3 白雪姫と王子

 見知らぬ女性二人組にしつこく連絡先を聞かれていた落合が、辛抱強く丁寧な断りの言葉を繰り返し口にしていた時、白髪混じりの紳士が三人の間に割って入り、すまなそうに微笑を浮かべながら言った。

「失礼、ご婦人方。落合さんには予定が詰まっておりましてね」

 女性たちがぎこちなく去っていくと、紳士はやや固い笑みを浮かべて落合を見つめ、その肩を軽く抱きしめた。

「久しぶりだね。亜貴君」

「方波見さん」

 落合はふっと頬をやわらげ、紳士と軽い抱擁を交わした。

 方波見正彦は額の汗をガーゼのハンカチで拭うと、やれやれと首を振った。

「容子夫人にはできるだけ大事にはしないでやってくれと念を押したつもりだったんだが。君の婚約者同伴での帰還は、夫人の宣伝で先週にはもう誰もが知るところとなってしまった。力不足で申し訳ない」

「方波見さんのせいではありません」

 落合は優しく微笑んだ。

「あの人は最初からこういうつもりで俺と眞蓮を呼びつけたんです。家族会議をこの日に合わせたのは、深冬家に揺さぶりをかけたかったからでしょう」

「どちらかと言えば揺さぶられたのは容子さんの方だったようだがね。先ほどの式典で、深冬家の環君がスピーチをしただろう?」

「ええ。……完璧なスピーチでした」

「どうやら彼が壇上に上がることを夫人は直前まで知らなかったらしい。そのことで、圭人が夫人にかなり責められたようだ。何故事前に言わなかったのかと。知っていれば阻止するつもりだったんだろう」

「事前に配布されていたプログラムには、黒須市長が選んだ一人がスピーチをするとしか書かれていませんでした。息子さんはそれが環だと知っていたんですか」

「いいや。環君の登壇は集まった記者たちへの市長のサプライズだったようだ。彼は華やかな場に映えるうえ昨年の件で妹と同じくらいに注目されているからね。市長は最初、毬花さんにスピーチを打診したが、そういうのは兄の方が得意だからと断られたそうだ。何にせよ式典という公の場で、よりによって君が帰還した日に深冬家の者が降魔郡を代表してスピーチを行ったことは、容子夫人にとっては大問題だった。怒りの矛先を探していたんだろう」

「圭人は平気ですか」

「心配ない。あの子も私も夫人にはすっかり慣れているよ」

 そこで正彦は声をより一層低くして落合に囁いた。

「……戸籍の件だが、今ちょうど辻褄が合うものを作成している。準備が整い次第、原本を君の東京の自宅まで郵送するつもりだ。向こうで役所に行く前に婚姻届を郵送してくれれば、証人欄には私が署名しておこう。手続きのことは心配しなくていい。容子夫人の圧力がかからないうちに手続きが進むよう、こちらで何とか調整する」

「ありがとうございます。いつも本当に……」

「構わんよ。君は私にとってもう一人の息子のようなものだ」

 正彦は微笑み、ところでと不意に眉間に深い皺を刻んで、不安そうな目で落合を見た。

「今夜の家族会議には、本当に君も出るのかね」

「はい。式典、懇親会、家族会議。この三つに出席することが祖母からの条件だったので」

「君たちの人生に干渉しないための条件か」

「そうです」

「残念ながら私には、夫人にそれを守る気があるとは思えんが」

「ええ。わかっています」

 落合は静かに溜息を吐いた。

 懇親会終了後、この公民館では最上階にある会議室を使用して落合家と深冬家その他数人の関係者によって降魔一族の家族会議が開かれる予定となっている。議題は明確にはされていないが、そこに落合と眞蓮の結婚話が含まれていることは間違いない。家族会議には方波見正彦も降魔一族の顧問弁護士として呼ばれていた。

