毒林檎と吸血鬼

総角ハセギ

鏡よ鏡、彼女を殺したのは誰?

1 降魔郡へ

 黒い光沢を放つ車の助手席から、麻生あそう眞蓮まれんはハンドルを握る落合おちあい亜貴あきの横顔にそっと目を向けた。

「疲れた?」

 何か言葉を発したくなって眞蓮は言った。車が走り始めてからほとんど使われていなかった喉から出た声は思った以上に掠れてしまったが、落合の耳には問題なく聞き取れたらしい。彼はその綺麗な顔を前方に向けたまま、眞蓮の問いかけに優しく静かに短く答える。

「大丈夫だよ」

 眞蓮はそう、と小さく呟いて顔の向きを戻した。

 車は一瞬の乱れもなく、コンクリートの上を淡々と一定の速度で走り続けている。 走行音さえも静かな道のりだった。日差しはあるのに、その生温かい陽気さは分厚い鉄に弾かれて二人までは届かない。

 心も身体もこんなに近い距離にいるのに、今でも時々眞蓮には落合が何を考えているのかがわからなくなることがあった。彼は人付き合いも悪くなく、決してシャイでも不愛想でもないが、自分の趣味嗜好や過去の出来事をすすんで話そうとしない、どちらかと言うと口数が少ない物静かな人だった。穏やかに必要最低限のことだけ話して、それ以外は相手が尋ねてくるまで黙っている。尋ねられたことには丁寧に答えを返してくれるが、それは心の壁の外側で作られた当たり障りのない回答で、壁の内側にある本心は他人になかなか見せようとしてくれない、そんな感じだ。落合は仕事ができるうえに優しいので社内でもかなり人気がある方だったが、同時に私生活がまるで見えてこない謎めいた存在でもあった。彼のどこか憂いのある雰囲気もその神秘性に拍車をかけている。

 出会う前の落合のことを眞蓮はほとんど知らない。今二人が車で向かっている、降魔郡こうまぐんという聞いたこともない土地が落合の故郷であることを、彼が少なくとも十年以上も前にそこを出て以来一度も帰郷していないことを、その降魔郡に彼の家族親戚が今も暮らしていることを、恋人そして今やその一歩進んだ関係であるにも関わらず、眞蓮は半年前まで知りもしなかった。

 降魔郡。そこは世間一般に名を知られてはいないが、かなり歴史が古いまちであるらしい。郡成立時、魔が降るというその二文字の漢字が地名として縁起が良くないと大変議論になったそうだが、この郡の歴史的な背景や住民の声を考慮した結果、そのままにされたのだという。

 降魔郡はかつて、ヨーロッパで莫大な富を築いたある外国人資産家が持っていた広大な私有地だった。彼は昔、親族や知人を大勢引き連れ欧州から日本に移住し、当時未開拓であった現在の降魔郡とほぼ同範囲となる土地一帯を易々と買い上げ、降魔という日本名を名乗り、そこに自らを領主として周りに領民となる住民を生活させる、古い時代の都市のような自治の仕組みを作り上げた。大富豪降魔氏には三人の息子がおり、氏の死後は降魔姓を受け継いだ息子たちがその土地を領主として代々治めていくようになった。降魔は日本の制度から独立した特異な存在として、長い間地図にも載ることなく独自に発展を遂げた。

 そんな降魔だったが、次第にその繁栄に影が差す。領主たる降魔一族が内紛により分裂し、土地と権力を巡る争いが起きるようになったのだ。その結果、降魔氏の長男の血筋は途絶え、次男と三男の血筋にあたる家々が降魔家の末裔としての権力、広大な敷地の支配権を求めて長きにわたりいがみ合うようになった。

 そしてある時、秘境・降魔王国は隣接する黒須くろす市の管轄下に置かれ、降魔郡として市の枠組みの中に編成されることになった。全盛期に比べ経済的にもその他の面でも苦境に陥っていた降魔氏の子孫たちと、彼らと彼らのだだっ広い豊かな土地を支配下に置きたい黒須市、双方の思惑が絡み合った結果だった。

