第二話

 大陸の南東に位置する大国――「燈」。北は五大河の一つ、尤江ゆうこうが流れ、西には高くそびえた山岳が連なっている。皇帝によって統治される燈国の宮中に童子は連れてこられた。


「ここは政治の執行機関〈十部〉の一つ、「菫花部きんかぶ」です」


 人買いから童子を買った菫花部の長は、意識を取り戻したばかりの童子にそう告げた。突然の事態に混乱する童子に、情け容赦なく統括者は話し続ける。


「おまえは今日からすみれ候補の一人です。下僕の分際で過ぎた身分ですが、光栄に思いなさい」


 呆気に取られて声も出ない。理不尽な状況であることは分かっていたが、無意識に顔が引きつれる。


 統括者は鼻を鳴らすと、口を滑らかに動かす。


「菫は継承権を持つ第二皇子様以下をお世話させていただく貴重なお役目です」


 童子が目を白黒させている間に、説明は続けられていく。


「あなたはその菫になるための訓練を受けるのです。菫花部ここはそのお世話係を育成するための部署になります」


「はあ⁉ なんでそんなこと!」


 唾さえ出ない渇いた口をどうにかして動かし反論する。乾いた口内が切れてピリピリと痛む口を押え、統括者をきつく睨んだ。


 口と態度の悪さに、周囲で様子をうかがっていた宦官たちは顔を見合わせる。好奇の目を向けたり、顔をしかめたりと様々な反応を見せる者たちを、童子は全身で威嚇するが、目の前の統括者は冷たい眼差しのままだ。


「おまえは売られたのですよ、自分の身分を理解しなさい。まずはその下品な言葉遣いを直すところから始めることですね」


 童子は理解とは程遠い場所にいることを、いまだに自分の身に起きていると認識できずにいた。


火兎かと


 統括者が二度手を叩くと、宦官たちは覗き見していた素振りを見せず、速やかに去っていく。その場に一人の宦官だけが居残ると、統括者は彼に顔を向けた。


「火兎、あとは任せましたよ」


 統括者は宦官の火兎に仕事を振って、童子を再び目に入れることなく部屋から出ていった。


 残された童子は、頭の中でどうやってこの場から逃げだすかを考えていた。しかし、いくら頭を巡らせても、宮中から逃げる方法を思いつけない。


 統括者に礼をしていた火兎は顔を上げると、童子を初めて視界に入れた。統括者や他の宦官と異なり、真っ直ぐに童子の目を見つめてくる。その目に好奇や嫌悪の類はない。それは同情だった。


 火兎は中性的な容姿をしているものの、特別美しいわけではない。柔和な印象が濃い、穏やかそうな男だった。


「はじめまして。私はあなたの教育係になる火兎といいます」


 下僕扱いした統括者に反して、火兎は随分と丁寧な口調で挨拶をした。その違いに一瞬怯んだ童子だったが、火兎をきつく睨みつけて叫んだ。


「俺は菫になんてならない!」


 童子は癇癪を起こして強く宣言したものの、火兎は痛ましそうに首を振った。


「いいえ。あなたは菫花部に来てしまった。ここの規則に従わなければなりません」


 反論したくとも、目の前にいる火兎に当たっても仕方がない。唇を噛みしめて下を向く童子の肩に、火兎は優しく触れた。


「突然のことで混乱しているのも分かります。しばらくは慣れないことも多いでしょう。けれど、菫花部にいる限り、あなたはここでの生き方を知る必要があるのです」


 それを私が教えます、と火兎は重い言葉として告げてくる。言葉のすべてが火兎の本心ではないと伝わってきた。


「まずは名前を決めましょう。菫花部では宮中にやってきたときの季節の一字と、動物の名を組み合わせて名前が決められるのです。今は春だから、……そうですね、「春狼しゅんろう」はどうでしょう?」


 火兎は童子の青みがかった灰色の瞳を見つめて「狼」の名をつけた。この瞬間から、童子は春狼となった。


 皇子の御前に出しても申し分ない教養を身につけさせるために、舞踊や歌から始まり、芸術や流行についての知識も備える必要がある。宮中という未知の世界に連れてこられた春狼に、火兎は一つ一つ丁寧に教えていった。


 しかし、春狼は宮中に居続けるつもりも、菫になるつもりもない。出された食事や水に手をつけず、部屋の隅で拒否の態度を取り続けた。


 その姿勢も長くは続かない。春狼は人買いに捕まってから何も食べていなかったからだ。それ以前から食べるものに困る生活をしていたため、空腹はとうに限界を越えていた。


「春狼、このまま何も食べなければ死んでしまいます」


 火兎が悲しそうな顔で嘆いた。それが春狼は不思議でならない。なぜ会ったばかりの、赤の他人の心配をするのか。人を信じることを知らない春狼にとって、火兎の心情を推し量るのは難しい。あまりに火兎が春狼を案じるため、抵抗することもばかばかしくなり、ようやく粥に手を伸ばしたのだった。


