私はどうしようもない不安を消す時にお酒に頼るようになっていた。今日は、お酒に頼らないと彼女に別れを切り出せない、そう思ったから事前に買っておいたのだ。ビールの独特の風味が口一杯に広がる。一気に飲みすぎて炭酸で息が苦しいし、口が痛い。
「運転してる横で、ビール飲む?普通」
彼女は、驚き8割、呆れ2割といった様子。
「まあ、いいじゃん。たまには」
「今日の奈々は、なんか変だね。いつもと違う」
缶の中身を飲み干す。「いつもと違う」は私のセリフだよ。バカ。高校生の頃のお前はどこに行ったんだ。私を置いて行きやがって。そんな言葉が喉元まで上がってきたが必死に抑える。今日伝えたいことはこれじゃない。
「いいじゃん。気にすんなって」
もう一度同じようなセリフを口にする。なるべくあっけらかんとした様子を演出しながら。
「いや、気にするでしょ……」
「あんたのママの私は大人になって、擦れちゃったんだよ」
「……もうすぐ着くけど、海で吐かないでよ」
彼女は、私の軽口を無視し、運転を続ける。いつの間にか上手くなっている運転も歴代の彼氏と、たくさんドライブデートをしたからなんだろうか。そいつらに言ってやりたい。この子の下手くそな運転に何度も付き合ったのは、この私だってことを。
街灯の少ない海沿いの街はのどかで、都会の喧騒を忘れてしまいそうになる。窓の外に映る三日月は、私達を追いかけて進む。昔は、その原理が分からなくて、親によく報告していた。「今日もお月様が着いてきているよ」って……
「奈々、そろそろ着くからね」
「ん。わかった」
海の近くにあった1日500円の砂利の駐車場に車を停める。忌々しい元彼どものプレイリストは、エンジンの停止とともにブツリと止まり、少しホッとした。これから先の時間は私と彼女だけのものだと実感できたから。
車から降り、二人で海へと歩く。昼間の海はキラキラと美しいのに、夜の海は寂しさと静けさを纏い、全てを飲み込んでしまいそうな真っ暗闇だった。手に持っているビニール袋の持ち手をぎゅっと握って振り回す。心が落ち着かない。もう一本、缶ビールを買っておくべきだった。
「おおー……意外と怖いもんだね」
彼女は海を見て、そう呟く。私も「そうだね」と彼女の言葉に同意する。ザーザーと音を立てる波が、暗闇に誘う言葉のように耳に染み込んでくる。
「ねえ、奈々。謝りたいことと聞きたいことがある。どっちから聞いて欲しい?」
彼女の突然の問いかけに首を傾げる。私の台本では、ここで口汚く彼女を罵り、別れを告げる予定だったのに。予定外の彼女の行動に戸惑いが隠せない。
「え、あー……どっちでもいい」
「だめ。決めて」
大人な化粧の美人な彼女。いつになく真剣で泣き出しそうな顔の彼女。どうしてそんな顔をするんだ。脈絡が無さすぎるでしょ。
「えと、聞きたいこと?の方で」
彼女は胸に手を当て、深呼吸を一つ。彼女の小さな口から漏れる吐息に、ドキドキしてしまう。美人はため息をつく姿も美人だなんて、羨ましい。
「あの日、高校の卒業式の日、なんで私を呼び出したの?」
「……」
その日は、今日と同じで彼女に自分の思いを伝えようと決意を固めた日だった。お互いの家のちょうど中間地点にある公園に彼女を呼び出していた。
胸にコサージュをつけ、卒業アルバムや、記念品、卒業証書を詰めたスクールバッグを肩に下げ彼女がくるのを待っていた。
風に吹かれる度に前髪を整え、何度も手鏡を確認して……ずっとずっと彼女を待っていた。
——それなのに、彼女は来なかった。
別の子から聞いた話では、彼女は、クラスのムードメーカーのはるとに呼び出され告白をされていたらしい。それで、彼女はそれを了承してそのままデートに出かけた……とのことだった。
思い出すだけでムカついてくる。目の前の女にも、健気に待ち続けた私自身にも。
「……あー、なんでだっけ?忘れたよ。そんな昔の話」
「嘘でしょ?」
「なんで?」
「奈々は、気づいてないと思うけど、奈々は嘘をつく時、右下を見る癖があるんだよ」
波の音がやけに鮮明に聞こえる。言い当てられた私も知らない癖。ムカつく。約束を破っておいて、親友ヅラかよ。
でも、そんな小さな癖に気づいてくれてることに、少しだけときめいてしまっている。単純すぎるし、バカすぎる。恋愛は、ここまで人をアホに変えてしまうのか?
