暗闇
「――ユツキ」
視線を戻した瞬間、彼が消えていた。
「え?」
あわてて視線をさまよわせる。開発者の男たちの顔は激痛に歪んでいる。納屋は地震のあとのように荒れている。
紫色の霧が、右斜め前だけ、ゆらめき裂けていた。防護服を脱ぎ捨てた彼の影は、その先へ駆け出していた。
「ユツキ、待って!!」
背中が、小さくなっていく。
わたしは軌道を追って走り出した。開発者たちの身体が、後ろに遠ざかる。
防護服は重く、脚はもつれた。けれど、霧毒の怖さを知るわたしは脱ぐことなどできなかった。
すでに、村中が紫の霧に覆われていた。霧はトゲバラの網を越え、工場地帯にも広がっている。
よだれを垂れ流す村人や、苦しそうにうめく村人とすれ違う。紫の霧は掻き乱され、ユツキの姿は見えなかった。わたしは混乱し、かぶりを振った。
霧の奥から、神の鳥の声が響き渡った。咽び泣くような、高笑いをするような声。
わたしは、声のする方をめがけて、紫をかき分けるようにして駆けた。
霧に包まれながら倒れ込んでいる、見慣れた人影があった。
ヒイナだ。
彼女は、身体を丸めて嘔吐していた。吐瀉物は、幻光茸に照らされぬらぬら光っている。
そばにユツキはひざまずいていた。手元に目が引き寄せられる。彼は、中和滴を胸元から取り出していた。
「ユツキ!!」
叫ぶように呼びかけても、彼は振り返らない。
男の手は、直線を描いてヒイナの腕に中和滴の針先を打ち込んだ。
「んん……」
ヒイナがかすかにうめいた。
あえでいた呼吸が落ち着きを取り戻し、震えが止まっていく。だが、瞳はうつろで、人の姿が見えているかはわからない。
ユツキは、前のめりに崩れ落ちた。わたしの手が彼に届いたのは、彼が地面を打つタイミングと同時だった。
ユツキは激しく痙攣し、喉をかきむしっている。わたしは、身をかがめ上半身を抱えあげたが、彼は毛虫のように身体をしならせて、腕の中から落ちていった。
「あいしてるヒイナ……」
彼の唇が、かすかに音をこぼした。それが最後の言葉だった。
身体が跳ね上がり、次の瞬間ぐったりと動かなくなった。
耳元で神の鳥の声がした。鳥の影は屍体をふっと横切ると、優美に翼を打った。
呆然とするわたしの頬に、冷たいものが滑り落ちる。膝ががくがくと震える。身体がばらばらに壊れてしまいそうになる。
苦しい。痛い。誰が。なんで。ルタ。お前。
いくつもの村人たちの悲鳴が押し寄せてきた。苦痛と呪詛が背中を打ちつける。振り返ると、喉を押さえ歪む顔がこちらへ向かってくる。無数の腕が、遠くからわたしを掴み取ろうとしている。
死にたくない。ああ。神の鳥よ。お願い。助けて。
わたしは、振り切るように駆け出した。森の奥へ、ただ奥へ向かって。
思考は壊れていたが、ただひとつ状況に言い訳の余地がないことだけは分かっていた。
「ルタあ!!」
村人たちの声には、わたしの名前を呼ぶヒイナの悲鳴が混じっていた。
「ルタあああ!!! 待ってえ!!! だめええ!!!!」
声は裏返りながら、耳を貫く。
だが、わたしはもう振り返ることができなかった。
目の前に、巨大な黒そのものの森があった。
森はわたしに向けて大きな口を開けていた。逃げ込みながら、森に喰われるような錯覚を覚えた。
わたしが暗闇とひとつになる頃、人の声は完全に消えていた。
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