第三十七話 バイオマギアーマー①
「あ、その前にインナースーツに着替えてね。専用のだから」
律子はそう言って、工房の隅に無造作に置かれていたアタッシュケースをこともなげに開けた。
中から現れたのは、鈍い光沢を放つ黒一色のボディスーツ。
彼女はそれを翔に手渡した。
受け取ったスーツは、見た目の印象を裏切るほどに軽く、しなやかだった。
一見すればダイビング用のウェットスーツのようだが、その質感は全く異なる。
まるで生き物の皮を鞣したかのような滑らかさと、それでいてどこか無機質な冷たさが同居していた。
素材は極めて薄く、高い伸縮性を持っていることが触れるだけでわかる。
そして、その表面には無数の小さな銀色の端子が、まるで夜空の星々のように埋め込まれていた。
その配置はランダムではなく、人体の神経網をトレースしたかのような精緻なパターンを描いている。
端子はまるで生き物の毛細血管のように細かく張り巡らされ、指先でそっと撫でると、ピリ、と微弱な静電気が走るような不思議な感触があった。
「あの、着替えるって……まさか、ここで?」
翔はインナースーツと、油と金属の匂いが充満する工房、そして目の前に立つ二人の女性を交互に見比べた。
言葉を発した瞬間、律子の唇の端が楽しそうに吊り上がるのが見え、ルナは表情こそ変えないものの、その静かな視線が「当然でしょう」と語っているように感じられた。
翔は慌てて口をつぐむ。
この狂気の祭典の真っ只中で、プライバシーなどという常識的な概念を気にする余裕など、この二人には微塵もないらしい。
半ば諦念の境地で、翔は工房の片隅で壁に向き直り、着ていた服を脱ぎ捨ててインナースーツに袖を通した。
肌に触れた瞬間、スーツはまるで第二の皮膚のように身体に吸い付き、筋肉のわずかな凹凸にまで寸分の隙間なくフィットした。
その素材は呼吸をしているかのようで、翔の体温に瞬時に適応していく。
銀色の端子部分が皮膚に軽く食い込むような感覚があったが、不思議と痛みはなく、むしろ心地よい緊張感が全身の神経を覚醒させていくようだった。
鏡がないため自分の姿を確認することはできない。
だが、まるで裸でいるかのような究極の開放感と、逆説的に強固な何かに守られているような奇妙な安心感が混在していた。
身体の輪郭が、意識が、世界との境界線が曖昧になっていく。
「よし、それじゃあ本番といきましょうか。ルナさん、準備は?」
律子の弾んだ声に応え、ルナは工房のメインコンソールに無言で向き合い、その細い指で複雑なコマンドを打ち込んでいく。
すると、翔の目の前で静かに佇んでいた異形の巨人の全身を走る青いラインが、ひときわ強い光を放ち始めた。
心臓の鼓動のように明滅するその光に呼応し、機体を吊り下げていた幾本ものアームが滑らかに動き出す。
ギィン、と圧縮空気が抜ける重い音を立て、バイオマギアーマーの胸部装甲が観音開きに展開していく。
そこに現れたのは、機械的な配線や計器類が並ぶ無骨なコクピットではなかった。
まるで巨大な生物の体内を思わせる、柔らかな曲線で構成された空間。
壁面はクッションのように弾力性があり、ゲル状の半透明な物質が内部の照明を反射して、淡く、妖しく光っている。
翔はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めてその胎内へと足を踏み入れた。
背中を預けると、まるでオーダーメイドで作られたかのように身体がぴったりと収まる。
足が所定の位置に置かれると、カシャリ、という音と共に自動的に固定された。
翔が収まったのを確認すると、胸部装甲が再び閉じていく。
外界の光が遮断され、完全な闇が訪れたのも束の間、内部の青い照明が点灯し、彼の顔をぼんやりと照らし出した。
その瞬間、装着プロセスが開始された。
それは、翔が想像していた機械的な「装着」とは、概念からして異なっていた。
これは、生物的な「融合」と呼ぶべき儀式だった。
まず、壁面の至る所からゲル状の緩衝材が噴出し、彼の身体を優しく、しかし抗いがたい力で包み込んでいく。
液体と固体の間のような奇妙な質感のゲルは、まるで意思を持っているかのように隙間なく身体を満たし、皮膚に染み込むように広がっていった。
それがインナースーツに触れた瞬間、全身の銀色の端子が活性化するのを感じる。
チク、チク、チク……。
無数の針が同時に皮膚を刺すような、それでいて痛みとは違う微細な刺激が全身を駆け巡った。
端子が皮膚の表面を突破し、まるで植物が大地に根を張るように、神経の末端へと接続していく感覚。
翔は思わず息を詰め、全身を強張らせた。
「大丈夫よ、翔ちゃん。深呼吸して、リラックスして。ルナさんの世界の生体親和技術だから、拒絶反応なんて起きないわ。身体の力を抜いて、機体に身を委ねるの」
律子の声が外部から聞こえていたが、それは徐々に頭の中に直接響くように変わっていく。
機体の内部スピーカーと脳が直接リンクしていく過程なのだろう。
次に、ゲルに含まれていた無数のナノマシンが一斉に活性化し、血流に乗って体内を巡り始めるのが、感覚として理解できた。
それはもはや比喩ではない。
自分の血管の中を、膨大な数の微小な機械が駆け巡り、脳へと到達していく。
そして、神経細胞の一つ一つに直接接続されていく。
その瞬間、脳内に情報が流れ込んできた。
それは言葉や映像ではない。
知識と経験そのものが、濁流となって意識に叩きつけられる、純粋な情報の奔流だった。
機体の正式名称『"ヴィシュヌ"』。
魔力循環経路の最適化理論。
背部副腕の兵装展開シークエンス。
逆関節脚部による三次元機動の物理演算データ……。
それらが、まるで自分が生まれながらに知っていたかのように、思考の根幹に直接刻み込まれていく。
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