第2話 十年ぶりの再会
昼を過ぎた街の空気は、喧騒と熱気に包まれていた。
表通りを行き交う人々の声が混ざり合い、遠くの魔力塔から響く一定の振動音が、路面に微かに伝わってくる。
魔鉱石を燃料とする〈魔力炉〉は、この都市のすべての灯と水を支える心臓だった。
だが、そのすべてから一歩だけ距離を置いた裏通りには、まるで、時間そのものが沈殿しているようだった。
ケイゴは、その小さな静寂に包まれた通りをひとり歩いていた。
ふと、視界の端にひっかかるものがあった。
古びた木製の看板。長く風雨にさらされたその表面には、かろうじて読める文字が刻まれている。
《三日月酒店》
木扉の表面には手入れの跡はなく、蝶番は錆び、開ければ軋むのが目に見えていた。
扉を押すと、ちりん、と鈴の音が鳴り、外気とはまるで違うひんやりとした空気がケイゴの肌を包む。
天井には魔光石を用いた常夜灯が吊られており、淡く脈打つ青白い光が瓶の影を長く落としていた。
室内は静かだった。棚にずらりと並ぶ瓶たちは、その一本一本が物語を宿しているような佇まいを見せていた。その中で、異様な気配を放つ一本が、彼の視線を引き寄せた。
分厚いガラスに封じられた深紅の液体。どの酒とも違う、沈んだ色味は、まるで光そのものを飲み込んでいるかのように思えた。
ケイゴの足が、無意識のうちに止まる。
瓶のラベルに記された名前が、彼の記憶を揺らす。
『魔王の涙』
言葉の意味が、感情よりも先に脳へ届く。視界が一瞬、涙に滲んだように揺れた。
──まさか。
存在だけが囁かれていた幻の酒。誰も本物を見たことがなく、語れる者もいない。魔王ですら、それを口にすれば涙すると言われた、その酒が。
まさに今、目の前にある。
ケイゴの手が、無意識のうちに瓶へと伸びていた。
指先が冷たい表面に触れる。だが、その目の奥には、微かな記憶と感情が揺れていた。
「──運がいいね」
背後から、静かな声が落ちてきた。
ケイゴが振り返ると、カウンターの奥に老いた男が立っていた。腰が曲がっているわけではない。背筋はぴんと伸び、目の奥に不思議な強さがある。
「売っているのか?」
ケイゴの声は低かったが、どこか試すような響きが含まれていた。
店主はゆっくりと頷いた。
「もちろん。ただし、値は張るよ」
「いくらだ」
「300万エビス」
その数字を聞いた瞬間、空気が一瞬だけ止まったように感じられた。
……沈黙。
一般兵士の年収が400万エビスと言われるなか、その額はまさに目が眩むほどだった。
「……冗談だろ?」
ケイゴの声に含まれた苦笑は、明らかに本気を疑っていた。
だが店主はわずかに眉を持ち上げただけで、淡々と続けた。
「いや、本気さ。それがこの酒の値打ちだよ。つい先日、奇跡的に1本だけ入荷できたんだ。これを逃したら、もう次はないだろうね」
ケイゴは瓶から目を離さない。視線の奥に、何かを追いかけるような微かな熱が宿っていた。
「……これをくれ」
声に出る前から、心はすでに決まっていた。
ケイゴは革袋を開き、札束を三つ、無造作に取り出してカウンターへ置く。
店主は落ち着いた手つきで金を受け取ると、『魔王の涙』をケイゴの方へ差し出した。
『魔王の涙』へと伸ばしたケイゴの手が、少し震えていた。
ケイゴは手にした『魔王の涙』をまじまじと見つめる。
「……最後にいいものが手に入ったよ」
それは誰に向けたわけでもない。だが、その言葉には、彼の奥底に沈んでいた何かが滲んでいた。
店主が目を細める。
「どこかに行くのかい?」
ケイゴはわずかに笑った。だがその笑みには、遠い場所を見るような色が差していた。
「ああ、ちょっと遠くにね」
「そうか。じゃあ、その酒は道連れにちょうどいいかもしれないね」
「……そうだな」
ケイゴは扉を押した。昼の光が肩に差し込む。外の通りは、変わらぬ日常を続けていた。
