さよならを言う前に、君の声で

――どうして、もっと早く伝えられなかったんだろう。


教室の窓から差し込む午後の陽射しは、どこか切なくて。

あたたかいはずなのに、柚葉の頬をなぞるそれは、涙の跡のように冷たかった。


慧が転校する、という話は、あまりにも突然だった。


春休みを目前にした終業式の日。

先生が告げた「報告」は、教室をざわつかせたけれど、当の本人は淡々としていた。


「家の都合ってやつ。ありがちでしょ」


そう笑った慧の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。


「なんで……何も言ってくれなかったの?」


放課後、帰り道。人通りの少ない並木道で、柚葉は思わず問いかけていた。


「言ってどうなる? 柚葉に心配かけるだけだろ」


「心配するに決まってるじゃん……!」


感情が溢れそうになるのを、柚葉は必死で抑えた。

だけど、どうしても、こらえきれなかった。


「……私、あの日、“嘘”で告白した。ノートに書いて、あなたの気持ちを操ったの。

でも、本当に好きだったのは……あれからずっと、本物だったのに」


木々の隙間から差す夕陽が、ふたりの影を長く伸ばしていた。


「柚葉」


慧が立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。


「……俺はさ、たぶんあの頃から、君の“本当”に気づいてたよ」


「え……?」


「変なタイミングで優しくされたり、急に距離を詰められたり。

最初はただ、勘違いかって思ったけど……」


慧は苦笑するように目を細めた。


「柚葉が、本気で俺を見つめてた日があった。ノートとか関係なく、ね」


「……!」


「でも、きっかけが“嘘”だと分かってたからこそ、踏み込めなかった。

俺も怖かったんだよ。『それでも信じていいのか』ってさ」


柚葉の目から、ひとしずく涙が落ちた。


「ごめん……ごめんなさい……」


「謝らなくていい。むしろ……ありがとう」


慧の言葉に、柚葉は目を見張る。


「俺、救われてた。嘘だとしても、あのとき“好き”って言ってもらえて、すごく嬉しかったんだ。

だから俺も、ずっとちゃんと“本当”で返したかった。

……でも、そのタイミングが、今日まで来なかっただけだよ」


柚葉の胸の奥で、何かがほどけていく。


長く張り詰めていたものが、ようやく溶け出していくようだった。


「じゃあ……今、ちゃんと伝えてもいい?」


慧は優しくうなずいた。


「うん、今なら――ちゃんと、聞けるから」


深呼吸ひとつ。風の音だけが、ふたりを包む。


「慧くん、私はあなたが好きです。ずっと、ずっと前から」


涙まじりの声だったけど、震えずに言えた。


慧は少し笑って、うなずいた。


「俺も――柚葉が好きだよ。嘘じゃない。これは俺の本当」


ふたりの距離が、少しずつ近づいていった。


***


――それでも、ノートにすがったあの時間が、無駄だったとは思わない。


柚葉は自分の足で歩き出すきっかけを、たしかにあの“嘘”からもらったのだ。


あの頃の彼女は、不安で、自信がなくて、周囲の目ばかり気にしていた。

人気者になれば、自分を好きになれる気がした。誰かに選ばれる存在になれば、ようやく自分を許せると思った。


けれど――


「いまは、違うの」


柚葉は駅のホームで、すれ違っていく人の波を見つめながら、自分の胸にそう言い聞かせた。


「誰かに選ばれたいんじゃない。私は、選びたいんだ、自分の言葉で、想いで」


そのとき、スマホに通知が届いた。


【From:慧】


今日、話せるかな?


その短いメッセージに、胸がきゅっと締めつけられた。


***


日曜の午後、再び駅前のカフェ。


慧は緊張した様子で席に着き、ぎこちない笑みを浮かべた。


「連絡……ありがとう」


「こちらこそ」


ふたりの間に、短い沈黙。


だけど、それを破ったのは、柚葉だった。


「私、ずっとね……怖かったの。好きって気持ちを、ちゃんと伝えるのが。

誰かを好きになると、同時に“嫌われる”可能性も生まれるじゃない?」


慧は静かにうなずいた。


「うん……それ、すごく分かる」


「だから私は……ノートを使って“嘘”を選んだの。

相手の気持ちを書き換えれば、失うことも、拒まれることもないって思ってた」


柚葉は、自分の過ちを隠さなかった。

まっすぐに、真実だけを並べた。


「でも……結局、それは私自身を一番傷つけてたの。

“本当の自分”を、信じてなかったってことだから」


慧は、小さく笑った。


「……柚葉は、ちゃんと変わったんだね」


「変わった……のかな。でも、少しだけ勇気が出たの」


柚葉は、テーブルの下で手をぎゅっと握った。


「慧くん、好きです。……前よりずっと、ちゃんと、自分の気持ちで」


慧の目が、驚きと喜びと、ほんの少しの涙で潤んだ。


「……俺も。君がどんな選択をしても、好きだった。

でも今こうして、“君の言葉”で聞けて……本当に、嬉しい」


ふたりの間に、ゆっくりと、確かな春風が吹き抜けた。


***


後日。


天野先輩と再会した柚葉は、もう一度あの図書室に向かった。


「もう、ノートには頼らないって決めたんです」


そう告げると、天野は小さく頷いた。


「それができた君なら、もう大丈夫だ。

ノートはただの“道具”だ。けれど、それを手放す決断は……強さの証明だよ」


柚葉は微笑み、ノートを棚に戻した。


静かな図書室に、ページの擦れる音だけが響いた。


***


数年後。


柚葉は都内の大学に進学し、文芸サークルでエッセイを綴っていた。

「言葉の力」を信じてみたくなったのだ。


ふと図書館で借りたノートの片隅に、こんな走り書きが残されていた。


“ほんとうの気持ち”は、誰かに書かれるものじゃなく、自分で選ぶもの。


柚葉は、それを見て微笑んだ。


まるで、過去の自分から届いたメッセージのようだった。


***


週末。


慧と待ち合わせをして、公園のベンチに並んで座る。


「ねえ、もしまた“あのノート”が現れたら、どうする?」


「うーん……読書感想文でも書く?」


「それ、逆に一番こわいわ」


ふたりは笑い、寄り添って春の風に包まれた。


もう、誰かの嘘じゃない。


これが、ふたりで選んだ“本当の未来”。

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