「……謝りたいことは?」
「質問に答えてよ」
「答えるなんて言ってない」
「屁理屈」
「なんとでもいえばいいよ」
彼女は、少しの逡巡の後、何かを言いかけて黙り込んでしまった。波の音しか響かないこの空間の静けさに耐えられそうにない。彼女となら心地いいとさえ感じる無言の時間が、今だけは辛い。
頭の中の別れのセリフは、彼女のアドリブのせいで飛んでしまった。そのセリフは、タバコを吸いながら考えたものだから、もう一度吸い直せば思い出せるかもしれない。
——カチッ
チープなプラスチックのライターでタバコに火をつける。メンソールが絡まった思考を解いてくれる。彼女は、突然タバコを吸い出した私を咎めることはなく、ただこちらを見つめている。
「お酒、ないの?私も飲みたい」
「ない。それにあっても飲ませないよ。運転できないじゃん」
彼女がとんでもないことを言い出す。飲酒運転はダメでしょ流石に。
「じゃあ、それ私にもちょうだい」
「吸えんの?」
彼女が私のタバコを指さす。私の記憶では、確かこの子はタバコを吸っていないはずなのだけど。もしかして、知らない間に誰かに教わったのか?
「吸えるかわかんないけど、欲しい」
「はぁー……どうぞ」
私はパッケージからタバコを一本取り出し、彼女に差し出す。彼女は、元彼が吸っていたはずなのに、初めて見るもののようにタバコを見ている。
「ほら、口に咥へて」
私はタバコを口に咥えながら彼女にそう促す。
「火は?」
「早く」
「分かったよ」
彼女の小さな口が、タバコを咥え込む。赤いリップが、タバコに少しついている。
ああ、嫌な大人になったね。私達。
私は彼女の頬に手を当て、自身のタバコの火を、彼女のタバコに移す。
「火、ついたよ」
「ふ、普通につければいいじゃん。わざわざそんなことしないでよ」
少し慌てたようにいう彼女。何人も元彼がいるくせに、シガーキスくらいで、戸惑うなよ。私の心臓は嫌になる程、ドクンドクンと跳ねている。調子が狂う。お酒のせいかな。こんなこと、するはずじゃなかったのに。
「ゲホッ!ゲホッ!」
「勢いよく吸うから……大丈夫?」
「やっぱり、美味しくない」
「そりゃそうでしょうよ」
勢いよくむせこむ彼女が休めるようにビニール袋の中身を取り出し、砂浜に敷いてやる。綺麗なフレアスカートが汚れてしまわないように彼女を丁寧に座らせ、その横に雑に私も腰を下ろす。
「大丈夫?」
「ありがと。もう大丈夫。もう吸うのやめていい?」
「もったいな。ま、いいけどね」
彼女のリップがついたタバコの吸い殻を携帯灰皿に突っ込む。隣に座ったことで彼女の顔がすぐ近くにある。高校生の頃は、いつもこの距離感だった。いつの間にか、運転席と助手席、の距離感になってしまっていたけれど。
「謝りたいことって?」
「……。謝ったら、さっきの質問答えてくれる?」
彼女から顔を背け、海を見つめる。座り込んだことで、先ほどよりも波が高く見える。波とタバコのニコチンのおかげで、いくらか気持ちも落ち着いてきた。今なら、別れを切り出せるだろう。先ほどの質問に答えるついでに切り出してやろう。
「いいよ」
「……ありがと。あのね、あの日約束破ってごめん。ずっと言ってなかったよね。ほんとにごめん」
謝る彼女に顔を向けないまま目を瞑る。なんとなく予想していた謝罪のセリフ。彼女は知らないんだろうけど、彼女は嘘をつく時、語尾が上がるんだ。だからこの謝罪は嘘だ。
「別にいいよ。気にしてない」
嘘を指摘してやるほど、私は優しくない。波が私の怒りも悲しみも攫って、暗闇に持ち去っていく、そんな感じがした。
不意に肩に重みが乗っかる。隣に座る彼女が私に頭を預けてきたのだ。
「ねえ、あの日、なんで私を呼び出したの?」
「……告白するつもりで呼び出したんだよ」
彼女の息を呑む声が耳にはっきり聞こえる。高校生の私が、あの日言えなかった思いをあっさりと海が攫う。そのまま2度と戻ってくれるな。どこかに持っていってくれ。
「え、と……告白って、私の事が好きって、こと?」
「そう言ってる」
「え、私、女だよ」
「知ってる」
「意味わかんない」
