悪党の夏
四谷軒
01 初夏
男は堤の上の淡紅色の花をしばし見たあと、河口に目を移した。
きらめく波が男の目をしばたたかせる。
季節は初夏――鎌倉時代末期、元享二年(一三二二年)の初夏。
すでに太陽がまぶしい季節であり、男は手をかざしながら、求める相手の
その群れに向かって、男は叫んだ。
「
群れの中で、ひときわ大きな舟の上。
小屋のようになっているそこから聞こえていた嬌声が
「何や、
髭もじゃで、まるで海賊といった風貌の源次が、女に肩を預けながら出て来た。
「アレか、
もちろん一がお前やと、男――兵衛を指差す。
もう片方の手で、女の乳房を揉みながら。
「兵衛、お前が辰砂掘りたちを手なずけてぇ、こうしてわいら渡辺党が党を
髭もじゃの中の口が、よだれを飛ばして笑い出す。
兵衛は蚊を手で追い払いながら、五分五分にしろと返した。
「五分五分ぅ? 何やわれ、わいと対等になったつもりかあ? おんどれ大概にせいよ、この得宗の
兵衛の家は、元は武蔵にあった。兵衛の父が、
それに比べて、源次の方は、
ちなみに渡辺綱は、主・源頼光にしたがい、大江山にひそむ鬼――酒呑童子を退治したことで知られる。
「……せやから五分五分ぅ言うてないで、
じゃがそこまでやと笑う源次に、兵衛は冷めた視線を与えた。
「何やその目ぇは。ばかにしとるんか。せやったらええわ、帰り。今、近在の
「機嫌がええのはわいの方じゃ、阿呆!」
兵衛が刀を抜くと、ひと飛びで源次の舟に至る。
源次が「ちょっと待て」と言っている間に、つかつかと近寄り、眼前に刃を突きつける。
「お、おい! やめろ! こんなことして……」
「こんなことして、何や? 死人に口なしや、もう黙り」
「黙りて……」
源次がお前ら出て来いとわめくが、周囲の舟に動きはない。
ただ、ああ、うう、といううめき声が聞こえただけだ。
「な、何やお前ら? どした? 渡辺党の頭目の、源次の危機や。早よ出てこんかい!」
「辰砂いうんは、な」
兵衛は話しながら、女に目線を
早く行け、という目線を。
女はひいい、と声を上げて、船から川へ飛び込んだ。
「あ、おい」
「辰砂いうんは、山掘って見つける。なぜか? 赤に染めたり、薬にしたりするわけやが……これ、ほんまに薬かどうか、怪しいんやで」
兵衛は転がっていた
源次は「まさか」と口走る。
「秦の始皇帝たらいうんは、不老長寿の妙薬や言うて、ようけ呑んだんやけどなぁ、やっぱり毒やってん。すぐに
源次は吐きたくなったが、兵衛の刀が目の前にあるので、それもできない。
「一服盛りやがったんか、兵衛!」
「辰砂の
「き、さま」
「ふん、
渡辺綱、そして源頼光は、酒呑童子を酒に酔わせて討った。
兵衛はそのことを皮肉ったのだ。
「ほしたら源次、さっさと地獄行けや。辰砂は観心寺党の兵衛が売る。お前らは要らん」
要らん、の言葉と共に、兵衛は源次を斬った。
目にも止まらぬ素早い斬撃に、源次はうめきながら、そのまま船べりから川へと落ちていった。
兵衛が船べりに行くと、川面に源次の顔だけが浮かんでいた。
「あぐ、うう、ひょう、え……」
源次が口をぱくぱくとさせている。
たまに、暑い夏の日に水面に出てくる魚のように。
「ひょう、え……き、さま」
「何や」
「こないな、こと、して……ただ、で、すむ、と……」
「済むで」
兵衛は刀を納めながら言った。
すでに源次の周りの水は赤く染まっている。
それはまるで辰砂の染めのような赤さだった。
「源次……お前がいみじくも言うたやあないか。得宗の被官、と」
兵衛の手回しは早かった。
辰砂の売上をめぐる交渉が決裂するや、その足で六波羅探題に向かい、得宗執権北条高時の
悪党――渡辺党を討伐せよ、と。
悪党とは、秩序にしたがわない、まつろわぬ武士のことを言う。
六波羅の命により、公的にこれを討ったことにすれば、私闘にはならない。
ゆえに、仕返しはご
「さよか、ひょうえ……」
源次の顔が沈みつつある。
それでも水面をがぼがぼと言わせながら、吠えた。
「兵衛え! お前が得宗の命を得た言うなら、もう戻れへんぞ! これでお前は名実ともに得宗の犬や! 次、得宗が何か言うたら、断れへん!
わいはそれを地獄で
そして二度と再び上がって来なかった。
「……何や、けったくそ悪い」
兵衛はひとつ舌打ちをして、船から跳び下りた。
急ぎ、渡辺党を討伐したと、六波羅に復命しなければならない。
復命なしには、六波羅に公的なものと認められない。
でなければ私闘となり、兵衛と仲間たちは、渡辺党の残党から仕返しをされても、文句が言えない。
「仕返しは、御免や。これは上意討ちや、六波羅の命や」
得宗被官の家の生まれであることを利用して、兵衛はその仕返しを封じた。
これで安心して(絶対ではないだろうが)、兵衛の仲間たちは、辰砂を掘り、売ることができる。
「行くか」
兵衛は両手を組みながら、淀川から去って行った。
もう夏だというのに、うすら寒く感じた。
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