第九話:はじめての夕食
田舎の夏の夜。
開け放たれた窓から、風に乗って涼やかな虫の声が聞こえる。
畑の土の匂いと、食卓から立ちのぼる味噌汁の湯気が、
部屋の空気にほんのりと混じり合っていた。
悠虎の家の食卓は、決して豪華ではなかった。
けれど、そこには夏がずっと知らなかった、確かな「温かさ」があった。
炊き立てでつやつやと光る白いご飯。
採れたてのインゲンと人参がたっぷり入った味噌汁。
そして、滋味あふれる山菜の煮物。
どれもがこの土地の恵みをそのまま食卓にのせたような、
素朴で真っ直ぐな味がした。
「夏さん。これ、うちの畑で穫れたインゲンやちゃ。
ちょっと茹ですぎたかもしれんけど、甘いがいぜ?」
にこやかに笑いながら、悠虎の母が夏の小鉢にインゲンを足してくれる。
その柔らかな声は、氷のように冷え切っていた心の表面を、
じんわりと溶かしていくようだった。
夏は小さく頭を下げる。何か返そうとしても、
喉の奥がきゅっと詰まって言葉にならなかった。
父もまた、朴訥とした表情で味噌汁の椀を差し出してくれる。
「これ、わしが採ってきた山菜やちゃ。
たっぷり入れたから、うまいはずや。夏さん、よう食べてみられ」
隣では、悠虎の妹がぱっと箸を置き、屈託のない笑顔で夏の顔を覗き込んだ。
「夏さん、しばらくおるがけ?
今度の休みに町、案内しちゃるちゃ! いっしょに行こうよ!」
その一つ一つが、夏には眩しすぎた。
まるで、長い間固く閉ざしていた心の扉に、容赦なく柔らかな光が差し込んでくるようだ。手にした箸が、かすかに震える。
料理は、本当に、心の底から美味しいと感じた。
なのに、どうしても喉を通らなかった。
一口飲み込むたびに、まったく違う光景が瞼の裏にちらつくからだ。
思い出すのは、いつも沈黙に支配された実家の食卓。
父はスマホの画面だけを見つめ、母は一言も発さず、
ただ感情のない音を立てて皿を置くだけ。
あの場所には、笑い声も、優しい言葉も、何もなかった。
「夏さん? 大丈夫け?」
母の優しい声が、すぐそばで響いた瞬間だった。
ぽたり、ぽたり──。
自分でも気づかないうちに、透明な雫がテーブルの木目に吸い込まれていく。
「……っ」
次の瞬間、夏は衝動的に椅子を蹴立てていた。
ガタン、と大きな音が響く。
彼女はそのまま台所の引き戸を乱暴に開けると、
暗くなった庭先へと逃げるように飛び出していった。
ひやりと冷たい夜の空気が、火照った頬を撫でる。
その冷たさが、かえって堰を切ったように涙をあふれさせた。
(なんで……どうして、こんなに優しいの……)
(私の家では、誰も笑ってくれなかったのに……)
優しさが、痛かった。温かさが、苦しかった。
あの冷たい声がまだ耳に残っている。
『あなたなんか、いなければよかったのに』
それなのに、ここで聞こえてくるのは、何気なくて、温かい言葉ばかり。
そのひとつひとつが、棘のように心に突き刺さる。
(今さら、こんな温もり……教えないでよ……)
庭先の提灯が、そよ風に揺れていた。
その淡い光に、もう失われてしまった家族の幻影を重ねてしまう。
「ほら、お兄! はよ行ってあげられ!」
妹の声にはっと我に返り、悠虎は箸を置くと慌てて立ち上がった。
戸を開けて庭へ出ると、彼の目に飛び込んできたのは、ビニールハウスの前に一人立ち尽くし、肩を震わせる夏の後ろ姿だった。
悠虎はそっと隣に立ち、かける言葉を探して、静かに口を開く。
「……ごめんな。うちの家族、ちょっと馴れ馴れしかったかもしれん」
夏はうつむいたまま、乱暴に袖で目を拭った。
「違うの……。私こそ、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
しばしの沈黙。虫の声だけが、二人の間に流れる。
やがて、悠虎がいつものぶっきらぼうな調子で、けれど少しだけ優しい声で言った。
「夏さえよければ、いつまでもおってくれてええから」
その言葉が、夏の心の最後の砦を、静かに壊した。
拭ったはずの涙が、また次から次へと頬を伝う。嗚咽が込み上げてきて、もう止めることはできなかった。
「ご、ごめん……なさ……っ」
どうすればいいのかわからず、悠虎はただ戸惑いながら立ち尽くしていた。
何か気の利いた言葉も、慰める術も知らない。
彼が気まずく視線をさまよわせた、その時だった。
背後の縁側で、ことり、と小さな音がした。
見れば、湯気の立つマグカップが二つ、いつの間にか置かれている。
おそらく母が気を使ってくれたのだろう。
悠虎は無言でその一つを取り、夏の冷たくなった手に、そっと握らせた。
「……飲めよ。生姜湯。」
マグカップの確かな重さとじんわりと広がる熱に、夏ははっと顔を上げる。
両手でそれを包み込むと、生姜のぴりりとした香りが、詰まっていた鼻と胸をすっと通していくようだった。
悠虎ももう一つのマグカップを手に取り、一口すする。そして、夏の隣に立ち、彼女が見つめていたのと同じビニールハウスに目を向けたまま、唐突に言った。
「……明日、朝4時起きな」
「……え?」
嗚咽の合間に、夏がかすれた声を漏らす。
「海、行くぞ。ヒスイ海岸だ」
「翡翠……?」
夏が聞き返すと、悠虎は夜の闇に覆われた山々の向こうに視線を投げた。
「ああ。嵐の後なんかは、たまに綺麗なのが打ち上げられる。
……綺麗なもんでも見りゃ、少しは気も紛れるだろ」
それは仕事の誘いではなかった。専門知識を求める言葉でもない。
ただ、傷ついた彼女の心を気遣う、不器用で、けれどあまりにも真っ直ぐな誘いだった。
自分は、ただここに居させてもらうだけの、哀れな存在ではない。
この人は、自分の心を、どうにか救い出そうとしてくれている。
その事実が、凍てついた魂に、じんわりと熱を伝えていく。
夏はマグカップを握りしめたまま、ぐしゃぐしゃの顔を上げて、悠虎の横顔を見つめた。そして、今度こそはっきりと、自分の意志で言葉を紡いだ。
「……うん。行く」
涙はまだ頬を伝っていたが、その声は、もう震えてはいなかった。
悠虎は彼女の方を見ず、夜空に浮かぶ月を見上げたまま、「おう」と短く応える。その横顔が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
虫の声が、さっきよりもずっと優しく響く。
二人はそれ以上何も話さず、同じ夜空の下、静かに温かい生姜湯を飲んでいた。
まだ見ぬ海岸で夜が明ける頃、波に洗われた美しい石が放つであろう、静かな輝きに思いを馳せながら。
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