 だが降魔の住民はそのほとんどが降魔氏とともに日本に移住した者たちの子孫であり、彼らは部外者である黒須市が自分たちの生活に介入してくることを酷く嫌った。郡の支配者である降魔一族の人々も黒須市との取引に合意しつつ、市に自分たちの特権をすっかり譲り渡してしまう気など毛頭なかった。そして二百年前の今日、当時の降魔の権力者・落合幹人と黒須市長が特別な協定を結び、旧降魔家の土地を降魔郡とすること、市は郡に対して一定の権利を持つが主権はあくまで降魔家の末裔たちにあること、郡は市から自治を認められた地域ではあるが完全に独立しているわけではなく、場合によっては市に従わなければならないこと等が定められ、現在まで続く黒須市と降魔郡の、通例に当てはまらない曖昧で危険な関係が始まったのだった。

 二百年前、降魔郡誕生の書類に署名した落合幹人なる男は降魔家の分家の一つ落合家の当主であり、落合亜貴の何世代か前の先祖だという話だった。今眞蓮の隣にいる彼女の最愛の人は、ヨーロッパにルーツを持つ歴史ある一族の末裔だったというわけなのだ。

 ちなみにこれらは全て落合ではなく、方波見かたばみ圭人けいとが眞蓮に親切丁寧に教えてくれた話である。

 半年前の日曜日の午後、方波見圭人は皺のない淡い色のジャケット、真っ白なYシャツときっちり締まったネクタイ、足元は磨かれた茶色い革靴という清潔感溢れるいでたちと爽やかな微笑みで、眞蓮と落合が同棲している東京都内のマンションに突然何の連絡もなしに現れた。

 ドアを開けた眞蓮は、そこに立っていた愛想の良い見知らぬ青年が、後から出てきた落合を見て彼を「亜貴さん」と嬉しそうに呼んだのを聞き、二人が顔見知りであることを知った。彼を見た落合ははっきり顔に出さずとも今までに見たことがないほど驚愕し、かなり狼狽していた。圭人を家にあげてからも落合の驚き混じりの疑念は続き、圭人が用件を話し始めると、徐々にその戸惑いに揺れていた目は冷たく暗く虚ろになっていった。

 眞蓮と落合の家にいる間、圭人は終始物腰穏やかで礼儀正しく、二人が不快に思うような行動を一切取らなかった。持参した書類やノートパソコンを扱う彼の手つきには無駄がなく、実にてきぱきとしていた。普段から事務仕事をしているのだろう。最初に眞蓮が手渡された名刺には、降魔郡司法執行官補佐官・方波見圭人とふりがな付きで記載があった。

 彼の来訪がきっかけで、眞蓮と落合は東京から車で約四時間ほどの場所にある謎の土地・降魔郡へ向かうことになったわけなのだが、それは半年前の眞蓮と落合にとって完全に計画外の出来事であり、特に落合にとっては全く望んでもいないことだった。

 過ぎ去っていく車窓の景色から、眞蓮はふと自分の手元に視線を落とす。彼女の左手の薬指にはめられた指輪は、半年前の彼女が想像していた未来の象徴だった。同じものが、隣でハンドルを回している落合の骨ばった長い指の間でも光っている。

 本当なら今頃、麻生眞蓮はとっくに落合眞蓮になっているはずだった。それが方波見圭人の来訪で色々と予定が狂ってしまい、入籍は当面延期になってしまった。だからこれは、今は実質結婚指輪ではなく婚約指輪だ。いつか夫婦になる証としてはめているもの。それが具体的にいつなのかというところまでは残念ながらまだ話し合うことはできていないが、眞蓮は落合との結婚が延期になったことに対して不満があるわけではなかった。彼女が心配しているのは彼自身のことだった。

 降魔郡からはるばるやってきた圭人が落合に話した内容は彼にとって、眞蓮とのことに気が回らなくなってしまうほど重要なことであるようだった。彼はあれからずっといつも以上に暗い目をしている。そしてその理由を眞蓮には具体的に話してくれない。

 圭人の訪問があってから、二人の自宅には落合宛に同じ苗字の容子ようこなる人物からの手紙が何通か届くようになっていた。その中の一通に封入されていたのが、今夜降魔郡で行われる郡成立二百年を記念した黒須市主催の式典への招待状と、その後のやはり同市主催の比較的カジュアルな懇親会への招待状だった。

 落合容子は落合亜貴の祖母であり、現在落合家の当主を務めている女性だという。方波見圭人が眞蓮に電話で教えてくれた話によれば、容子は年齢を感じさせないかなり活動的な人物だそうで、少々大胆な一面もあるとのことだった。降魔郡から遠く離れた眞蓮と落合の家まで圭人を遣わせたのは、その容子だった。どういうわけか彼女は眞蓮のことを既に知っており、懇親会には彼女も連れてきなさいと、手紙の中で力強い筆致で孫に指示を出していた。

