第三十話 希望②

 静寂が戻った病室で、希望と重圧が入り混じった空気が翔の肩にのしかかっていた。


 自分の力が妹を救う鍵になる。


 その事実は、暗闇に差し込んだ一条の光であると同時に、失敗の許されない責務を彼に課していた。


「まずは、エネルギー源となる『高純度の魔石』が必要。普通の魔石では魔力が足りないし、何より不純物が多すぎて彼女の身体が拒絶反応を起こすわ。幸い、あなたのバックパックに、奇跡のようなおあつらえ向きのものがまだ残っている」


 ルナの言葉に、翔ははっと息を呑んだ。


 彼女が指し示したのは、バックパックの奥底で雑多なドロップアイテムとは一線を画す、ひときわ強い輝きを放つ魔石だった。


 鶏卵ほどの大きさのそれは、不規則な多面体でありながら、まるで内部に銀河を宿しているかのように、無数の光の粒子が明滅を繰り返している。


 薄暗いダンジョンの古代遺跡を思わせる広間で対峙した蜘蛛型のゴーレム達からの戦利品。

 その魔石が、まるで心臓のように力強い光を放っていた。


 まさかこれが換金できるだけでなく、こんな形で美咲の命を繋ぐことになるとは夢にも思っていなかった。

 

「これを砕いて魔力を解放するわ」

 

 ルナは翔から魔石を受け取ると、静かに告げた。

 

「でも、注意して。解放される魔力はあまりに膨大で、そして荒々しい。術者であるあなた自身がその奔流を取り込んでしまわないよう、まずは自身の体表に魔力を鎧のように薄く纏って、防御壁を作ってちょうだい」


「……防御壁……」

 

 翔はゴクリと唾を飲み込んだ。

 

 言われるがまま、彼は両目を閉じ、意識を自身の内側へと集中させる。

 体内に流れる魔力の流れ。

 それは色もなければ、熱も冷たさもない、ただ純粋なエネルギーの川。


 その流れを、皮膚の表面へと意識的に導いていく。


 最初はうまくいかなかった。

 体の内側を巡ることに慣れきった魔力が、外へ出ようとしない。


 だが、ベッドで眠る美咲の浅い呼吸の音が、彼の集中力を極限まで高めた。

 

(俺がやるんだ。俺しかいないんだ)

 

 強い意志が、魔力の流れを操る。

 やがて、翔の全身が、まるで月光を浴びたかのように淡い光の膜で静かにコーティングされていった。


 それは目に見えるか見えないかというほどの薄い光だったが、彼の肌を外界から隔てる、確かな一枚のヴェールとなっていた。


「上出来よ」


 ルナが満足げに頷く。


 「準備ができたら、その防御の魔力を維持したまま、魔石に手をかざし、その内側へと魔力を注ぎ込むの。あなたの魔力を起点にして、魔石を内部から破壊するイメージで」


 言われた通り、翔は防御膜を維持することに意識の半分を割きながら、右手をそっとルナの持つ魔石の上にかざした。

 そして、残る半分の意識で、指先から細く鋭い魔力の糸を紡ぎ出し、魔石の中心へと送り込む。

 

 ひんやりとした魔石の表面から、内部に渦巻く途方もないエネルギーの脈動が伝わってくる。

 心臓が早鐘を打ち、額に汗が滲む。


 次の瞬間、キィン、と甲高い金属音が病室に響き渡った。

 

 翔が注ぎ込んだ魔力が引き金となり、魔石の内部で力の均衡が崩れたのだ。

 魔石の表面に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、そこから眩い光が迸る。


「――ッ!」


 翔が目を見開いた直後、魔石は音もなく砕け散った。

 

 凝縮されていた純粋な魔力のエネルギーが、もはや光というよりも質感を伴った粒子の奔流となって、病室全体に満ち溢れる。

 それは暴力的なまでに美しく、一つ一つの粒子がダイヤモンドダストのように煌めきながら、無軌道に飛び交っていた。


 重苦しかった病室の空気が一変し、まるで小さな星雲がこの閉鎖された空間に生まれたかのようだった。


「翔、今よ! あなたの力で魔力に干渉して! 私がそれを美咲ちゃんに届ける!」

 

 ルナの鋭い声が、光の渦の中で呆然としていた翔の意識を現実に引き戻した。

 

 そうだ、まだ何も終わっていない。

 ここからが本番だ。

 

 翔は力強く頷くと、両手を大きく広げた。

 そして、防御壁とは違う、自身の本質たる「無属性」の魔力を、湖に波紋が広がるように周囲へと展開させていく。


 荒々しく飛び交っていた光の粒子が、翔の無属性の魔力に触れた瞬間、その性質が劇的に変化していくのが肌で感じられた。

 まるで強力な磁石が砂鉄だけを引き寄せるように、エネルギーに含まれていた微細な不純物や荒ぶる性質が、翔の魔力に吸着し、濾し取られていく。


 暴れ馬が熟練の乗り手に手懐けられるように、危険な輝きは鳴りを潜め、穏やかで清浄な、生命そのものを祝福するような温かい光へと変質していく。


 翔は、自分の身体そのものが、巨大なエネルギーを浄化する「触媒」あるいは「フィルター」として機能しているのを魂のレベルで理解した。


 これが、落ちこぼれの「無属性」が持つ、本当の力。

 何の色にも染まっていないからこそ、あらゆるエネルギーを汚すことなく、その本質に影響を与えられる。


 それと寸分違わぬタイミングで、ルナが一歩前に進み出た。

 彼女は眠る美咲の傍らに立つと、両手を胸の前へと静かにかざす。

 

