【ちびまる子ちゃん】悪意のぶつけ合いが面白かった初期

 このところAbemaでちびまる子ちゃんの初期のをやっているので、ときどき見ています。ほんとにあの頃のちびまる子って面白くて、さくらももこの意地悪さがちゃんと笑いに昇華されている。当時の編集が元旦那でコントローラーとして有能だったという話を聞いたことがあります。そのため元旦那が編集でつかなくなってから面白くなくなったとも。さくら作品を見てると結構きわどいことをキャラに言わせているんだけど、許容されるギリギリの塩梅へ調整されてたのかもしれません。もちろん元々さくらが持ってる感性が類まれにキレてたのは言うまでもないとして。

 年々、キャラクターの「外し」がなくなっていったように思います。ちびまる子って各キャラへの性格づけがまず秀逸で、その個性から出てくる言動のなかに面白味があった。話の中ではあるあるなイメージでキャラを動かしながらも、エピソードによって少しイメージとズレる外しを入れてる。そうすることでキャラクターが人間味をもって活きてくる。近年のちびまる子は吉本新喜劇的というのか、お決まりだけで脱線なく構成されてしまっているのが厳しいなと思います。原作者じゃないと外しを入れるのが難しいのはあるでしょうしコンプラ的尻込みもあるでしょう。

 さくらが本来描いてきたちびまる子は全編通しての嫌味というものが先にあって、そのうえで流動性をもってキャラクター同士で悪意をぶつけ合えていた。それがあるキャラへの定番の「いじり」「いじめ」的描写に変わってきてしまった。藤木くんが出てくれば必ず卑怯と責めたてるし、不細工なみぎわさんは腫れ物扱い。共感し笑えた悪意が、共感できないただの悪口になってしまった。容姿の優劣と性格の優劣が比例しているようなちびまる子の酷い世界観って、ギャグの範疇として当時はラッピングできてたから許されたわけで、その劣寄りなキャラクターが思わぬ顔を見せて株を上げることもあった。

 「いじめ」と「いじり」の境界として、「いじられる側が傷ついていたらいじめ」と最近まで言われていました。テレビバラエティでショーとして見せているものを、ときに子供は素直に真似してしまうけど、それに対して演者側は「これはあくまでショーだ」、「笑ってもらうために演者はいじらせていて本人もそれを望んでいる」と言い訳してきた。しかし、いじられ役を買っていたタレントが自死をしてしまうケースが出てきた。カメラの前だから許せていたいじりが、例えばプライベートの時間にも行われてしまってオンオフの境界が曖昧になっていた恐れはないだろうか。許していたつもりのいじりが、徐々にストレスになっていなかっただろうか。いじられ役のタレントが大きな意味では笑いをとっていたとしても、笑わせているというより「笑われて」いるように感じてしまわないだろうか。自死にしても本当のきっかけは分からないし、私は想像で物を言っています。でも「僕たちはタレントだしショーでやっているから」って建前はもう危ういと思います。

 最近だと霜降り粗品の一人賛否企画も、コントですと先に前置きをして誰かへ賛否を述べているけど、どこまで根回しできているかただの視聴者には分かり得なく、コントだと受け取るにしてもあれってお笑い毒舌の範疇なんでしょうか。コントなら、本心じゃないなら、悪口を言っていいとは限らない。笑えない人だっているし、笑わせたら正義というわけでもない。

 人の気持ちは分からない。いくら笑っていても、心で泣いていることもあるし、いくらでもできるその誤魔化しの顔を真に受けて、追い打ちをかけてしまっていないか。ときどき対人関係を冷静に見つめ直してみるのは、我々においても大事だと思います。

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