第三回:咒

 ふとした瞬間に、心の奥底に沈んでいた記憶が、ぽつりと浮かび上がることがございます。


 あれは、いつのことだったでしょうか。

 わたくしがまだほんの幼い頃、実家の屋敷で暮らしていた頃の話でございます。


 夜半、寝間の障子越しに聞こえる虫の音や、欄間をすり抜ける風の気配が、幼い心には少しばかり怖ろしいものでございました。そのたびに、乳母であったお小夜が、わたくしの枕元で声を落とし、こう囁いてくださったものです。


 「お嬢様、探し物には柳の葉を三枚、恋の咒には枕の下に簪、仕返しのまじないには……」


 ――そこから先は、思い出せません。


 けれど、あの声の響きだけが、今なおわたくしの耳に残っております。あたたかくて、どこか湿ったような……あの声。


 まさか、今になってその続きを知りたくなるとは、あの頃のわたくしには想像もできなかったことでしょう。


 お小夜はいまや、屋敷を下り、町はずれの小さな長屋に身を寄せております。老いの身にはきつかろうと、わたくしが手配した家でございます――


 今朝、わたくしは人力車をひとつ雇い、雨のあがった路地を抜けて、表具屋の並びへと向かいました。

 濡れた土と炭の匂いがいたします。


 人力車を待たせて、長屋の戸を叩くと、しばらくして奥から


「どなたですかの?」


 というしゃがれた声。白くなった髪をキチンと結い上げ歳を取ってもキリリとした気配は健在でございました、すこし腰をかがめたお小夜が、扉の隙間からわたくしを見上げました。


「あらまあ……」


 それ以上、言葉は要りませんでした。


 薄暗い座敷で、急須の湯気が立つあいだ、わたくしは口にできる限りのことを、お小夜に打ち明けました。夫のこと、あの女のこと、そして――心に芽生えた“願い”のこと。


 お小夜は、黙って話を聞いておりました。うなずきもせず、ただ一度、深く目を伏せただけ。


 しばらくして、お小夜はぽつりと、こんなことを申しました。


「……仕返しのまじないはね、お嬢様。そんじょそこらの祈りや願掛けとは違います。使えば、戻れませんよ。」


 その言葉の重みが、胸にずしりと沈みました。

 けれど、わたくしは目を逸らしませんでした。


 すると、お小夜は、一枚の古びた布を取り出し、そっとわたくしの前に置きました。生成りの絹に、小さな花模様が縫い取られている――あれは、かつてお小夜がわたくしに仕立ててくれた襦袢の、余り布ではなかったでしょうか。


「今夜の月を過ぎたら、またおいでなさい。話すことがあります。」


 その声は、あの夜と同じ、湿った、懐かしい声でございました。


 ---


 ### 次回予告


 月が満ちるころ、白い布の上に何を縫うのか。

 細い針先が、どこの誰を刺し貫くのか。


 ふふ、奥方さま――ようやく、お覚悟ができたようで。


 おほほ、お小夜の婆ぁが、何を語るか……楽しみでございますねぇ……。


■次回更新は8月13日です

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