 降魔郡から手紙が届くと、落合は毎回圭人を通して疎遠の祖母の度重なる帰還要請に断りの連絡を入れていた。だがそれが聞き届けられることはなく、祖母と孫の帰る帰らないを巡る応酬は長期化した。そして一か月前、とうとう落合が折れた。式典に合わせて二日間だけ休暇を取り、降魔郡に帰ると眞蓮に告げてきたのだ。

 完全に一人で行くつもりでいた落合に、眞蓮は自分も一緒に行くと宣言した。実は眞蓮は、容子が彼に対して執拗に眞蓮を伴っての帰還をせがんでいるという話を、こっそり圭人から聞いていた。自分が行かないことで容子の中で二人への印象が悪くなってしまうのではないか、落合の久しぶりの帰郷、家族との再会に影を落とすことになってしまうのではないかという不安もあったが、彼が生まれ育った土地を見てみたいだとか、結婚前にやはり一度くらいは相手の家族に会っておかねばと考え直したこともあって、様々な感情が入り混じっての決断だった。だがそれが果たして良かったのか悪かったのか、眞蓮には今この瞬間もよくわからない。落合は眞蓮の意思を優先して彼女を連れてきてくれたが、彼が彼女を故郷に連れて行きたくなかったということは明白なので、どうも空気が軽くならなかった。それにこの半年で眞蓮が肌に感じ取れたことには、落合とその祖母との関係はあまり良好ではなさそうなのだ。

「お祖母ばあさんとは……気まずいの?」

 仲が悪いのとは聞けず、でもあまり遠すぎる言葉も使えずにそう尋ねてみると、落合は一瞬だけ困ったような表情を浮かべた。

「気まずいというより………どうしてもわかり合えない部分があるんだと思う。でも、お互い大人だから。眞蓮の前でみっともないことはしないよ」

 そのように言い切られては返す言葉が思いつかず、眞蓮はそっか、とまた短く反応して口を閉じた。

 すると今度は落合が右方向にハンドルを切りながら言った。

「今のマンションに引っ越したのいつだっけ。眞蓮覚えてる?」

「二年前くらいじゃない?」

「それならもうすぐ更新の時期か……」

 眞蓮は落合の横顔を見つめ、頭の中で彼の呟きの真意を探った。

「……次は無人島に住む?」

 冗談めいた口調で眞蓮が言うと、落合は一瞬目を丸くして、それからふっと力が抜けたようにやわらかい笑みを浮かべて眞蓮を一瞥した。

「いいね」

 黒須市内を走っていた時、窓の外の景色はよくある大都市の街並みとさほど変わらなかったが、しばらくしてそれは鬱蒼とした緑の森へと姿を変え、標識が降魔郡への進入を告げた時にはもう辺りはまるで異国の地だった。落ち始めた太陽の光が森に差し込み、木々の長い枝が奥へ奥へと手招きするようにゆっくりと夕方の風に揺れている。森の中に整備された一本の太い道、そこをえんえんと進んでいくうちに、眞蓮は己の身体が車ごとどこかの物語の幻想的な森の中に吸い込まれていくような不思議な感覚に陥った。

 二人を乗せた車はやがて森がひらけた場所に佇む、一軒の巨大な石造りの洋館の手前で速度を落とし、館の周りを囲むように整備された駐車場の片隅にゆっくりと停車した。駐車場は半分以上が既に色とりどりの車で埋まっていた。中には高級車もある。

 眞蓮と落合が車から下りてすぐに、洋館の方から方波見圭人が走ってくるのが見えた。

「亜貴さん、眞蓮さん。お久しぶりです。長旅お疲れさまでした。車と荷物はそのままで結構ですので中へどうぞ。すぐに部屋にご案内しますね」

 忙しなく動き回っていたのだろう。半年ぶりに会った圭人の額や首筋にはつうっと汗が流れており、髪が肌に張りついている。眞蓮と落合のすぐ近くまでやってきた圭人からは、万人受けする香水の清潔な香りがした。相変わらずきちんとしているなと彼を見上げた眞蓮は、そこにあった圭人の愛想の良い笑顔につられるようにして思わずはにかんだ笑みを返した。

