裏源氏物語 ~契りの宵に咲く花~ 平安転生BL、紫式部は愛を筆に綴る

五平

第一話:平安の目覚め、筆の疼き

「……はぁ、はぁ……っ」


 液晶に表示された「完」の文字を見た瞬間、私は深く、長く息を吐き出した。指先は痺れ、肩は岩のように凝り固まっている。徹夜で書き上げた新作のBL小説は、まさに渾身の作だった。愛と憎悪、裏切りと赦し、そして男と男の間にしか生まれ得ない深淵な絆――我ながら150点満点の出来栄えだ。きっと、読者たちの「もっと読みたい」「沼から出られない」という悲鳴が、目に浮かぶようだ。疲労困憊のまま、椅子にもたれかかったその時だった。


 ドンッ、と、身体の奥底まで響くような衝撃。


 とっさに何が起きたのか理解できなかった。激しい揺れ、平衡感覚が麻痺し、視界がぐにゃりと歪む。真っ白な光が視界を埋め尽くし、全身を激しい痛みが駆け抜けた。ああ、これはいわゆる、物語の導入でよくある「不慮の事故」ってやつか……。意識が遠のく中、脳裏にはこれまで書き連ねてきた無数の物語が、走馬灯のように駆け巡っていた。創作への途方もない情熱と、読者から寄せられた熱い感想、そして私の描いた「推しカプ」たちが、一つ、また一つと浮かんでは消えた。このまま意識を手放せば、それら全てが失われてしまうような、言いようのない喪失感が胸を締め付けた。


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 次に目覚めた時、私を包んでいたのは、柔らかな薄絹の感触と、伽羅(きゃら)の馥郁(ふくいく)たる香りだった。嗅いだことのない、しかし心を落ち着かせるような香りが、鼻腔を満たす。天井を見上げれば、見慣れない格子の木組みが幾何学的な美しさで広がり、壁には繊細な絵が描かれた衝立(ついたて)が立てかけられている。耳に届くのは、囁くような女たちの声と、衣擦れの、絹鳴りの音。そして、遠くからは雅楽のような調べが微かに聞こえてくる。


「……ここは……?」


 掠れた声が、自分のものではないことに驚愕した。細く、白く、まるで絹のように滑らかな手。ゆるりと上体を起こせば、目の前には豪華な帳台(ちょうだい)が広がり、その向こうには、障子越しの庭が見えた。そこに広がるのは、手入れの行き届いた枯山水のような趣きと、名も知らぬ花が、風にしなやかに撓(たわ)んでいた。その一輪一輪が、平安絵巻から飛び出してきたかのように美しい。鳥の声すら、どこか雅やかに響く。


 混乱する私に、横に控えていた女房が、顔を近づけて優しく声をかけてきた。その顔は、まるで絵から抜け出たかのように、薄くおしろいを塗り、お歯黒を付けていた。


「あら、お目覚めになられましたか。ご気分はいかがでございますか、香子様」


 香子様?誰のことだ? 私は……「私」だ。ハンドルネームは伏せるが、れっきとしたBL作家の「私」だ。


 しかし、女房の表情は真剣そのもの。どうやら、この身体の持ち主は「香子」というらしい。まさか、私が、この名で呼ばれるとは。


 女房に勧められるまま、手桶の水を使い、恐る恐る水面に顔を映せば、そこにいたのは見慣れない、しかしどこか知的な面立ちの女性だった。黒く艶やかな長い髪は、まるで墨を流したかのように背を覆い、切れ長の瞳には、思慮深さと同時に微かな憂いが宿っている。間違いなく、歴史の教科書で見たあの顔――紫式部(むらさきしきぶ)だった。


 まさか、私が、あの『源氏物語』の作者に転生したというのか? 冗談だろう? あまりにも突飛で、荒唐無稽な展開に、一瞬意識が遠くなる。頬をつねるが、痛い。これは夢ではない、現実だ。私の心臓は、激しく脈打っていた。


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 女房の話から、どうやら私は中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)様の女房として仕えることになったばかりらしい。そして、宮中では今、物語の執筆が盛んに行われているという。


「……さきほども、清少納言様(せいしょうなごんさま)の『枕草子』が中宮様の御前で読み上げられ、その洒脱な筆致に皆、感嘆いたしました。清少納言様は、やはり筆の冴えが違います」


「ええ、しかし、やはり左大将様の御物語には及びますまい。今宵は道長様にも読まれるそうにございますから。あれこそ、真の物語でございましょう」


 女房たちが交わす会話から、この時代が、物語が力を持つ時代であること、そして「恋物語の筆競べ」が繰り広げられている真っ最中なのだと、徐々に理解が深まった。藤原道長(ふじわらのみちなが)様は、娘である彰子様が帝の寵愛を一身に受けるため、当代きっての才女たちに物語を競わせていたと、歴史の授業で習った記憶がある。私が「紫式部」としてこの宮中にいるということは、私もその「筆競べ」に参加することになるのだろう。そして、私が書くべき物語とは……当然、『源氏物語』だ。世界文学史に燦然と輝く大作。それをこの手で紡ぐことができるのか。そう考えると、得も言われぬ興奮が胸にこみ上げてくる。まさに歴史的瞬間に立ち会うような高揚感だ。


 だが、同時に私の奥底で、もう一つの「血」が疼き始めていた。それは、前世で私を突き動かした、抗いがたい創作の衝動だった。


「(源氏物語、ねぇ……。確かに歴史的価値は高いし、素晴らしい作品だとは思うけど、私が本当に書きたいのは、そこじゃないんだよなぁ)」


 平安の才女、紫式部として振る舞いながらも、私の心はすでに現代のBL作家モードに切り替わっていた。光源氏と藤壺の宮の禁断の恋も、それはそれでドラマチックだ。けれど、もっと、こう、心の奥底を抉るような、胸の奥が軋むような、魂を交わすような――そんな、男と男の絆を紡ぎたいと、喉が渇くほどに渇望していた。この平安の雅やかな宮廷の裏側には、きっと泥臭い感情や、誰にも知られぬ秘密が渦巻いているはずだ。


 目の前には、広大な平安の都。雅な装束を纏った貴公子たちがひしめき合い、繊細な和歌を詠み交わす。彼らの交わす視線、言葉の端々からにじみ出る感情、そしてその裏では、陰謀や嫉妬、愛憎が渦巻いている。これは、BL作家にとって最高の舞台ではないか。


「(この環境、尋常じゃない……!どこを切り取っても、書かずにいられぬ二人が生まれそうな気配しかしない……!想像しただけで、指先が疼いてしまった。……まったく、こんな平安貴族にまで萌えを感じるなんて、職業病にもほどがある)」


 私のBL作家としての血が、新たな物語を渇望していた。それは、この平安の世で、誰も知らない秘密の物語を紡ぐことへの、抗いがたい衝動だった。禁忌への微かな悦びと、それがもたらすかもしれない罪悪感が、胸の奥でせめぎ合う。


 それでも、私はこの衝動に逆らえない。


 筆で競い、恋でも競うなら、私は決して負けるわけにはいかない。


 もう一度、物語を描くのだ。今度は、誰にも否定されない、私だけの愛のかたちを。


 これはまだ、『源氏物語』になる前の物語。


 筆に咲く契り――それが、始まりだった。

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