第十話 深淵に眠る者②
どれくらいの時間、歩き続けたのだろうか。
一定間隔で続く光のラインは景色に何の変化ももたらさず、時間の感覚はとうに麻痺していた。
ただ己の荒い息遣いと、引きずる足音、そして心臓の鼓動と共鳴する脇腹の鈍痛だけが、時間の経過を証明している。
体感では数十分に感じられたが、実際には数時間が経過しているのかもしれない。
やがて、単調だった一本道は不意にその壁を失い、視界が大きく開けた。
翔は、巨大なドーム状の部屋にたどり着いたのだ。
そこは、どこぞの大聖堂を思わせるほどに広大で、ドーム型の天井は遥か高く、この施設の放つ青白い光さえ届かぬ闇に溶けて、その頂を見通すことはできなかった。
まるで、人工の星空を内包したプラネタリウムのようだ。
空気がひやりと澄み渡り、彼の吐く息が白く染まった。
壁面を血管のように走っていた無数の光のラインが、まるで大河の流れが一本の湖に注ぎ込むように、この部屋の中央へと収束していた。
光の奔流が渦を巻き、神秘的なエネルギーの溜まり場を形成している。
その奔流の中心に、それは静かに鎮座していた。
一つのカプセル。
この施設を構成する黒曜石のような艶を持つ未知の金属で作られた、美しくも冷たい流線形の装置。
まるで巨大な黒い種子のような有機的にも感じるフォルムをしていた。
その表面には、複雑怪奇な幾何学模様の文字が刻まれている。
それはまるで心臓が鼓動するかのように、ゆっくりとした荘厳なリズムで青白く明滅を繰り返していた。
この機械が、生きているのだと主張するように。
それは幼いころSF映画で見た、コールドスリープ・ポッドのように見えた。
「……嘘だろ……」
声にならない声が、乾ききった唇からか細く漏れた。
モンスターが闊歩する剣と魔法のダンジョンの中に、こんな超科学の産物が存在するなど、誰が信じるだろう。
学会に報告すれば、世界の歴史観が根底からひっくり返るほどの大発見だ。
富と名声が、一瞬で手に入るだろう。
だが、今の傷つき疲弊した翔にとって、それは学術的な興味の対象ではなかった。
ただ、得体の知れない、畏怖と不安の対象でしかなかった。
だが、それでも、気になる。
抗いがたい引力があった。
翔は、まるで何かに引き寄せられるかのように、痛む体を忘れ、恐る恐るそのポッドへと近づいていった。
一歩、また一歩と。巨大なドームに、彼の足音だけが寂しく響く。
そして、ポッドの上部にはめ込まれた、寸分の曇りもない透明なキャノピー越しに、その「中身」を視界に捉えた瞬間――彼の思考は、高熱に浮かされたように、完全に停止した。
――中で眠っていたのは、一人の少女だった。
雪のように、という陳腐な比喩では足りないほどに白い肌。
血の色を感じさせない、精巧な磁器のような肌。
月光を溶かし、銀河の星屑を振りかけたかのように輝く腰まで届く銀色の長い髪がふわりと広がっている。
薄いシルクのように見える、簡素だが気品のある白い衣服をその身に纏い、まるで苦しみのない永遠の夢を見ているかのように、安らかな表情で眠っている。
歳は、高校生くらいに見える。
泥と血と汗にまみれ、あちこちが破れたボロボロの戦闘服を纏った自分の姿とは、あまりにも対極に位置する、完璧な存在。
およそこの殺伐としたダンジョンとは不釣り合いな、神々しいまでの美しさ。
翔は、それがこの世の存在ではないかのように、ただ呆然と、その光景に見入っていた。
彼女は誰なのか。
なぜ、こんな場所で眠っているのか。
数多の疑問が頭をよぎるが、それ以上に目の前の光景が持つ非現実的なまでの美しさに、翔は魂を奪われていた。
それは、痛みも、渇きも、恐怖や警戒心さえも麻痺させる、絶対的な美だった。
まるで、見えざる糸に手繰られるかのように、彼は無意識に右手を伸ばしていた。
泥に汚れた自分の指先が、この神聖なものに触れることへの躊躇いさえも、意識の彼方に消えていた。
そして、その指先が、ポッドのひやりと冷たい表面に、そっと触れた。
――その、瞬間だった。
翔の手が触れた一点から、青白い光の波紋が、静かな水面に石を投げ入れたかのように幾重にも同心円状に広がった。
ポッド全体が「ヴォン」という、地鳴りのような、それでいて厳かな起動音を立てて、その輝きを増す。
表面でゆったりと明滅していた未知の言語が高速で明滅を繰り返し、まるで生き物のように蠢きながら、目まぐるしくその形を変えていく。
そして、数秒後。
その光の奔流は収束し、翔が読める言語――くっきりと見慣れたゴシック体の日本語で、文字がディスプレイに表示された。
『適合者を確認。魔力パターン照合……クリア。認証シーケンスを起動します』
「適合者……?」
その言葉が、静まり返ったドームの中で、翔の頭の中に木霊する。
俺が?
無属性で、ギルドの計測器にすらまともに反応せず、誰からも「持たざる者」と蔑まれてきたこの俺が、適合者? どういう意味だ?
何かの間違いではないのか。
彼の魔力は、属性を持たない。
それは無能と同義だった。
どんな遺物やアーティファクトも、彼の前ではただのガラクタのはずだった。
それなのに、この正体不明の超技術遺物は、明確に翔を「適合者」と認識している。
翔が混乱の渦中にいる間にも、事態は彼の意思を無視して、無慈悲に進行していく。
プシューッ、という圧縮された空気が抜けるような、鋭くも澄んだ音。
ポッドの透明なキャノピーが、一切の抵抗なく、滑るようにしてゆっくりと上方にスライドしていく。
内部から、純白の冷気が滝のように流れ出し、翔の体を包み込んだ。
それはただ冷たいだけではない。
幾星霜の時を凝縮したかのような、太古の冷気だった。
あまりの冷たさに、一瞬呼吸が止まる。
その冷気の中で眠っていた少女の、霜で白く縁取られた長い銀のまつ毛が、ピクリ、と微かに震えた。
永遠に等しい時の氷が、融解を始める合図だった。
そして、長い年月の間、閉ざされていたであろう彼女の瞼が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、開かれていく。
現れたのは、サファイアのように深く、そしてどこまでも透き通った蒼色の瞳だった。
生まれたての星のように純粋で、同時に全てを見通すかのように賢い光を宿している。
その瞳は、最初、戸惑いや混乱の色を浮かべていた。
だがやがて、目の前に立つ翔の姿を、その中心にはっきりと捉えた。
永遠にも感じられる静寂の中、少女の薄い唇がわずかに開く。
そして、鈴の音のような、しかしどこか古風で、この世の響きとは思えないほど清らかな声で、一言だけ、問いかけた。
「――ここは?」
彼女は何者なのか?
なぜ、ダンジョンの最深部で眠っていたのか?
そして何よりも、なぜ『無属性』であるはずの翔が、この装置を起動する『適合者』となったのか。
持たざる者だった少年の運命は、この深淵で目覚めた神秘の少女との出会いによって、誰も予測できない方向へと、大きく、そして確実な音を立てて動き始めていた。
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