 圭人によると、この洋館はかなり前に黒須市が降魔家から買い取った彼らの別荘の一つで、現在は市が郡の公民館として運営、管理している建物であるという。黒須市か降魔郡の住民であれば事前申請無しで自由に使用でき、豪華な家財が残されたままになったゲストルームには一人一泊三万円で宿泊が可能だった。今晩の眞蓮と落合の寝床はここだ。落合容子は二人が落合の生家でもある彼女の屋敷に滞在することを望んでいたのだが、落合がそれを嫌がり、圭人に頼んで空いていた二部屋を予約してもらっていたのだった。

 圭人に案内されて、公民館と呼ぶのが似つかわしくないほど贅沢すぎる館の中に入った二人は、つるつるした大理石のロビーを横切り、一面に絨毯が敷かれた階段を三階まで上がっていった。そこは真っすぐ伸びた廊下を挟んで両側に重厚な扉を備えた客室が等間隔に並ぶ、宿泊専用エリアだった。

 そこで、すぐさま背後から女性の声が一同を呼び止める。

 振り向いた三人の目に映ったのは、短く切ったハンサムなグレーヘアが似合う聡明そうな老女だった。七十代後半くらいかと思われたが、足取りは実にしっかりとしていて背筋は全く曲がっていない。彼女のいでたちは、落ち着きのある黒みがかった緑色のフォーマルなワンピースにシンプルな銀のネックレス、足元はスクエアヒール。

「あぁ。亜貴」

 彼女は年齢の割によく通る低い声で、感嘆の息を吐くように言った。

「会いたかったわ。元気にしてた?」

「……お祖母様」

 落合容子は白い歯を見せて笑いながら、孫息子に近寄りその首にごく自然に両腕を伸ばした。落合は容子のために身をかがめたが、彼女の抱擁の意志に応えてやっている彼の表情や身体の動きはどこか義務的だった。

 容子が満足げに微笑み、ダイヤモンドの指輪がぎらぎらと光る手で孫の背中を何度か擦る。

「来てくれて本当に嬉しいわ。……こちらが、眞蓮さんね?」

「そうです」

 容子は落合からすっと身を離し、今度は眞蓮の目の前に移動して、彼女ににっこりと片手を差し出した。

「よく来てくれたわね。亜貴から聞いていると思うけれど、私がこの子の祖母の容子です。よろしくね」

「初めまして。麻生眞蓮です。お会いできて光栄です」

「こちらこそ。あなたに会えるのを心待ちにしていたわ。ここには無理に誘ってしまったようだけれど、どうか悪く思わないでちょうだいね。この土地の空気を直接肌に感じた方があなたの今後のためにも良いと思ったのよ。降魔家の歴史やうちに嫁ぐための心構えだとかは、東京では学べないことでしょう?」

「お祖母様」

 落合の静かな呼びかけには咎めるような響きがあった。

 容子は軽く笑った。

「わかっているわ亜貴。今は悠長に話している場合じゃないわね。さてと、式典まではもう一時間もないわ。眞蓮さんにも出席してもらう懇親会は、式典終了後すぐに同じホールで開かれることになっているの。多少時間が前後する可能性もあるけれど、予定では夜七時から、遅くても八時には始まるはずよ。必要なものは全て、あなたたちそれぞれの部屋に用意してある。そうよね?圭人」

「はい」

 落合と眞蓮の一歩後ろで直立していた圭人が、素早く背を伸ばして顎を引いた。

「私と亜貴はすぐに式典の支度をしなければならないわ。眞蓮さんは、懇親会が始まるまでは部屋でゆっくりくつろいでいてちょうだい。時間になったら私か亜貴が迎えに行くから。圭人、眞蓮さんを部屋に案内してあげて。亜貴は私と来てちょうだい。今夜の会議について話したいことがあるの。さあ、行きましょう」

 落合家の二人はあっという間に眞蓮と圭人から遠ざかっていった。圭人が「行きましょうか」と優しい声で眞蓮を促し、それからすぐに眞蓮は今夜泊まる部屋に案内された。

 そこは客室の一つだとはとても思えない、主寝室のように豪華な内装の広いワンルームだった。天蓋付きのベッド、足首まで沈み込みそうなふかふかの絨毯、大きな鏡台付きドレッサー等々、どれも一目で高級品とわかる物ばかりだ。