「まだ誰も死んでいないうちに家族会議とは大袈裟な」

 思わず本音を漏らしてから正彦は落合を見つめる。

「容子夫人の考えは私にはわからないが、彼女が君を利用する気でいるのは確かだ。何かあったらいつでも声をかけてくれ、亜貴君。私がいなければ圭人でもいい」

「ありがとうございます、方波見さん」

 正彦は知人に声をかけられたのを機に「では今夜、会議で」と優しく言い残して落合のもとを去っていった。

 正彦は弁護士という職業柄か、あまり愛想良く人に接したり感情に寄り添った対応ができる方ではないのだが、自分の息子とそれほど歳が離れていない亜貴や環や毬花には、昔から何かと気をかけ手を貸してくれる。

 降魔王国は方波見家なしでは成り立たなかったと言っても過言ではない。この地の住民たちのあらゆる行政関係の業務はここでは昔から役所の代わりに降魔家が全てを担っているのだが、実際に手を動かしていたのは降魔一族に仕えていた側近の方波見家の者たちだったからだ。彼らの先祖は大富豪降魔氏とともに日本に移り住んだ同郷の者だった。降魔家と同じくらい方波見家の歴史も古い。

「亜貴くん」

 名を呼ばれた落合は、はっとして振り返った。

 深冬毬花が、花が咲き誇るような可憐な笑顔でそこに立っていた。

「毬花ちゃん。久しぶり……大きくなったね」

 既に式典の時にその姿を見ていたが、あらためて間近で見ると、落合は彼女の成長ぶりに目を見張らずにはいられなかった。最後に会った時の毬花は、歳の離れた兄の手をぎゅっと握りしめ、おぼつかない足取りで歩いていた幼い女の子だったのに、今ではこんなに綺麗な若い娘の姿に変わっている。

「嬉しい。わたし、早く亜貴くんに会いたくて、昨日はそわそわして全然眠れなかったの」

 そう言って毬花はどこか恥ずかしそうに微笑み、絶妙な角度に首を傾けた。

 式典の始まりから今この時に至るまで、毬花はずっと注目の的だった。人々は毬花に目と心を奪われていた。今も落合と毬花の周囲には、離れたところから二人の様子を興味津々に見つめている者たちがたくさんいる。彼らの気配は落合と毬花の間に微妙な緊張感を与えていた。落合を見上げている毬花はまるで舞台上の女優だった。自分が見られているということをわかっていて、発する言葉や浮かべる笑顔、指先や睫毛の動きまできちんと意識している。落合一人と向き合っているように見せかけ、実際は周囲へのアピールも忘れていない。そうして一度に複数の人々を陥落させ、自分のものにするのだ。

 毬花はその美しい顔立ちだけでなく、わざとらしさを消した己の魅力の振りまき方も相手との自然な距離の詰め方も、兄の環によく似ていた。

「お兄様とはもう話した?」

 毬花は落合に一歩近づきながら問いかけた。

「まだ話してない。式典のスピーチ、素晴らしかったって環に伝えて」

「もちろん伝えるわ。けど、直接言った方がきっともっと喜ぶのに。お兄様には会っていかないの?」

 不意に投げかけられた無邪気な問いが、落合の顔に今日で数度目かの暗い影を落とす。

 毬花は知っているのだろうか。かつて親友だった彼女の兄と自分との関係が、今ではすっかり冷え切ってしまっているということを。いや、知るはずがない。あの頃まだ毬花は幼くて、周囲で起きていた泥仕合を認識することなどできなかったはずだ。大人になった彼女に、環や他の誰かがわざわざあの頃のことを話すとも思えない。話していたとしても、二人の仲がこじれた詳細までは語っているはずはない。

