第四十五話 実戦へ⑥
第14階層に足を踏み入れた瞬間、翔は明確な違和感に気づいた。
空気が違う。
これまでの階層に満ちていた、魔物の殺気や湿った土の匂いが、嘘のように希薄になっていたのだ。
「……静かすぎる」
コクピットに響いた翔の呟きは、彼の警戒心を代弁していた。
広域センサーのモニターに目を落とす。
本来ならば、この階層にも無数の魔物の反応が表示されるはずだった。
しかし、そこに映るのは、ほとんどノイズと見分けがつかないほど、まばらな生命反応だけ。
『律子、どう思う?』
『データ上も、異常よ。このエリアの魔物の個体数が、過去の平均データと比較して90%以上減少しているわ。まるで……ゴーストタウンね』
ゴーストタウン。
その表現は、まさにこの場の空気を的確に捉えていた。
静まり返った石造りの通路を進む。
時折、巣穴と思しき横穴の暗がりに、何かの気配を感じることがあった。
ヴィシュヌのセンサーを向けると、そこに映し出されたのは、巣の奥で身を寄せ合い、ガタガタと震えている数匹のゴブリンの姿だった。
HUDのバイタルスキャンは、彼らの状態を冷徹に分析する。
【対象:ゴブリン】
【ステータス:極度の恐怖状態】
彼らはヴィシュヌを恐れているのではない。
もっと根源的な別の「何か」に怯え、息を殺している。
その時、翔の脳裏に郷田の言葉が蘇った。
『――下層に生息しているはずの強力なモンスターが、続々と上に上がってきている。まるで、下層で何か恐ろしいことが起きて、そこから逃げ出してくるみたいにな』
この静寂は、魔物たちが死に絶えたからではない。
この階層にいた魔物たちが、郷田の言葉通り、下の階層から上がってきた「何か」から逃げるために、上の階層へと移動してしまった結果なのではないか。
「下にいる『何か』から、逃げ出したのか……?」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
この静寂は、嵐の前の静けさだ。
自分は今、その嵐の中心へと、自ら進んで足を踏み入れようとしている。
妹を救うという目的が、焦りが、今や得体の知れない恐怖へとその貌を変え始めていた。
重苦しい沈黙の中を、どれだけ進んだだろうか。
やがて、第15階層へと続く、巨大な石門が見えてきた。
その手前の通路を、ゆっくりと曲がった、その時だった。
翔は、思わずヴィシュヌの足を止めた。
一体のオークが、通路の向こうから、よろよろとおぼつかない足取りで姿を現したのだ。
しかし、その様子は、翔が知るオークとは似ても似つかない、異様なものだった。
敵意も、闘志も感じられない。
その虚ろな目は、焦点が合っておらず、ただ虚空を彷徨っている。
そして、何よりも異常なのは、その肉体そのものだった。
頑強であるはずの緑色の皮膚には、まるで炭化したかのように黒い亀裂が無数に走り、そこから灰色の粒子がぱらぱらと剥がれ落ちている。
右腕に至っては、半分以上が崩れ落ち、風化しかけた石像のように、その形を保つのがやっとの状態だった。
「なんだ、あれは……病気か……?」
HUDが、対象の生命反応が危険なレベルまで減衰していることを示す警告を発している。
翔が事態を飲み込めずにいる、その数秒の間にも、オークの崩壊は進行していた。
オークは、ヴィシュヌの存在に気づくことさえなく、その場に膝から崩れ落ちた。
そして、まるで砂の城が波に洗われるように、その体が音もなくさらさらと崩れていく。
皮膚が、筋肉が、そして骨さえもが、その原型を失い、ただの灰色の塵へと変わっていく。
やがて、そこには人型の灰の山だけが残り、ダンジョン内の僅かな気流に吹かれて、静かに舞い上がった。
あまりにも静かで、非現実的な最期。
翔は、その光景に言葉を失い、立ち尽くす。
完全な静寂が、再び支配した。
その、耳が痛くなるほどの静寂を、突如として引き裂いた。
――GRRRRRRRRUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUU――
あのオークがやって来た通路の、さらに奥の闇から。
空気を震わせ、岩盤を揺るがすほどの、おぞましい咆哮が響き渡った。
それは、ゴブリンのものでも、オークのものでもない。
翔が今まで一度も聞いたことのない、未知なる捕食者の、飢えと憎悪に満ちた絶叫だった。
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