 眞蓮は思わずドア付近で立ち止まって室内をぐるりと見渡した。その間に圭人は迷わず奥に進んでいき、寝台横のクローゼットを開け、くるりと振り返った。

「そこまでかしこまった懇親会ではないのですが、一応ドレスコードがありまして。ここに規定に合った衣装が揃っていますので、どうぞお好きなものを選んでください」

 クローゼットに近づき中を覗いた眞蓮は、思わずえっと声を上げて隣の圭人を見た。

「これ、全部自由に着ていいものなんですか?」

「ええ。実はこれ、市がこの館を買った時にここに残されたままになっていた衣装なんです。言ってしまえば古着なんですが、降魔家の方々は服を大量に持っていらしたので一着一着の着用頻度が少なかったのか、とても状態が良いものがほとんどでして。それでせっかくなので、公民館にいらっしゃる方や宿泊される方に無料で使って頂くことになったんです。この館ではよく今日のような大きなイベントやパーティーが開かれるので、新しく衣装を買わずに済むと好評なんですよ」

 圭人は微笑み、「靴や小物は奥の棚に入っています」と付け加えた。

「あの。……方波見さん」

 一瞬会話が途切れたのを機に、眞蓮は圭人に対して慎重に口を開いてみた。先ほど、少し気になったことがあったのだ。

「はい。何でしょうか?」

「方波見さんは確か、司法執行官補佐……でしたよね」

「ええ、そうです」

「普段からこの館で、こういった案内のお仕事などもされているんですか?」

 司法執行官は降魔郡に設置された特殊な役職だった。所属は黒須市だが降魔郡の司法に関して全権を持ち、それだけでなくその他にも様々な特権を与えられているのだという。保安官もしくは黒須市が送り込んだ降魔郡の監視役のようなものと言った方がわかりやすい、と以前落合が教えてくれたことを眞蓮は思い出した。黒須市と降魔郡の複雑な関係をあらわしたような職だ。その補佐官を務めているのがうら若い彼なのだった。

「いえ。普段は黒須市にある事務所でほとんど一日中デスクワークをしているか、そうでなければ執行官の外出に同行しています。ただ今回は、どういうわけか市の上役から懇親会の裏方を取り纏めるよう命じられてしまいまして。俺の直接の上司は執行官ですが、指示してきたのは執行官の上司だったんです。だからなかなか断れなくて。こうした華やかな場には不慣れなんですが……多分、人手が足りなかったんでしょうね」

「それで色々と用意したり、案内したりされてるんですね」

「ええ」

「容子さんもここの関係者なんですか?」

「いいえ。でも、ご本人は無関係ではないとお考えのようです。彼女は今夜の式典と懇親会どちらでも主賓待遇ですし、この公民館はかつてご主人が所有していた別荘でしたので、それでご自宅のような気分で、その……のびのびされているのかと」

 そこで圭人は不意にくすっと笑うような視線を眞蓮に向けた。

「容子さんがこの館の女主人、俺がその執事にでも見えました?」

「あっ……いえ。ただ、容子さんが方波見さんにかなりくだけた接し方をしているように見えたので」

 気まずそうにやや視線を逸らした眞蓮に、圭人はにっこり優しく微笑んだ。

「あながち間違いでもないですよ?どちらかというと、俺にとって補佐官の方は副業みたいなものなんです。物心ついた時から、降魔家の方々のお役に立てるよう行動するのが己の使命だというふうに両親には教わってきましたので。方波見家うちは代々、降魔一族の側近として彼らの御用聞きのような役割を果たしてきたんですよ。少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、俺たちが今ここに存在しているのは現在で言うところの落合家と深冬みふゆ家のためなんです」

「深冬家?」

「降魔一族のもう一つの家、落合家の遠い親戚です。きっとすぐにわかりますよ。今夜の式典にも懇親会にもいらっしゃいますから」

 圭人は窓際に立ち、ベルベットのカーテンを静かに閉めながら言った。

「うちの父は長年降魔一族の顧問弁護士をしていて、容子さんと深冬家の当主であるまことさんの遺産管理人でもあるんです。母はもう引退しているんですが、昔は幸恵ゆきえさんの侍従長でした」