ただ、風が──少しだけ、涼しくなっていた。
* * *
ケイゴが店を出て数歩歩いたところで、視界の端に何かがよぎった。
足が、自然と止まる。
石畳の向こう。空気を裂くように、乾いた靴音が近づいてくる。
かかとが高く鳴るその歩調には、躊躇も迷いもなかった。
長く流れる黒髪。肩から裾へと波のように揺れるワインレッドのロングドレスが、歩を進めるたびに柔らかな布擦れの音を響かせ、周囲の空気を静かに緊張させる。
通りを行き交う男たちの視線が、次々と彼女に引き寄せられていった。息を呑む者、足を止める者、連れの声にも気づかず見惚れる者──その美貌と気配は、人々の意識をさらっていく。
だが、ケイゴの視線だけは違っていた。他の男たちのそれとは異なる何かに突き動かされるようにして、彼の目は自然と、その女を追っていた。
「……マオ?」
思わずこぼれた名前は、確信というより、記憶の奥底をかすめるような響きを持っていた。
女の足取りが、ほんのわずかに緩んだ。
それは、気づいたという証だ。だが彼女は決してこちらを見なかった。
顔をそらすのではなく、初めから視線を交える気すらない。
拒絶。それも、徹底的な。
ケイゴは、片手を軽く上げて彼女の背に向かって数歩追いすがる。
「いやいやいや、マオ、マオだろ? 元魔王のマオさんですよね?」
肩が、ぴくりと震えた。だが、振り向かない。
歩調も変わらず、ただ確かな意志だけが背中に見える。
ケイゴは苦笑しながら、歩幅を合わせて横に並ぶ。
「……マオマオ?」
冗談のように口をついたその瞬間だった。
風が、鋭く裂けた。
マオの身体が音もなく跳ねる。
空気すら切り裂いたかのように、一瞬で加速したその動きは、視認すら困難だった。
ケイゴの視界が揺れる。
次の瞬間、黒革のブーツが、視界を裂くように横切った。
反射的に仰け反った頭の鼻先を、風圧だけがかすめる。
ほんの数センチ。あと少しでも遅れていれば──。
マオの瞳が、氷のように冷ややかにケイゴを射抜いた。
「私をマオマオと呼ぶな。殺すぞ」
その声には感情の波がなかった。だが、それが逆に本気を物語っていた。
ケイゴは両手のひらを見せるようにして肩をすくめる。
笑みを浮かべながらも、どこかに懐かしさを滲ませていた。
「やっぱマオじゃん。久しぶりだな。10年ぶりか?」
その言葉に、マオは数秒沈黙する。
目を伏せることなく、まぶたを一度だけ静かに閉じて、吐息とともに開いた。
「お前なんぞに会いたくはなかった」
言葉は冷たかったが、ケイゴはその冷たさに懐かしさを覚えて、思わずほくそ笑んだ。
「十年ぶりの再会だぞ? ちょっとぐらい懐かしんでくれてもいいじゃん」
マオは口元にごく薄い笑みを浮かべた。
「懐かしい? そういう感傷的なやつは、お前ら人間同士だけでやっていろ」
ケイゴは小さく首をかしげながら、彼女の髪に目をやった。
「でも、その黒髪……似合ってるよ」
その言葉に、マオの眉がほんのわずかに動いた。さっきよりさらに冷ややかな返答が返る。
「やはり殺されたいらしいな。貴様に魔力を封印されて、こうなったのだぞ」
ケイゴはくすりと笑いながら、左手首にある腕輪を軽く持ち上げた。
「それは俺じゃなくて、お前の魔力を封印したこの腕輪に言ってくれ。俺はそんな副作用があるとは知らなかったんだから」
マオは一瞥を送り、鼻を鳴らす。
「まあ、その腕輪に私の魔力を封印したおかげで……お前はこの十年、重力十倍の呪いに苦しんでいたわけだから。多少は、いい気味ではあるな」
ケイゴはわざとらしく肩をぐるりと回す。
「おかげさまでな」
マオはケイゴの顔を一度だけまっすぐ見て、ふいと視線を外す。
通りすがりのような足取りで、静かに彼の脇をすり抜ける。
「フン、お前にかまっている時間はない。邪魔だ」
