どんぶと

籠目瞳(カゴノメ)

第壱話 井蛙


 神は信じない。だから――、私はヒトを信じることにした。




「井蛙には以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり」


 黒板の上を滑るチョークの音が響く。


 カタカタカタと耳障りな異音を立てて首を回す、温い風しか送ってくれない年季の入った扇風機を恨めし気に見つめ、私は「つまらない」と小声で零した。頬杖を突いた不遜な態度で授業を聞き流す私を注意するような大人は、ここにはいない。


 教師という肩書だけを掲げたつまらない男が教壇に立って摂理を説くのを聞いたところで、果たして私の人生に何の意味があろうか。


 又聞きしたままの情報を、知識として語るだけの蛙が教鞭を揮うこの環境が、私は堪らなく嫌いだ。


「あ………………さまが」


 ああ、まただ。私の嫌いな言葉が、また、いつものように教師の口から飛び出す。


が、御成りになりました」


 直後。それまで真面目に板書していた者、私と同じように頬杖を突いていた者。果ては、それまでこくりこくりと舟を漕いでいた者。その全てが机に手をつけ、頭つけ、平伏する。生徒を教える立場であった教師でさえもが、居住まいを正し、床に額突く様は、異様と言うより他あるまい。


 そんな気味の悪い彼らのことを、私は心底冷ややかな目で見つめていた。


 何が起こるわけでもないこれからの十分間。彼らは、このまま、何もせず頭を擦りつけ続けているのだ。


 本当に、気持ちが悪い。


 * * *


 終業を報せる鐘が鳴り、出席簿を教壇の上に突いた教師が「以上」と言うのを皮切りに、教室中に張り詰めていた緊張を纏った空気が弛緩する。


 机の上に広げた教科書類を仕舞い込もうと、腰を屈め鞄の口を開いていると、視界に二本の足が映り込んだ。


「な。今日、アイス食べにいかないか?」


 顔を上げれば、幼馴染の優斗ゆうとが私を見下ろしていた。首の後ろに掲げた鞄を揺らしている彼は、一体いつ帰り支度を済ませているのだろうか。


 優斗とは、幼稚園時代からの友達で、小中と一貫して同じクラスになり続けた所謂腐れ縁だ。尤も、この周辺の地域に他に学校はないから、教室にいるほとんどが皆、幼小同窓の旧い馴染みである。


「いいけど。なんでまた急に」

「近所の『氷菓ひょうか』に、新しいメニューが出来たらしいんだよ。なんでも、ぴすたちお?っていう豆でできてるんだってさ」


 わくわくした調子でそう言う彼の顔は、時々犬に見えることがある。


 私は女子だが、優斗は男子だ。普通、中学に上がったくらいで異性を意識し始めてお互い疎遠になったりするのが一般的だと思うが、優斗は一切そんな素振りを見せなかった。いつまでも、子供の頃と同じような距離感で接してくれる。それが私は心地よいと感じる。


 教科書と筆記具を全て鞄の中に仕舞い込み、私は立ち上がって彼の提案を承諾した。


「六時から用事があるから、それまでだったら、いいよ」


 * * *


 ジーワ、ジーワ……――ジジジッ……。と、照り付ける陽の暑さを謳った蝉の鳴き声が、鄙びた路地に反響する帰り道。額に浮き出た汗を手拭いで拭いながら、優斗は「あちいな」と嘆く。私はそれに軽く同意して返した。


「にしても、三年に上がってから一気に授業難しくなったよな。今日とか授業中、マジでちんぷんかんぷんだったわ」

「優斗は頭が悪いもんね」

「うるせえよ」


 私の容赦のない一言に、優斗は笑って返す。


佳奈かなはいいよな。頭がいいから授業ついていけて」

「頭がいいことはないよ。ただ、ウチにたまに来てくれる人が教えてくれるから、予習できてるってだけ」

「ああ。そういや佳奈んとこは旅館経営なんだっけ。あの人、今も来てるんだ」


 あの人、というのは私の家が代々やっている旅館の常連客のことで、月に数度、ここに泊まりに利用する。何をしている人なのかはわからない。来客の個人情報を無闇矢鱈と詮索しない、というのが我が家の鉄の掟だからだ。


 ただ、教職の資格を持っているとのことで、小学六年生の、初めて出会った頃に勉強を教えてもらった。それから、あの人が来る度に勉強を教えてもらう、というのが習慣になっている。


「六時からの用事って、まさかその人絡みじゃないよな?」


 優斗が、彼にしては珍しく血相を変えて聞いてきた。普段ぼんやりとした優斗にしては少し過剰な反応に見える。


「違う違う、それとはまったく別の、家の要件」


 私はそう笑って返した。だけど、内心は嫌な予感がしていて、心中穏やかではなかった。


 今朝、私が学校に出発しようと靴に履き替えていると、母が言ってきたのだ。


「大事な話があるから、六時には帰ってきなさい」と。


 七月に入ったこの時期に、家族から告げられる大事な話。この町に住む者なら、誰もがその話、というのを察することができる。それは、当人である私もそうだし、横を歩いている彼も同じだ。一瞬、安堵するように溜息を吐いたが、次には「それって……」と続けた。


「何の話だろうね。頭がいい私でもわからないや」


 だから私は、敢えてお道化て見せる。が、優斗はその反応に、顔をくしゃりと歪めたのち、何を言うでもなく、顔を俯けてしまった。逆効果だっただろうか。普段能天気な彼にしては、妙に察しが良い。


「そういえば、さっき授業難しくなったって言ったよね」


 私は慌てて話題を切り替えた。この調子でアイスを食べに行っても、楽しくない。折角なら楽しい気分で『ぴすたちお』なる新商品アイスを食べたい。


 優斗はあからさまな話題の摺り替えに、流石に気が付いたようだったが、そのことについては特に言及することはなかった。


「今詰め込まないとジュケンに響くとか、んなこと言われても意味わかんねんだけどなー」


 いつもの調子に戻った優斗がぼやく。それについては私も完全同意見だ。私たちの通っている学校は中高一貫校で、高校を卒業したら皆、家業を継ぐ。今習っている古典や数学の公式の知識がこの後の人生に影響することはない。


「仕方がないよ。外のヒトの真似事してるだけだもん」


 この町は、古くからのしきたりを守り続け、新しいものを拒む旧態依然とした保守的な町だ。最近になって、新しいものを取り込もうという動きが出てきたが、これまで連綿と続けてきた排他思想はなかなかすぐに直るものではない。


 だから、受験という言葉は存在するものの、その受験にあたる存在はこの町にはない。言ってしまえば、外の真似事をしているだけのなんの中身もない行動だ。


「古いものを捨てないで、新しいものを取り込めるわけないのにな」


 優斗が核心をつく。私もそう思うし、それこそが私がこの町を気持ち悪く思っている理由だ。


「ところで」


 私は、更に話題を変えた。さっきから気になっていたことがある。町のアイス屋、『氷菓』へ向かう足をパタリと止めて、私は言った。


「豆とアイスって、合うの……?」

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