第四十八話 帰還
第1階層に存在する転移の間。
そこは、通常の探索ルートからは巧妙に隠された古代文明の遺した部屋だった。
翔は、その静寂に満ちた小部屋から、再び見慣れたダンジョンの通路へとヴィシュヌを歩ませる。
先程までの死闘が嘘のような、穏やかな第1階層の空気。
時折遠くから聞こえてくる、下級モンスターの鳴き声さえ、今はどこか懐かしく感じられた。
金属とコンクリートで固められた巨大なゲートが、視界の先に現れる。
地上への出口だ。
翔は、僅かな駆動音と共にヴィシュヌの頭部装甲を展開させ、コクピットを外気に晒した。
ひんやりとしたダンジョンの空気が、火照った頬を撫でる。
生還したのだという実感が、ようやく全身に染み渡っていく。
重々しい音を立ててゲートが開かれると、その向こうに、夜明けの光よりも待ち望んだ二人の姿があった。
「翔ちゃん!」
「ショウ」
ゲートのすぐ側で待機していた律子とルナが、ヴィシュヌの姿を認めて駆け寄ってくる。
二人の顔には、隠しようのない安堵の色が浮かんでいた。
律子は翔の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。
「よかった……! 本当に、無事だったのね!」
だが、その笑顔は、次の瞬間には凍りついた。
彼女の視線が、翔の顔から、ヴィシュヌの全身へと移ったからだ。
蛇に噛み砕かれ、無惨に垂れ下がった左副腕。
そして、コクピットのすぐ横を深々と抉る、おぞましい爪痕。
それは、ただの傷ではなかった。
一歩間違えれば、パイロットの命を奪っていたであろう、致命的な損傷だった。
「な……に、これ……」
律子の顔から、サッと血の気が引く。
彼女の目は、まるで我が子が傷つけられたのを見るかのように怒りと悲しみに見開かれていた。
ヴィシュヌを牽引用のバギーに接続し終え、翔がよろよろとコクピットから降り立つ。
地面に足がついた瞬間、溜まっていた疲労が一気に噴き出し、思わず膝が折れそうになった。
その体を、駆け寄ってきた律子が力強く支える。
「……っ!」
しかし、彼女は何も言わなかった。
ただ、その肩は小刻みに震えている。
翔が顔を上げると、律子は唇を強く噛み締め、その大きな瞳に涙をいっぱいに溜めていた。
「本当に……心配したんだから……!」
絞り出すような声だった。
「なんであんな無茶したの!? ちょっと! 死んじゃったらどうするつもりだったのよ!? 機体のデータなんてどうでもいい! あなたの安全が、一番なのよ!」
堰を切ったように溢れ出した言葉は、叱責であり、同時に悲痛な叫びだった。
それは、自分の開発した兵器が傷ついたことへの怒りではない。
ただひたすらに、翔という一人の人間の身を案じる偽りのない心からの言葉だった。
いつも飄々として、悪戯っぽく笑っている彼女の初めて見る姿。
自分のために、本気で怒り、涙を流してくれる仲間がここにいる。
その事実が、消耗しきった翔の心に、温かく、そして少しだけ痛く突き刺さった。
「……ごめん」
自然と、頭が下がっていた。
言い訳も、理屈もなかった。
ただ、心配をかけてしまったことへの、素直な謝罪の言葉だった。
「……本当に、ごめん。ありがとう」
その言葉に、律子はぐっと息を呑み、溢れそうな涙を乱暴に手の甲で拭った。
隣に立つルナが、静かに翔の肩に手を置く。
その小さな手の温もりが、今は何よりも心強かった。
短い休憩の後、翔たちはダンジョン入口に併設された、JGDSA(日本政府ダンジョン調査局)の分室へと向かっていた。
ヴィシュヌの修理と翔の休息も急務だったが、それ以上に、報告すべき義務があった。
ダンジョン内で起きていた、公式記録とはかけ離れた異常事態について。
応対したのは、いかにも事務方といった雰囲気の、細身の男性職員だった。
彼は、探索を終えたばかりで疲労の色が濃い翔たちを一瞥すると、手元の端末を操作しながら、事務的な口調で問いかける。
「お疲れ様です。本日の探索結果の報告ですね。到達階層と、特記事項があればお願いします」
「第15階層まで到達した」