そのまま、ケイゴが出てきたばかりの《三日月酒店》の扉を押し、無言で中へ入っていく。
鈴が、ひとつだけ寂しく鳴った。
ケイゴは目を細め、店の中へ消えていく背中を見送った。ぽつりと呟く。
「……生きてたか」
* * *
鈴の音が鳴り終わると、マオが静かに店内へと足を踏み入れた。
《三日月酒店》
棚にずらりと並ぶ酒瓶。
薄暗い室内には、時間の層が幾重にも積もっていた。だがその空気の奥には、微かに漂うものがあった。
酒精と、魔力の発酵臭。
マオの鼻孔がわずかに動く。──悪くない。品質は確かだ。
彼女は無言で棚の中段へと視線を滑らせた。
探していたのは、たった一本の酒。
『魔王の涙』
最初にその名を耳にしたときは、くだらないと思った。
誰がつけたのかも分からない、過剰なまでの呼び名。
だが、調べるほどに明らかになった。
これはただの酒ではない。
かつて一口だけ、偶然それを口にしたことがあった。
意味もなく涙が流れ、理由もなく胸が軋んだ。
説明のつかない感情が、胸の奥から静かにこみ上げた。
──あれは確かに、心を揺さぶる“何か”だった。
だからこそ、追い求めた。
だからこそ、この店にその酒があると知ったとき、彼女は迷わず足を運んだ。
棚の中段、下段、棚上まで。
視線がひとつずつ確認していく。
──だが、ない。
どこにも、あの深紅の瓶は見当たらなかった。
棚を一巡しても、目当てのものが見つからないことに、マオは立ち止まった。
その姿に迷いはなかった。だが、店内の空気は緊張の糸のように張り詰めていく。
視線をカウンターへ向ける。
店主は背中を向け、帳簿か何かをいじっていたが、マオの気配に気づいたのか、肩がわずかに跳ねた。
ゆっくりと顔を向ける彼に、マオは一歩だけ歩み寄る。
その距離は、ただの客としては明らかに“近い”。
「……魔王の涙は、どこにある」
その声は低く、鋭く、抑えた刃のようだった。
怒鳴り声ではない。だが、怒気はすでに沈殿している。問うというより、追い詰めるという響き。
店主の口元がひくりと動いた。
目を逸らし、額に滲む汗を袖で拭いながら答えようとするが、声が出るまでに数秒の沈黙を要した。
「あ、あれは……もう……」
言葉が濁る。嘘をついているのではない。ただ、事実を告げるには覚悟がいる――そんな空気だった。
マオは無表情のまま、さらに一歩、距離を詰めた。
「売ったのか?」
「は……はい。ほんの、数分前に」
「誰に?」
そこには“詰問”という言葉がよく似合った。
声量は変わらない。だが、店内の空気は目に見えて冷たくなっていた。
店主は喉を鳴らしながら、震える手でカウンターを押さえた。
「黒髪の男の方でした。少し背が高めで……その……今、店を出たばかりの……」
その説明を最後まで聞く必要はなかった。
マオの脳裏に、ついさきほどの男の姿が浮かび上がる。
まさか、よりによって──あの男、ケイゴの手に渡ったとは。
あの男が“それ”を手にしたという事実に、マオの中の何かが、静かに軋んだ。
沈黙の中、空気がひときわ重くなった。
マオの目がわずかに細められる。
怒りが、思考ではなく本能の奥底から、静かに湧き上がってくる。
皮膚の表面から、抑えようのない気配が滲み出す。
魔力は封印されていてもなお、彼女の内側からあふれる“覇気”が、空間の密度を変えていく。
店主の喉がごくりと鳴った音が、やけに大きく響いた。
マオは静かに踵を返す。
表情には一切の感情がない。だが、内側では熱が爆ぜている。
扉の前で、短く吐息を漏らした。
「さすがは元勇者。十年経っても、私を怒らせるのが得意だな」
そう言って、静かに扉を開いた。
鈴が鳴り終わったとき、店主はようやく息を吐いた。
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