「忙しそうだから」

 落合は静かに答えた。

「じゃあ、次に帰ってきた時は三人でお茶できる?」

「そうだね。……いつか」

「約束して」

 毬花が白く細い喉から甘い蜜のような声を出して、落合に向かって腕を伸ばし、ぴんと小指をたてる。落合は一瞬躊躇ったが、そっと彼女の小指に自分の左の小指を絡ませた。

「婚約したって本当だったんだ」

 不意に毬花がぼそりと呟いた。彼女の視線は落合の左手の薬指にじっと落とされていた。

「あぁ……うん、そうだよ」

「どんな方なの?圭人くんが、落合のおば様には良家のお嬢様だということにしておいたって言っていたけれど」

 絡めた指を離した落合は、ふと容子が自宅に送ってきた手紙の文面を思い出した。

『婚約者がいるのでしょう?麻生眞蓮さんというそうですね。なかなか良い条件のお嬢さんではありませんか。私がすすめたお嬢さん方をことごとくはねつけたあなたのことだから、私に嫌がらせをするような相手を選んだのかと思ったら、あなたにもちゃんと常識が残っていたようで安心しました。とはいえ私に無断で結婚することは許されませんよ。麻生眞蓮さんを連れて、一度降魔に帰ってきなさい。そうしなければ入籍に手こずることになりますよ。わかっていますね?私たちは降魔一族であり、落合なんですから』。

 眞蓮をできるだけ降魔から遠ざけておきたいという落合の切実な思いは打ち砕かれてしまった。

 落合の居場所を特定し、眞蓮のことを調べ上げたのは圭人だ。だが落合は圭人のことを責める気にはなれなかった。方波見家には古くから降魔一族に仕え、その僕として暗躍してきた過去がある。それは圭人やその父の正彦の人生にも影響を与えている。降魔の血が流れる落合家と深冬家、そして方波見家は目に見えない主従関係で今現在も結ばれており、特に若くて心優しい圭人は容子の指示を心理的にも断りづらく、彼女に何かとこき使われていた。落合と深冬の板挟みになり大変な苦労をしているのも彼ら方波見だ。圭人に責任はない。それに彼は亜貴のために、眞蓮について容子に嘘をつくという危険を冒した。彼女は良家の令嬢ではない。だが祖母にはその言葉が馬鹿らしいほど効果的だった。

「眞蓮は俺の大切な人だよ」

 落合はその一言に全てを込めて言った。

 毬花がすっと顔を上げ、落合の目を見つめながら小さく微笑む。

「愛されてるのね。羨ましい」

 毬花に人を引きつける魅力があることは確かだ。だが一人の男としては珍しく、誰もが虜になるような彼女を前にしても落合の頭にずっとあったのは別の女のことだった。今毬花が着ているような、肩を出したワンピースなど決して選ばないであろう眞蓮。人見知りと無縁の毬花と違って、人が大勢集まる社交の場にはすんなりと馴染めないであろう眞蓮。大人の女性としての落ち着きの中に、少女時代の愛らしさを残している眞蓮。

 彼女は今どうしているのだろう。気を遣わせて一人にさせてしまったが、何も問題ないだろうか。落合は首を回して先ほど眞蓮を見かけた辺りを見てみたが、会場内の多くの人の影に隠されて彼女の姿は確認できなかった。

「白雪姫!お目にかかれて光栄です」

 そこへ突然、見知らぬ若い男が興奮気味に毬花に駆け寄り、落合に気づくと慌てて会釈して、彼女に熱い視線を送りながら一方的に何やら熱心に話し始めた。

「写真はずっと前から見ていたんですけど、あのっ……やっぱり、生で見ると凄いですね!何というか、悲劇に生きる奇跡の美女!みたいな。本物のお姫様みたいです。凄く可愛いし、それに綺麗です。本当に」