 それでも、毎日逃げだすことばかり考えていた。十分過ぎる食事で体力を取り戻してからは幾度も逃亡を計った。


 それはことごとく失敗に終わる。衛兵に連れ戻されると、罰として菫花部の地下に閉じこめられ、五日の食事抜きと、激しい折檻をされた。


 外に出たいという欲求はなくならず、隙を見ては抜けだして、捕まっては折檻の繰り返し。懲罰部屋に十回も送られたあと、火兎にすがりつくように言われてしまう。


「春狼、お願いです。ここから逃げることを考えないで。そうしないと、あなたの体が壊れてしまう」


 火兎はわずかな食料を渡して地下を去った。春狼に食事をさせたことで、今度は火兎が他の宦官たちから暴力を振るわれる。火兎は貧乏くじを引いたのだと、宦官たちが嘲笑していたことを、春狼は盗み聞いて知っていた。声の大きい宦官の台詞を、火兎もまた聞き及んでいただろうに。相変わらず春狼へ食料を届け、体を案ずる言葉をかけていく。


「なぜ、火兎は俺に優しくしてくれるの?」


 何度目かの折檻から帰還した春狼は、長く疑問に思っていたことを問う。


 火兎は困った顔で眉を下げると、春狼の長い髪を撫でながら答えてくれた。


「私は、私にしてもらいたかったことをしているだけですよ。あなたのため、と言えたら良かったのだけど、それを言うと嘘になってしまう。……自分勝手でしょう?」


 火兎は春狼を目に入れながら、それを通して過去の自分を見ているようだった。


 菫花部にいる容姿のいい宦官は、春狼のように外部から連れてこられた者も多い。火兎もその一人だと聞く。


「私は春狼のように抵抗する勇気がなかった。強要されるがまま、菫になることを選びました。だから、春狼にはいつまでも自由な気持ちでいてほしいと思っています。……けど、それではここで生き抜けない」


 火兎はいつもと同じように、真っ直ぐと春狼の青みがかった灰色の目を見つめる。


「私は菫になって優しくしてくれる人に出会ったけれど、それがすべてではないと知っています。春狼には春狼らしくいてほしいけれど、そのためには嫌なことも苦しいことも味合わなくてはならない。……矛盾していますね」


 瞳を揺らす火兎に、春狼は何も言葉を返せなかった。火兎にさえ答えが出ない道を、春狼自身が出せるはずもない。


 春狼は目立って外に逃げることをやめた。火兎にいらぬ心配をかけるのも、虐げられるのも嫌だった。火兎にほだされていることを自覚しながらも、その感覚が弱さや甘さであるとは思わなかった。


「春狼は記憶力がいいですね」


「本当か?」


「ええ。昨日教えたことを、もう憶えてしまっている。これはすごいことですよ」


 火兎は褒めるたびに春狼の頭を撫でた。最初はむずがゆく感じた接触も、段々と嬉しいものだと知っていく。


 基本的な舞踊や楽器演奏、歌。皇子を楽しませるための技術を学んでいった。他の菫候補と違ったのは、技能習得の目的が火兎に褒められることに重きを置いていた点だ。


 新しいことを次から次へと吸収していき、その様を面白がった外部の指南役が過ぎた知識を与えていった。春狼を必要以上に褒め称える指南役に対して、気に食わないのは菫花部の宦官たちである。


 火兎以外の者に対して、生意気な態度を崩さない春狼は、様々な理由を後付けされては懲罰部屋に送られた。肉体的な暴力を伴った「躾」は痕に残るものはなかったが、その代わりに水責めを喰らう。真冬の雪がちらつく時期に冷水に顔を叩きつけられ、それを何度も何度も繰り返す。春狼の顔が真っ赤に腫れあがるまで「躾」は続いた。


 訓練時の毒が増えて死にかけたことは一度だけではない。春狼は他の者と違って最下層の生まれだったため、宦官や菫候補からの差別は一向になくならなかった。春狼への「躾」が多いのも、「死んだとしても問題ない者」と思われていたからだった。


 宦官たちの思惑とは裏腹に、春狼の心は鋼のように強かった。折檻を受けても、飯抜きを言い渡されても、陰口を叩かれても、決して屈することはなかったのだ。


 態度や口調は悪いものの、座学や稽古事は優秀。さらに素養も相まって、生まれ持った美貌は成長するにつれて麗しさを増していく。瞳は大きく、鼻筋は高く、口は小振りな桃色。淑やかな顔と髪に隠れて、白磁のような肌が輝く。


 春狼は誰よりも美しかった。


 しかし、菫花部にやって来て十年が経っても、春狼は菫候補のままだった。

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