ハイカラ長屋の文豪気取り

@more2220

第一 呻吟と使者

落合雁之助(おちあいかりのすけ)と云う男は、書斎と称する六畳間に蟄居(ちっきょ)し、腕を組みたるまま、さながら産褥(さんじょく)の苦しみに喘ぐが如き呻吟(しんぎん)の態(てい)であった。彼の眼前に横たわる原稿用紙は、彼の脳髄の空虚を正直に白状するものか、依然として白茫々(はくぼうぼう)たる曠野(こうや)に過ぎぬ。ただ、その右肩に震える筆致を以て記されたる『灰色の黄昏』と云う題字のみが、この半年と云う歳月における彼の全事業の、哀れなる墓碑銘として存在しておるに過ぎないのである。

ああ、言霊(ことだま)とは、斯(か)くも capricious(カプリシャス)にして、無慈悲なるものかと、彼は思う。我が胸中に沸騰する高遠なる観念も、いざ筆を執ってこれを紙上に定着せんと試みる段になると、まるで臆病なる獣が巣穴に隠れるが如く、インクの染みの陰へとその姿を晦(くら)ましてしまう。人間の深淵を抉り、時代の苦悶を一身に体現し、以て日本文学の未踏の境地を開拓せんと云う、この己れの崇高なる意志を、何故(なにゆえ)世間は、否、言葉そのものが解さぬのか。雁之助は、誰に聞かせるともなく、天井の木目を睨み付け、斯く嘆息せざるを得なかった。

その時である。彼の精神が、日本文学の将来を荷(にな)って、高遠なる空を彷徨(ほうこう)せんとする矢先、その鼻は極めて俗悪なる、然(しか)し抗い難き刺戟(しげき)によって無残にも寸断せられたり。筋向かいの西洋料理屋『文明軒』の厨房からであろう、豚の肉を洋風に揚げたカツレツとか云う料理の、馥郁(ふくいく)たる香気が、遠慮と云うものを知らぬ秋風に乗り、彼の鼻腔を不躾に訪問したのだ。胃の腑が、きゅう、と卑しい音を立てる。これは生理上の必然であって、断じて精神の堕落ではないと、雁之助は己れに固く云い聞かせた。

それに追い討ちを掛けるように、隣室からは、かの時好(じこう)に投ずる戯作者、高村弦斎が芸妓でも呼んで気焔を揚げておるのであろう、三味線の音色に混じり、品格の欠片も認められぬ嬌声が、薄い壁一枚を隔てて漏れ聞こえてくる。弦斎は、硯友社の末席を汚す売文の徒(と)で、時流に阿(おもね)る人情話や恋愛小説の類を、さながら工場で反物を織るが如く、立て続けに書き散らしては、まずまずの糊口(ここう)を凌いでおる。雁之助に云わせれば、文学の神髄を解さぬ、ただの言葉の職工に過ぎぬ。

とどめには、階下の家主(やぬし)が、あたかも己れの存在を誇示せんが為にのみ発するとしか思えぬ、粘着質な咳払いを放った。これは家賃滞納三月(みつき)に及ぶ雁之助に対する、無言にして、極めて雄弁なる催促に相違なかった。

この長屋の正式な名称を、雁之助は知らぬ。住人たちは皆、これを「開化長屋」と呼んでおった。元は変哲もない棟割長屋であったものを、西洋気触(かぶ)れの家主が無理矢理に洋風へ仕立て直した結果、入口には墨痕鮮やかな「開化長屋」の看板の横に、拙いペンキで "KAIKA TERRACE" などと云う、ちゃんちゃら可笑しい横文字が書き添えられておる。各戸の前に飾りの瓦斯灯(ガスとう)が一本ずつ立っておるが、高価な瓦斯代を惜しむ家主の方針で、これに火が灯った試しを雁之助は未だ見たことがない。共有の井戸端には、家主が骨董屋にでも騙されて購(あがな)ったものか、西洋の女神を模したと云う、何とも形容し難きグロテスクなる偶像が鎮座し、長屋の風情を一層不調和なものにしておった。

万事休すの観あり。ドストエフスキーの小説の主人公ならば、この窮状に於いて神の不在を論じ、己が魂の救済を問うところであろう。然るに、雁之助の肉体は、彼の精神ほど強靭ではなかった。彼はやおら立ち上がると、戸棚の奥深く、まるで不義の証拠でも隠匿するかのように仕舞い込んでいた干し芋の最後の一本を取り出した。そして、あたかも聖体を拝領する罪人の如き神妙な面持ちで、その硬く、甘味の乏しい繊維を、奥歯でゆっくりと噛みしめるのであった。芸術の為の貧乏は甘んじて受けよう。だが、空腹だけは、如何(いか)にも哲学的な思索の妨げとなる。

雁之助が、その一口に万感の思いを込めておった、まさにその刹那である。

階下から、タタタ、と軽やかな足音が近づいてくる。やがて、彼の障子の前でぴたりと止まると、鈴を転がすような、それでいて有無を云わせぬ張りのある声がした。

「落合様。お父様がお呼びでございます」

家主の娘、雛子(ひなこ)の声であった。

「……何の用であろうか」

不機嫌を隠しもせず、雁之助は口中の干し芋を慌てて嚥下(えんげ)しながら答えた。家賃の件ならば、今は聞きたくない。

すると、雛子はくすくすと笑う気配を見せ、こう続けたのである。

「なんでも、落合様のその非凡なる文才を見込んで、是非ともお願いしたい儀がある、と申しておりました。我が『開化長屋』の名を、東京中に轟かせる、壮大なる企図(きと)だそうでございます」