「ありがとうございます」

 毬花は少し気圧されたように遠慮がちに微笑んだ。

 毬花と落合の前で若者は熱く語り続けた。

「僕、あの事件が起きた時からずっと毬花さんは無実だ、冤罪だって信じていたんです。でも<林檎の裁き>が決まって、どうしたらいいかわからなくなって……。あの司法執行官の女はいかれてますよ!どう考えたって毬花さんが吸血鬼ヴァンパイアなわけがないのに、何か証拠があるからって、清らかなあなたに殺人の罪をなすりつけ、毒林檎を食べさせて殺そうとしたんですから!そもそも、あれは絶対に繰り返してはならない悪しき歴史なんです。昔、この辺りではたくさんの何の罪もない人間たちが人を襲う吸血鬼だと疑われ、<林檎の裁き>にかけられて命を落としました。<林檎の裁き>は魔女狩りに似た非人道的な行為として少し前にやっと正式に禁止された。なのに、それをあの冷酷で傲慢な女は、殺人吸血鬼をあぶり出すためだとかいう理由で復活させたんです!結果、あなたという無実の人間を殺しかけたのに、彼女は今日まで一度も謝罪していません。おまけに連続殺人犯は野放しになったままです。あの時、あなたがあのまま死んでいたらと思うと、僕はもう恐ろしくって恐ろしくって。でも神はあなたを決して見捨てませんでした。毒林檎を食べたあなたは翌日、日の出とともに蘇った。あの時のあなたはまるで、まるで……聖女のようでした。あなたを必死に助けようとしていた環さんは本物の王子様に見えました。僕の思いをどうしても直接伝えたくて。毬花さん、あなたは結婚前から僕の女神です。これからもずっと信じています。お二人の慈善事業には今後も寄付し続けます。僕、本当にあなたのことが大好きなんです」

「ありがとうございます。そう言って頂けてとっても嬉しい」

 青年は興奮状態のまま二人のもとを去っていった。毬花は落合に身体の向きを戻して苦笑した。

「多分、西園寺家のお孫さんの旦那さんだと思う。びっくりさせてごめんなさい」

「大丈夫だよ」

「亜貴くん。実はわたし、去年ね……」

「その話なら圭人から聞いてる」

 落合は静かに言って、毬花を見据えた。毬花も落合をじっと見つめた。

「………何が起きたのか、わたしにもよくわからないの」

 落合の言いたいことを察した毬花が、彼よりも先に素早く口を開く。

「でも、わたしは確かにあの毒林檎を食べて、一度死んだの。……お願い、信じて」

「疑ってないよ」

 落合は囁くように本心とは違うことを言った。

「ありがとう」

 毬花は嬉しそうに笑って、落合の手をぎゅっと握りしめた。

「死んだことを信じてくれたのは、お兄様と亜貴くんだけよ」

 落合は何も言わずに小さく微笑んだ。

 環と話さなければいけない。

 そんな思いが、ふと落合の心に浮かんだ。



 毬花と別れ、姿が見えなくなった眞蓮を探していた落合は、偶然すれ違った圭人から眞蓮と環が二人で大階段の近くに座って談笑していたという目撃証言を得て驚愕した。

 環が眞蓮と笑って話しているなんて、一体どういう風の吹き回しだろうか。彼が自分の恋人と仲良くしたいなどと思っているはずはないのに。

 落合が会場であるホールから玄関近くの大階段までやってくると、圭人が言っていた通り眞蓮と、落合がよく知る美青年が、階段の最下段に並んで腰を下ろして笑っていた。

 落合に気づいた眞蓮があっと小さく声を上げる。同時に隣にいる環も落合に気づき、その目が一瞬にして冷ややかな色に変わった。

「………環」

 二人の方へゆっくりと近づいていきながら、落合はその名前を呟く。

「亜貴」

 いつもより低い声で環も呟き、その場ですっと立ち上がった。

 落合と環は距離をあけて向かい合った。少し遅れて立ちあがった眞蓮が二人の顔を交互に見ている。

「久しぶりだね。元気そうで何より」

 元の声音に戻った環が落合ににっこりと微笑んだ。当然のことながら目の奥は笑っていない。

「そっちこそ。元気そうで良かった」

 落合も淡々と、静かな目で環を見つめて真顔で言った。眞蓮の手前、二人とも露骨に感情を出そうとはしない。だがそれから二人は真っすぐ視線を合わせたまま、互いに黙り込んでしまった。

