『わたしと彼』

志乃原七海

第1話『あら?奥さん?』



わたしと彼


電車の窓を流れていく景色が、だんだんと緑を深めていく。こくり、こくりと揺れるリズムが心地よくて、隣に座る彼の肩に頭をもたせかけた。シャンプーの、いつもと同じ匂いがして、それだけで胸の奥がきゅっと甘く疼く。


「もうすぐ着くよ」


頭の上から降ってきた優しい声に、ん、と小さく返事をする。待ちに待った、二人きりの温泉旅行。社会人になって、忙しい毎日を言い訳になかなか叶わなかったささやかな夢が、今まさに形になろうとしていた。


最寄りの駅からタクシーに乗り、山あいの静かな道を進むと、趣のある門構えの旅館が見えてきた。歴史を重ねた木の匂いと、微かに香る硫黄の匂いが混じり合って、非日常への扉を開けてくれる。


「わあ、すごい……」


思わず感嘆の声を漏らすと、彼が「だろ?」と得意げに笑った。私の喜ぶ顔が見たくて、一生懸命探してくれた旅館だ。その気持ちが何より嬉しい。


からりと引き戸が開くと、上品な和服に身を包んだ女将さんが出迎えてくれた。柔らかい物腰と、人の良さそうな笑顔に、緊張がふっと解けていく。


「ようこそおいでくださいました。お待ちしておりました」


彼が予約の名前を告げると、女将さんはにこりと微笑んで、私と彼を交互に見た。そして、ほんの少し首を傾げて、こう言ったのだ。


「あら? ご夫婦でいらっしゃいますか? 奥さまかしら?」


その言葉は、澄んだ空気の中にぽとりと落ちて、私の中で小さな波紋を広げた。

ご夫婦。奥さま。

その響きは、夢見ていた未来そのものみたいで、あまりにも甘美だった。


彼の顔を見る余裕なんて、どこにもなかった。舞い上がって、火照っていく頬を隠す術も知らなかった。ただ、その心地よい響きを手放したくなくて、私はほとんど無意識に、唇を開いていた。


「……はい!」


はっきりと、自分でも驚くくらい明るい声が出た。


しまった、と思ったのは一瞬後のこと。隣で彼が息をのむ気配がした。ああ、どうしよう。困らせてしまったかもしれない。勝手に先走って、重い女だと思われたら……。思考がぐるぐると渦を巻き始める。


「まあ、そうでございますか。お若くて、仲睦まじいことで」


私の内心のパニックなど露知らず、女将さんは嬉しそうに目を細めている。その笑顔に、もう「違います」なんて言えるはずもなかった。


「ささ、どうぞこちらへ。お部屋へご案内いたします」


促されるまま、私は俯きがちに歩き出した。彼の顔が見られない。どんな顔をしているんだろう。呆れてる? それとも、怒ってる?


長い廊下を歩く間、二人の間に会話はなかった。ぎこちない沈黙が、私の心臓を雑巾みたいに絞り上げる。


畳の匂いが清々しい部屋に通され、女将さんがお茶の準備をしながら滞在の説明をしてくれる。私はただ相槌を打つので精一杯だった。


やがて女将さんが「ごゆっくりどうぞ」と一礼して部屋を出ていく。障子戸がぴしゃりと閉まった瞬間、ついに沈黙が破られた。


「……おいおい、奥さん」


からかうような、でもどこか優しい声。

恐る恐る顔を上げると、彼は口元を綻ばせ、たまらなく愛おしそうな目で私を見ていた。怒っても、呆れてもいなかった。


「なっ……!」

「『はい!』って、すごい良い返事だったな」

「だ、だって……!」


顔から火が出そうだった。弁解しようにも言葉にならない。俯いて両手で顔を覆うと、彼が隣に座って、そっとその手を外してきた。


「嬉しかったんだろ」


見透かしたような言葉に、心臓が大きく跳ねる。

こくりと頷くのが精一杯だった。


「……そう呼ばれたら、嬉しくて。つい」

「そっか」


彼はそう言うと、私の髪を優しく撫でた。「俺も、なんか悪くなかった」と、照れくさそうに笑う。


その笑顔を見たら、さっきまでの不安が嘘のように溶けていった。代わりに、胸いっぱいに広がっていく温かいもの。


「奥さん、お茶、淹れてくれる?」

「……もう、からかわないで」


頬を膨らませてみせると、彼は「ごめんごめん」と笑いながら、私の手を握った。


その日一日、私たちは何度も「夫婦」になった。貸切の露天風呂で、豪華な夕食の席で、仲居さんが私を「奥さま」と呼ぶたびに、二人でこっそり目配せをして笑い合った。それは、二人だけの甘い秘密のようで、くすぐったくて、たまらなく幸せな時間だった。


夜、並べられた布団の中で、彼の寝息を聞きながら今日の出来事を思い返す。

女将さんの問いに「はい」と答えた、あの瞬間。

それは、私の偽りのない、本当の心の声だったのだ。


いつか本当に、あなたの隣で、何の迷いもなく「はい」と言える日が来ますように。


隣で眠る彼の手にそっと自分の指を絡ませて、私は静かに願った。窓の外では、月が私たちを優しく照らしていた。

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