翔が単刀直入に告げると、職員の指がピタリと止まった。
彼は訝しげに顔を上げ、翔の顔とその後ろに立つ律子たちを見比べる。
第15階層。
それは、トップクラスの探索者パーティーが、数日がかりでようやく到達する中層だ。
それを、たった半日で往復してきたというのか。
「……冗談はよしてください。正確な情報を」
「冗談じゃない。そこで、未確認のモンスターと交戦した」
翔は職員の懐疑的な視線を真っ直ぐに受け止め、続けた。
「本来なら、さらに下の階層……おそらく、深層級(アンダー)に分類されるべき魔物だ。名は、キメラ」
「キメラ……ですって?」
職員は、眉をひそめた。
その名は、JGDSAのデータベースにも存在する。
だが、それはあくまで最深部での目撃情報が噂レベルで存在するだけの、A級危険指定個体を遥かに超える神話級の魔物。
そんなものが、たかが第15階層にいるはずがなかった。
「……失礼ですが、何かの見間違いでは? 第15階層の生態系は安定しており、オークリーダーが最上位個体であることが確認されています。それが、公式記録です」
職員の口調には、明らかな侮りが含まれていた。
疲労による幻覚か、あるいは功を焦った若者の虚言の類だろうと。
翔は、それ以上言葉を重ねることをやめた。
代わりに背負っていたバックパックから、厳重に緩衝材で包んだ一つの塊を取り出し、カウンターの上に静かに置いた。
職員が、訝しげな顔で緩衝材を剥がす。
そして、その中身が露わになった瞬間、彼の呼吸が止まった。
「なっ……こ、これは……!」
そこに現れたのは、バスケットボールほどもある、巨大な紫色の魔石。
ただそこにあるだけで、部屋の照明を吸い込むかのように、禍々しい光を内側から放っている。
その圧倒的なまでの魔力の密度と、不吉な脈動は、職員がこれまで扱ってきたどの魔石とも、次元が違っていた。
彼は絶句し、震える指先で、魔石の純度を計測する簡易スキャナーをかざす。
ピッ、と短い電子音が鳴り、モニターに表示された数値を見て、職員の顔から完全に色が失われた。
計測不能――エラー。
それは、このスキャナーの測定上限を、魔石が遥かに振り切っていることを意味していた。
「これが、その証拠の全てです」
呆然自失とする職員の前に、律子がすっと一枚のUSBメモリを差し出した。
彼女は持参したノートPCを操作し、ヴィシュヌのメインサーバーから、先程の戦闘に関する全データを抜き出していたのだ。
「中には、当該個体――キメラとの完全な戦闘ログ。及び、第12階層から第15階層までの、詳細な環境データ、魔素濃度変化の記録が含まれています。公式記録との乖離は、ご覧になれば一目瞭然かと」
淡々と、しかし有無を言わせぬ響きを持った律子の声。
職員は、目の前の魔石と差し出されたUSBメモリを信じられないものを見るように交互に見つめた。
もし、この報告が真実ならば。
JGDSAが絶対の自信を持って管理してきたダンジョンの生態系マップは、根本から覆されることになる。
第15階層に、神話級の魔物がいた。
それは、ダンジョンの管理体制そのものが、既に崩壊している可能性を示唆する、最悪の報告だった。
職員は、もはや震えを隠すこともできず、その手でUSBメモリを受け取った。
ずしり、と。
小さな記録媒体が、国家の安全保障を揺るがす爆弾のように、重く感じられた。
「き、緊急事態……! 直ちに、上層部へ……!」
彼は、報告書の作成も忘れて席を立つと、よろめくようにして分室の奥へと走り去っていった。
その慌ただしい背中を見送りながら、翔は静かに息を吐く。
自分たちが投げ込んだ、一つの石。
それは、翔が思っていた以上の、巨大な波紋となって広がっていく。
もはや、これは妹を救うという、翔個人の戦いだけではなかった。
自分は、このダンジョン全体を巻き込む、巨大な異変という名のうねりの、まさに中心に足を踏み入れてしまったのだ。
そのことを翔は、静かに、しかしはっきりと予感していた。
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