 気まずい空気が流れる中、眞蓮が二人の様子を伺いながらそっと口を開く。

「わたしが退屈しないように、環くんが亜貴のこと色々教えてくれてたの」

「えっ……何を?」

 落合が突然、瞳を揺らして眞蓮を見る。驚いた眞蓮は訝しげに彼を見返した。

「ええと、子供の頃、二人で弁護士さんに悪戯した話とか……」

「可愛い昔話だよ。何か話されるとまずいことでもあった?」

 環が唇に冷たい微笑を浮かべて言った。

「………いや」

 落合と環は互いに視線を逸らさず、再び口を固く閉じる。

 そこへ、どこからともなく現れた容子が靴音を響かせながら三人に近寄ってくる。

「ちょっとあなたたち。こんなところで何をしているの。会場に戻りなさ……っ……環………」

 ぎょっとしたのも束の間、容子はすぐに表情を引き締め、目にあからさまな敵意を浮かべて環を見た。

「うちの孫と婚約者に一体何の用かしら?」

「心配しないでください。軽く話していただけです」

 環は容子に向かってにっこりと完璧な作り笑いを浮かべた。

「それならもう用は済んだでしょう。妹のところにでも戻ったらどう?」

 容子の口調は驚くほどきつかったが、環に動じた様子はない。

「ええ。そうします。それにしても良かったですね。亜貴さんと眞蓮さんのおかげで寿命が延びたんじゃないですか?容子さん」

「性懲りもなくこの私に喧嘩を売りたいのかしら」

「いいえ、まさか。場外乱闘はしませんよ。戦場はパーティーの後、深夜の家族会議ですから」

「そうね、良い判断だわ。深冬の中ではあなただけがまともに頭が使えるようね。でもね環。あなたはもっと自分の立場をわきまえるべきだわ。今でも降魔の末裔として最も権威を誇っているのはこの落合なの。あなたたち深冬は一時的に人気を集めて天狗になっているだけのただの分家よ。おまけに汚い金を使って汚いことをしている。私にも亜貴にも気楽に口がきけると勘違いしないで、もっと敬意を持って接してちょうだい」

「自信がおありなんですね。自分たちが降魔の末裔を名乗るのに最もふさわしい家だと」

「もちろんよ」

「さすがは落合家の当主、ご立派です。ところであなたもそう思いますか、亜貴さん?」

 いきなり話を振られた落合はより一層強張った目で環を見つめた。

「落合家には、何も黒い部分がないと思いますか?」

「何を言っているのよ、あなたは」

 容子が尖った声を上げる。

 落合は何も答えずにじっと環を見ていた。

 環も彼が何か言い返すことを期待してはいなかったらしい。

「では、これで失礼します。眞蓮、また話そうね」

 環は取り繕った笑顔で場を切り上げ、何事もなかったかのように颯爽と会場に戻っていった。

 そんな環の背中を、容子があからさまに嫌な顔をして見つめた。

「信じられない。何ていう子なの」

「……あなたがけしかけるからですよ」

「母親にそっくりね」

「その言い方はやめてください」

 容子の呟きを聞いた途端、落合が喉から強く声を発する。

 険しい表情を浮かべる孫に向かって容子は何か言いたげに口を動かし、結局出かかった言葉は言わずに代わりに大きな溜息を吐いた。

「会場に戻るわ」

 容子もいなくなると、落合はようやく溜め込んでいた息を吐くことができた。

「眞蓮。ごめん……もう部屋に戻ろう」

 落合は眞蓮の腰に軽く手を当て彼女に寄り添ったが、眞蓮は下を向いたまま返事をしなかった。

「眞蓮?」

 気を悪くさせてしまったかもしれないと、眞蓮の顔を心配そうに覗き込む。そこで落合は思わず目を見張った。

 うつむいた眞蓮の顔はぞっとするほど青白く、はっきりと苦痛に歪んでいたのだ。

「眞れ…っ…」

 その時、眞蓮が落合の腕にすがりつき、唇を震わせながら顔を上げる。

「吐きそう……」

 囁いた次の瞬間には、眞蓮はうっと片手で強く口元を押え、その場に落合を残して化粧室の目印がある方向へと死に物狂いで駆け出していた。

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