 彼女の白い両の手のひらの間に、清らかな水色の光が蛍のように灯った。

 その光は、みるみるうちに勢いを増し、渦を巻き始める。

 反時計回りに回転する水の魔力は、やがて漏斗のような美しい形状の渦を形成した。


 ルナが巧みに操る水属性の魔力の渦は、翔によって純化された生命エネルギーだけを的確に引き寄せ、磁力に引かれる砂鉄のように吸い寄せていく。

 清浄な光の粒子は、その優雅な渦に導かれ、さらに密度を高めながら集束していく。


 そして、渦の先端が、そっと美咲の小さな胸の上へと向けられた。

 

 変換され、集束された魔力が渦を通して、まるで長い日照りに苦しんだ乾いた大地に、清らかな川の水が豊かに流れ込むように、穏やかかつ絶え間なく美咲の身体へと注ぎ込まれていく。


 その瞬間、奇跡は目に見える形で起こり始めた。

 生命維持装置のディスプレイに表示されていた、警告を示す黄色のランプが、一つ、また一つと、安定を示す穏やかな緑の光へと変わっていく。

 

 不規則に鳴り響いていた警告音が止み、代わりに心拍を示す規則正しい電子音が、病室に安らかなリズムを刻み始めた。


 翔は、瞬きも忘れてその光景を見つめていた。

 

 美咲の青白く、まるで死人のようだった頬に、みるみるうちに温かい血の気が戻ってくるのが分かった。

 紙のように白かった唇が、微かに桜色を帯びていく。


 浅く、途切れがちで、聞いているこちらの胸が苦しくなるようだった呼吸は、いつしかすうすうと深く穏やかな寝息へと変わっていた。

 

 苦痛に歪んでいた眉間のしわが消え、その表情はまるで長い悪夢からようやく解放されたかのようにただただ安らかだった。


 その確かな「生」の兆し。

 命が、すぐ目の前で再び力強く燃え盛るのを目の当たりにして、翔の目から、一筋の熱い雫がこぼれ落ちた。

 

 頬を伝うその感覚に、彼自身が驚く。


 それは、もう何度も流してきた絶望や悲しみの涙ではなかった。


 自分は無力だという呪いのような苛みに、何年も苛まれ続けた。


 何もできず、ただ妹の弱っていく手を握ることしかできなかった彼が、初めて自らの手で妹の命を繋ぎとめた。

 

 その確かな実感から来る、魂の奥底からの安堵と、沸き上がるような歓喜の涙だった。


 翔はゆっくりと美咲のベッドに近づき、その小さな手をそっと握りしめた。

 先ほどまでの、ぞっとするような冷たさはない。

 そこには、紛れもない人間の温もりがあった。


 その温もりが、彼の心に凍りついていた長年の絶望を、じんわりと溶かしていく。


 だが、感傷に浸っている時間はなかった。

 これは、あくまで延命治療。

 根本的な解決ではない。

 

 翔は涙の跡が残る顔を上げ、静かに燃える決意の炎を目に宿して、一連の作業を終えて静かに佇むルナへと向き直った。


「ルナ」

 

 翔は、自分でも驚くほど揺るぎない声で、彼女の名を呼んだ。

 

「その『ダンジョンコア』という素材、どこのダンジョンにでもあるのか? 俺は、どんな危険な場所へでも行く」


 その声には、以前のような助けを乞う懇願や、先が見えない焦りの色は一切なかった。

 ただひたすらに、愛する妹を救うという一点だけを見据えた、一人の男の覚悟が込められていた。


 ルナは、彼の瞳に宿った炎の色を真っ直ぐに受け止め、静かに、そして重々しく頷いた。

 

「確実な場所は、この世界の誰にも分からないわ。でも、可能性が最も高い場所なら推測できる。それは、未だ誰も最下層に到達した者がいないダンジョン……その心臓部。ダンジョンが自らを維持するために生み出した、力の源泉そのものだから」


 ルナの言葉は、これから翔が進むべき道が、想像を絶するほど険しいものであることを示唆していた。


 日本最強と呼ばれる”炎帝”赤城煉ですら到達できない、未知の領域。

 そこには、どれほどの化け物が跋扈し、どれほどの死地が待ち受けているのか、誰にも分からない。


 しかし、翔の心は微塵も揺らがなかった。

 むしろ、進むべき道が明確になったことで、彼の心は鋼のように固まっていた。


 ダンジョン深層への到達。

 そして「ダンジョンコア」の入手。


 それが、美咲を救うための、唯一の道。

 

 絶望の淵で立ち尽くしていた青年の長く険しい旅の目標が今、この瞬間に定まったのだった。

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