6 療養の理由

「ポレットがまた倒れてしまったの」


 ガラスの鈴、あるいは天界の小鳥のさえずり。そんな極上のたとえを欲しいままにしてきた声の主は、ポレットの継母にあたる女性である。


 悪意の欠片もない、純粋に透き通った声で紡がれる訴えをポレットが耳にしてしまったのは、意図しないことだった。


 だから継母も、その声に耳を傾ける父も、十九歳にもなったのにいっこうに丈夫にならず、むしろ近頃発作の増えた悩みの種ポレットが廊下の角に佇んでいることになど、これっぽっちも気づいていなかった。


「あの子、顔は愛らしいと言えなくもないけれど、痩せぎすだしいつまでたっても子どもみたいな容姿だわ。社交界に出ても我が家に何の価値ももたらさないのではなくて? それに、少し嫌なことがあるとこれ見よがしに発作を起こすのよ。もううんざり」


 ポレットの生母は二年前に死んでしまった。ほとんど庶民と変わらない男爵家とはいえ、一応は貴族の妻。ポレットの母は、病弱な娘を一人しか産めなかったことに負い目を感じていた。


 それでも一人娘のことを大切に思っていてくれて、だからこそ娘への愛情と夫や家族への罪悪感の狭間で心身を弱らせた。そうして最後には、ふうっと息を吹きかけられた蝋燭の火のように、呆気なく命の灯火を消してしまったのだ。


 母は亡くなる直前、ポレットの父に「早く後妻を迎えるように」と願ったという。その言葉通り、父は母の喪が明けると、高官の娘を娶った。継母のお腹にはすでに、ポレットの弟か妹が宿っている。


「そう言わないでやってくれ。環境が大きく変わったんばかりなんだ。ポレットの心ももう少しすれば落ち着くだろう」

「でも、最近は毎晩発作で苦しそうにしているのよ。その度に私も目が覚めてしまって。あの子の発作の原因はきっと私なの。そう思うと居たたまれなくて……お腹の子にも悪影響よ」


 ポレットは廊下で硬直したまま、音楽のように優美な継母の声を聞いていた。


(ああ、そっか。私って負担になっていたんだ)


 咳が止まらず苦しむ晩は、いつも継母がベットの側にやって来て、優しく背中を撫でてくれた。ポレットは、上流貴族の令嬢のようにたおやかで思いやりのある継母のことが好きだった。彼女も、年の近い継子を半分妹のように可愛がってくれているのだと思っていた。けれど、違かった。


「まあ、君の言うことも一理ある。ポレットにとっても、心労が溜まる暮らしはよくないだろう。どこか空気が綺麗な場所にでも行って療養するのがいいのだが」


 父の声が、水の膜を隔てたかのようにぼんやりと遠く聞こえる。


 ポレットの生母は裕福な商家の生まれであり、生家の繁栄という期待を背負って男爵家に嫁いだが、いよいよ跡継ぎを産むことができなかった。


 たった一人の子であるポレットは発作持ちの貧弱な娘。せめて頭脳明晰であればよかったのだが、ポレットは常に一拍遅れたような受け答えをするぼんやりさんなのだ。男爵家の繁栄の助けにはならない。


 この世に生まれた瞬間から期待されていた役割を果たすことができなかった母やポレットには、生きている意味などないのだろうか。


 時々そう思っては、お腹の奥がずんと重くなる。





「……い、……おおい」


 目の前が翳ったり明るくなったりを繰り返している。ポレットははっと我に返り、鼻先をひらひらとしているものが少年の手のひらだと気づいて頭を下げた。


「あ、ごめんなさい。ぼんやりしてて」

「何だよ、びっくりするだろ。……嫌な気分にさせちゃったかと」


 フェナンの心配の理由がわからず、ポレットは首を傾ける。杞憂だったと理解したフェナンはこれ見よがしに「けっ」と空気の塊を吐き出して「俺は竜舎の掃除があるから戻るぞ」ときびすを返した。


「あ」


 どうしよう。フェナンについて行くか、それともトマを待った方がいいのだろうか。


 視線を向ければ、相変わらずペルルが鹿と威嚇し合っており、トマが必死に宥めている。


「おい、何してんだ。行くぞ」


 ぶっきらぼうなフェナンの声に当然のように呼ばれ、ポレットは足の向け先を決めた。


 竜舎へ移動する直前、ふと、そこに取り残されることになるガエタンの視線の先が目を引いた。


 ペルルと鹿の応酬を観察しているのかと思いきや、紅玉のような瞳は北の山稜を眺めている。ぼんやりと回想に耽るような切なげな色を見て、ポレットはなぜか、胸がぎゅっと握りつぶされるような心地がした。

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