彼女は立ち上がり、私から一歩離れ見下ろしてくる。感情の読めない暗い顔で睨むようにこちらを見ている。
「でも、もう好きじゃないよ。安心してよ。女の子が好きな女の子は、気持ち悪いでしょ?もう2度と姫花に近寄らないから」
私も立ち上がり、砂浜に吸いかけのタバコを捨てる。それを踏み躙りながら、深呼吸をする。さあ、言おう。目の前のクソ女に。こいつに恋した過去の私に。
「さようなら」
私は恋心とタバコを踏み躙るのをやめ、彼女に背を向け歩き出す。
どんな気持ちになるのかと思ったけど、案外清々しいものだ。長年の燻った思いをここに捨て、自分らしく生きてやろう。
白い靴に黄金色の砂がまとわりついている。まあ、いいか。あとで洗えばいい話。ジーパンも砂まみれだろうから、あとでお尻を叩いておかないと……後は、どうやって帰ろうかな。明日も講義だし、バイトだし。確か、新人が入るんだっけ。どんなやつかな……
目から溢れる何かを無視し、歩く。彼女は今どんな顔でそこに立っているんだろう。もしかしたらもうそこにはいないのかも。
さよならをしたのに、私の頭に居座り続けるクソ女。早くどっか言ってくれよ
「待ってよ!」
後ろから姫花の大きな声が聞こえてきた。絶叫に近いその声は、初めて聞くタイプの声だった。一瞬、振り向きそうになったけど、構わず進む。もうお別れしたんだから、振り向くのはおかしい。
「待ってって言ってるでしょ!」
後ろから肩を思い切り掴まれ、無理やり後ろに顔を向けさせられる。
——チュ
唇に触れる柔らかいもの。顔いっぱいに広がる姫花の顔。甘い匂いが鼻腔を刺激し、クラクラしそうになる。
「は、はぁ?何してくれてんの」
「待ってって言ったじゃん!」
「さよならって言ったでしょうが」
「勝手に居なくなんないでよっ!」
至近距離のまま、言い争う。彼女は私の肩を掴み、私は彼女の肩を押す。
意味がわからない。なんのためにキスしたんだよ。
「奈々、聞いて」
「っ……!顔近い。離れろ」
「嫌だ」
「だぁ〜!んだよ。さっきから勝手なこと言うなよ」
「そっちでしょ勝手なのは」
しばらく揉み合いを続けたが、不毛すぎるので折れてあげることにした。昔からそうだ。私たちの喧嘩は、大抵私が折れることで終結する。
「はぁ、何、話って」
「私も、奈々のことが好き」
彼女はそう言い切るとまた唇を近づけようとしてきたので、その顔を必死に押し返す。
「キスしようとするな!後、好きとか適当なこと言ってんじゃないよ」
「ほんとだよ……」
至近距離の彼女の顔がやけに赤くて、錯覚してしまいそうになる。彼女が私を好きになるはずがない。
「嘘だ。さよならしたくないから適当言ってるんでしょ」
「嘘じゃない。奈々がさよならって言った時、色々想像しちゃったの。奈々の隣を私じゃない女が歩いているところとか、キスしているところとか……そしたら許せないって思っちゃったの」
「嘘つき。女同士の恋を否定しただろ」
「確かに。驚いたけど……驚いたけど、奈々のことちゃんと好きだよ」
彼女は今にも泣き出しそうな顔で私に抱きつく。耳元で何度も何度も好きを繰り返す。初めて聞く彼女の甘い言葉は、耳に毒で。私は絆されそうになっている。
もう、私の耳に波の音は聞こえない。彼女の甘い吐息と好きの2文字しか聞こえない。
「私、姫花とさよならしなくていいの?」
「しなくていい。ずっとそばにいて」
「好きって言ってもいいの?諦めなくてもいいの?」
「何度でも好きって言ってよ。諦めないでよ。ていうか、諦めるなんて許さない」
姫花は、強く強く私を抱きしめる。どこもかしこも柔らかい彼女に包まれて、耳元で、愛を囁かれる。
もういいか。姫花も、私のことが好きなんだ。もう悩まなくていいじゃない。
「姫花……好き。ずっと前から好き」
「私も、奈々のこと好きだよ。愛してる」
月が私たちを照らす。暗闇の海に投げ捨てた恋心はあっさりと私の元に戻ってきた。もう2度とさようならなんて、言わないから。どうかこのまま、彼女に包まれていたい。
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