「幸恵さんというのは……」

「亜貴さんのお母様です。亜貴さんは幸恵さんに似て、小さい頃からとても優秀でした。優しくて容姿も整っているし、何でも器用にこなすので、跡取りとしてかなり期待されていたと思います。特に容子さんは、亜貴さんが落合家の当主を継いでくれるものだと当然のように信じていました。でも、貴也たかやさん……亜貴さんのお父様が亡くなられた時、相続人だった亜貴さんはお父様から継ぐはずだった全ての遺産を放棄したんです。その中には落合家の当主となる権利も含まれていました。亜貴さんが家を継がないと宣言したので、当主の座は仕方なく亡くなった貴也さんの母である容子さんに譲られました」

「亜貴のお父さん、亡くなっていたんですね……」

「ええ。奥様の命日と同じ日に」

「えっ?」

 圭人は悲しげな眼差しを眞蓮に向けた。

「ええ……。亜貴さんのご両親はどちらも他界されているんですよ。亜貴さんは一人っ子でしたし、貴也さんにもきょうだいはいませんでした。容子さんのご主人もとっくの昔に亡くなっています。ですから落合家には今、実質、容子さんと亜貴さんしかいません。容子さんが亡くなられた後、誰が落合家を引き継ぐのかは未定です。今夜の懇親会の後にある家族会議でも恐らく、その辺のことが話し合われるのではないかと思うのですが………。容子さんは落合の家の存続にこだわっておられるので、亜貴さんのデリケートな部分に少し深入りしすぎてしまうところがあるんです。それでこれまでにも何度か衝突を。今日の亜貴さんは、容子さんが何かあなたに失礼なことを言いやしないかととても心配されているようです。もし眞蓮さんが、容子さんに何か不快な発言をされたり、容子さんに限らず誰かに困らされるようなことがあったら、遠慮なくおっしゃってくださいね。あなたと亜貴さんが何事もなく東京に帰れるよう尽力するのが、俺の役目ですから」

 圭人が去った後、眞蓮に襲いかかってきたのは恐ろしく退屈な時間だった。

 一見どこにも文句のつけ所がないように思える部屋には、よく見ると時間を潰せそうなテレビやパソコン、ラジオ、本棚や書き物をするための机も何もないのだった。携帯電話を意味もなく触っていても気持ちはなかなか落ち着かない。

 ドアを開けて部屋からひょっこり頭だけ出してみると、下の階では既に黒須市主催の記念式典が始まっているらしく、誰かがマイクを使って話す声がうっすらと聞こえてきた。

 廊下はひっそりとしていて人気はなかった。懇親会用の衣装はとっくに選び終わり、唯一話し相手になってくれそうな圭人も近くにおらず、部屋も見飽きて他に何もすることがなかった眞蓮は、せっかくだからと館の中を少しだけ散策してみることにした。

 部屋を出た眞蓮は、一人きりで、滑らかに磨かれた木製の手すりを掴みながらゆっくりと階段を上がっていった。もともとそうであったのかそれとも改装したのか、ここはどこもかしこもくつろぎや安らぎとは縁がない、訪れる客の目を意識した煌びやかな造りになっていた。公民館と聞いて思い浮かぶイメージとはやはり程遠く、降魔郡の公民館を隣の黒須市が運営しているという点にも、少々このまちの特異性が感じられる。

 長い通路を壁にかけられた風景画の数々に目をやりながらのんびり進んでいくと、右手が角になっていた。その角を曲がった瞬間に、風景画に気を取られていた眞蓮はうっかり反対方向から曲がってきた誰かの胸に真正面からぶつかりそうになった。

「すみません……っ……」

 すんでのところで衝突を回避し、眞蓮は反射的に謝罪の言葉を口にしてすぐに相手の顔を見上げる。

 そこにいたぐんと背の高い二十代後半から三十代前半くらいの若い黒髪の男は、濃い眉の下の鋭い目で眞蓮を冷ややかに見下ろしていた。男の顎の線は太く、首は筋張り、肩は水泳選手のようないかり肩だ。ラフなシャツの袖を肘の辺りまでぐっとまくり上げており、そこから筋肉質な腕が伸びている。髭はないが、どこか野性的な魅力と成熟した大人の雰囲気があり、精悍な男だった。