壮大なる企図、と云う言葉に、雁之助の眉がぴくりと動いた。彼はまだ知らなかった。この家主の思い付きが、彼の高尚なる文学的苦悩を、前代未聞の滑稽なる騒動へと引きずり込んでいく運命の、その端緒であったことを。

壮大なる企図、と云う響きは、雁之助の矜持(きょうじ)を心地よく擽(くすぐ)った。そうであろう、そうであろう。たとえ今は文壇から黙殺され、貧窮に喘いでおろうとも、真の才能と云うものは、自ずと光を放ち、心ある者の眼を惹きつけるものに相違ない。彼は、先刻までの鬱屈を半ば忘れ、居住まいを正した。

「……入りたまえ」

威厳を込めてそう告げると、障子がすっと開かれ、まず家主の小野寺氏が、その丸々とした体を窮屈そうに折り曲げながら姿を現した。年の頃は五十がらみ、ちょび髭を生やし、和服の上に申し訳程度に洋風のチョッキを重ねると云う、この長屋の様式を体現したかのような出で立ちである。その小脇には、何やら分厚い洋装の本が一冊、大事そうに抱えられておった。続いて、娘の雛子が、父とは対照的に軽やかな身のこなしで室(へや)に入り、ちょこんとその後ろに控えた。

「いやあ、落合君。仕事の邪魔をしてすまんのう」

家主は、そう云いながらも、その目は値踏みをするように室の隅々を見回しておる。無論、書物や原稿の山ではなく、質に入れられそうな物が残っておらぬかを見ているのであろうことは、雁之助にも察しがついた。彼は咳払いを一つして、家主の視線を自分へと引き戻す。

「して、家主殿。壮大なる企図とは、一体何ですかな」

その言葉を待っていたとばかりに、家主は膝を乗り出し、抱えていた洋書を畳の上へ恭しく置いた。表紙には、妙に顎の尖った騎士と、憂いを湛えた姫君の絵が、けばけばしい色彩で描かれておる。

「これだ、落合君!」

家主は、まるで家宝でも披露するかのように、その本を指し示した。

「先日、横浜の居留地で懇意にしておる貿易商から手に入れた、英国の最新小説だ。『The Knight's Passionate Vow』…日本語にすれば、『騎士の情熱的なる誓い』とでもなろうか。これが実に面白い! 読んでいて、儂(わし)は三度泣いた!」

雁之助は、その悪趣味な装丁と、陳腐極まりない題名に、早くも眩暈(めまい)を覚えた。しかし家主は、彼の内心の絶望など露知らず、興奮した様子で話を続ける。

「そこでだ、落合君。君のその、帝国大学仕込みの素晴らしい才能を見込んで、頼みがある!」

家主は、ぐいと身を乗り出した。その眼は、金儲けを企む商人のそれである。

「これを訳述してはくれんか。そして、我が『開化長屋文庫』の記念すべき第一弾として、自費出版するのだ! さすれば、この開化長屋の名は、ハイカラな文学サロンとして、たちまち東京中の評判となるに違いない!」

「……はあ」

雁之助は、気の抜けた返事しかできなかった。戯言(たわごと)も甚だしい。こんな三文小説を訳述することなど、彼の芸術的良心が許すはずもなかった。丁重に、しかし断固として断ろう。彼がそう決意し、口を開きかけた、その時である。

「無論、ただでとは云わん」

家主は、人差し指を一本立てて、にやりと笑った。

「成功の暁には、印税から相応の礼をするのは勿論のこと、前金として…君の滞納しておる家賃、三ヶ月分を帳消しにしようではないか!」

家賃、三ヶ月分。

その言葉は、あたかも強烈な酒精の如く、雁之助の脳髄をしびれさせた。芸術的良心と、明日食うべき米。その二つが、彼の頭の中で激しい天秤の揺らぎを始めた。彼は、ちらりと雛子の方を見た。彼女は、父の壮大な計画に呆れておるのか、あるいは面白がっておるのか、ただ静かに微笑みながら、雁之助の顔をじっと見つめておる。その澄んだ瞳が、彼の狼狽を見透かしておるようで、居心地が悪い。

「……しかし、家主殿」

雁之助は、かろうじて最後の抵抗を試みた。

「斯様(かよう)な大衆迎合的な物語は、私の目指す純粋な文学精神とは、その方向性を異にするもので…」

「まあ、そう固いことを云うな。これも日本の文学界に新風を吹き込むための一つの試練だと思えばよかろう」

家主は、いとも容易く彼の言い訳を封じ込めた。新風、と云う言葉が、またしても雁之助の自尊心を微妙に刺戟する。

そうだ、あるいは…。

雁之助の心に、悪魔的な囁きが聞こえた。この俗悪極まりないテクストを、俺の筆力で、ドストエフスキーもかくやと云う程の、重厚な芸術作品へと昇華させてやるのはどうだ。陳腐な騎士の台詞を、シェイクスピアの如き格調高い独白に変え、浅薄な姫君の恋煩いを、魂の救済を求める形而上学的な苦悩として描くのだ。それはもはや訳述ではない。創造だ。俗なるものから聖なるものを生み出す、錬金術的な試みではあるまいか。

「……よろしいでしょう」

数瞬の葛藤の末、雁之助は、あたかも大きな犠牲を払う殉教者のような面持ちで、厳かに頷いた。

「日本の文学の未来のため、そして、家主殿の熱意に免じて。この大役、引き受けさせていただきます」

その大袈裟な物言いに、傍らで聞いていた雛子の肩が、くすりと小さく震えたのを、興奮しておる家主は気づかなかった。

こうして、落合雁之助の、あまりに高尚なる訳述作業が幕を開けた。彼はまだ、己れの前に横たわるのが、栄光へと続く道ではなく、胃の腑の痛みと混乱に満ちた、とてつもなく滑稽な茨の道であることを、知る由もなかったのである。

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