 彼は眞蓮に向かって不機嫌そうに眉をひそめ、唐突に言った。

「さてはお前も白雪姫のしもべだな?」

 目に困惑の色を浮かべた眞蓮を見下ろしたまま、男は不快そうに眉間に皺を刻んだまま低い声で続ける。

「やめておけ。あいつは崇め奉って金を貢ぐほど価値がある女じゃない。後悔したくなければ今すぐ家に帰れ。何もかも失ってからじゃ遅いんだぞ」

 一方的に忠告すると、男はそのまま歩き去ってしまった。

 眞蓮は眉をひそめて男の後ろ姿を見つめた。荷物を持たずにラフな服装で歩いていたから、恐らく宿泊客の一人なのだろう。それにしても今のは一体何?何だか訳のわからないことを言っていたような気がするけれど……。

 それから数分後に部屋に戻ってからも、眞蓮の頭にはしばらくその不可解な男のことが浮かんでいた。やがて時間の経過とともに自然と男のことを深く考えなくなった眞蓮は、クローゼットの中から選んでおいた肌の露出が少ないグレーのワンピースへと着替えを済ませ、それからクローゼットの奥にもぐり込み、奥の棚に並んだたくさんの靴の中からサイズとデザインが合うものをがさごそと探し始めた。

 その時、誰かが部屋のドアを軽い力で二回ほどノックした。

 靴選びを中断した眞蓮がドアを開けると、そこにはやや疲れた目をした落合が微笑を浮かべて立っていた。

 彼の衣装は全身が黒で統一されたスタイリッシュなデザインのもので、それぞれの黒には色の濃さで違いがつけられていた。それが妙に洗練された高級感ある雰囲気を醸し出しており、もともとの魅力とかけ合わされて品の良い色気まで漂っている。

「似合ってる。綺麗だよ」

 落合は開口一番に眞蓮を褒めるのを忘れなかった。

「ありがとう。亜貴も凄く素敵」

 眞蓮は頬をほのかに赤く染め、ストッキングを履いただけの足で慌ててクローゼットに駆け戻った。

「ごめん。靴を選んだらすぐに行けるから、少しだけ待って」

「急がなくて大丈夫だよ。まだもう少し時間がある」

 落合が腕時計を確認しながら後ろ手にドアを閉めた。

「式典、どうだった?」

 黒いフレンチヒールを手にクローゼットから出た眞蓮は、床に置いたそれに足を滑り込ませながら落合に尋ねた。

「話題性はあった……かな。記者も何人かいたし、黒須市と降魔郡から招かれた大勢の関係者でかなり賑わっていた」

「凄いね。式典に出席した人たちは全員、この後の懇親会にも参加するの?」

「いや、懇親会に招待されているのはそのうちの半分程度だよ」

「それでも多そう」

「まあ、それなりの人数はいるね」

「その中で誰とも知り合いじゃないの、きっとわたしだけかも」

「……緊張してる?」

「……少しだけ。亜貴は?」

「俺もだよ」

「全然そんなふうに見えなくて羨ましい」

 落合はふっと微笑むと、眞蓮のそばに寄っていき身をかがめ、彼女の白いやわらかな頬にそっと口づけした。眞蓮はやや照れながら靴底からぐっと踵を浮かせ、離れていく彼の頬に素早く口づけを返す。

 落合が意外そうな目で眞蓮を見下ろし、二人は少しの間互いに見つめ合った。それから落合は眞蓮の腰に腕を回して彼女を抱き寄せると、再びその綺麗な顔を眞蓮に寄せていった。眞蓮が落合の首に両腕を回し、吸い寄せられるように近づいていった二人の唇が深く重なる。

 眞蓮の心の中で、どこからともなく溢れ出てきた背徳的な高揚感と一抹の不安が熱く煮えたぎった。自分を抱きしめる普段冷静な落合の両腕に徐々に力がこもっていくのを感じると、余計にその激しさは増していく。

 ぴたりと身を寄せた二人がもう少し長くこうしていられることを期待していると、そんな思いも虚しくドアの外から聞こえた大きめのノック音が二人の世界を呆気なく終わらせてしまった。

 落合が眞蓮からそっと身体を離して、それからまたおもむろに彼女をやわらかく抱きしめた。

 ふと、その口から吐息混じりの低い呟きが漏れる。その呟きは心の奥底から絞り出された、何やら暗い独り言のようだった。

「全て終わらせて………早く二人だけになりたい」

 全てというのは、懇親会のことだろうか。

 眞蓮が何か言うよりも先に容子が容赦なく部屋の扉を開けて言った。

「時間よ。懇親会が始まるわ」

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