第94話 副団長、国境を超える
国境を覆う空気は、張りつめた糸のように細く震えていた。
レオンの言葉の余韻が消えたあとも、誰一人として動けない。
教国騎士たちは、弓を握ったまま固まっていた。
その指は震え、だが矢は放てない。
レオンを見る目だけが、縫い付けられたように逸らせずにいる。
足元の砂が、ぽたりと落ちた雫のように沈黙を刻んだ。
グラハムが、静かに息を吸う。
重い鎧の擦れる音が、国境に唯一響いた金属音だった。
「……副団長。無茶はするなよ」
声は低いが、止める気はない。
ただ“一緒に踏み越える”覚悟だけがある。
レオンは小さく笑った。
「無茶はしないさ。ただ……聞きてぇことがあるだけだよ」
そして、一歩。
国境線へ踏み出した。
その踏み込みは、何の力も込めていない普通の歩みだった。
だというのに、教国騎士たちは反射的に後ずさる。
弓がカチンと触れ合い、小さく金属音を響かせる。
彼らの顔には、強硬派としての誇りも信仰もなかった。
ただ恐怖だけがあった。
風が揺れ、レオンのマントの端をわずかに引いた。
だが暴れも騒ぎもしない。
ただ、彼の背を押し続けるような気配を残す。
レオンは教国騎士たちに向けて、静かに言った。
「――俺と団長、あとは数名だけ通してくれないか?」
その声に怒りはなく、脅しもない。
それなのに、教国の騎士たちはうまく呼吸ができないように胸を押さえた。
「……い……行かせれば……われらは……」
声にならない呻き。
誤魔化す余裕も、建前を言う余裕もない。
(──やっぱ、そういうことか)
レオンは薄く目を伏せた。
そのとき、ひときわ若い教国兵が歯を食いしばった。
震えを隠せないまま前に出る。
「……た、頼む……!
これ以上……来るな……!
あの方は……“聖女様は祈られている”と……そう言われて……それを守るだけで……!」
その単語の選び方だけで、レオンとグラハムは理解した。
――聖女は、自分の意思でそこにいるのではない。
風が、かすかに鳴った。
怒りでも悲鳴でもなく、痛みに近い音。
レオンは目を閉じ、一度だけ深く息を吐く。
「……わかった」
教国騎士たちが安堵するより早く、レオンは短く言葉を続けた。
「――行くよ」
次の瞬間、教国騎士たちの顔が蒼白になる。
「ちょ、ちょっと待て!!」
「こ、越えるな!越えるなって言ってるだろ!!」
「やめろ!!そのまま来るな!!」
悲鳴が国境沿いに散る。
それでもレオンは足を止めなかった。
脅しではなく、ただ“行くべき場所へ歩いている”だけの歩みで。
グラハムが剣に手を添え、隊列が彼に続く。
王国騎士たちの足音が低く重なり、国境の緊張を押し流していく。
その光景を、教国騎士たちは何もできずに見送るしかなかった。
風が一陣、レオンの背を押す。
静かな、けれど揺らぎのない一歩。
こうしてレオンたちは――
教国の領内へと足を踏み入れた。
国境線の向こうは、奇妙な静寂が待っている。
だがそれは、このあと彼らが見る“最初の異常”にすぎなかった。
◇
一歩、境を越えると――
空気が変わった。
それは風の性質でも湿度でもない。
“人の気配”そのものが薄い。
山脈の裾に沿う細道は、教国側に入った途端、
使われなくなった古道のように静まり返っていた。
砂利を踏む音がやけに大きく響く。
鳥の声はない。
遠くの修道院の鐘の音すら聞こえない。
まるで国全体が息を潜めている。
グラハムが低く呟いた。
「……この静けさは異様だな。
見張りも巡回もいない。国境付近が空になるなど、戦時でもまずあり得ないぞ」
レオンは返事もせず、周囲を見渡す。
草一本揺れていない。
風は吹いているはずなのに。
(……泣いてる、か。
どこかで、誰かが……)
頼りにならないようでいて、時に不気味なほど正確な“感覚”が、胸の底でざわりと動いた。
王国騎士たちは無言のまま隊列を崩さず歩く。
踏みしめる音が連なり、静寂の中でだけ重く響いた。
道の先には、小さな村が見える。
だが、その姿は異様だった。
家々の窓はすべて閉ざされ、扉には外側から杭が打たれている。
畑には麦がそのまま放置され、収穫されることなく乾いていた。
人の営みだけが、ぽっかりと抜け落ちた世界。
レオンは足を止めた。
「……人の気配、皆無だな」
「副団長、どう判断する?」
グラハムが問う。
レオンは小さく首を振った。
「わからん。ただ……逃げた跡だな。
なにか“来た”か、“来ている”か……」
王国騎士たちが周囲を警戒し、村の中へ慎重に踏み込む。
軋む木製の門が、不吉な音を立てた。
村の中心――祠(ほこら)があった。
かつて水の精霊を祀っていたはずの、小さな石造りの祠。
しかしその石は黒く染み、表面には手で触れたような跡が幾重にもついている。
シン……。
風の流れがそこで急に止まり、空気が凍りついた。
「……何だ、これ」
グラハムの声が沈む。
レオンは祠に手を伸ばしかけ――
指先が触れる前に、胸の奥に冷たい痛みが走った。
(……喰われてる? ここも……)
祠の周りの草は枯れ、地面は乾いて白く砕けている。
生き物の気配がひとつもない。
王国騎士たちが息を呑んだ。
「教国は……隠していたのか……」
「精霊の加護の国なのに……」
レオンは指先を祠から離した。
風が、わずかに震える。
(……聖女、あんた……どんな場所にいるんだ)
祠から少し離れたところで、レオンは目を凝らす。
足跡があった。
大勢のものだ。逃げるように村外へ向かって伸びている。
教国の民が、何かから逃げた跡。
グラハムが言う。
「聖女が安置されているという“大神殿”は、この先の高地だったな」
「そこに向かうしかないな」
レオンは歩き出す。
誰も止めない。
騎士団の足音だけが淡々と続く。
しかし――
村を抜ける途中、倒れかけた小さな祠の下に、
ひとつだけ白い花が置かれているのをレオンは見つけた。
枯れかけている花。
だが、わずかに水気を含んでいる。
レオンはしゃがみ込み、花の茎をそっとつまむ。
(誰かが、ここで……祈ってたんだな)
そして――花の残り香に、微かに感じた。
“怯えと、希望”。
風がまた小さく鳴った。
――“前へ”
レオンは立ち上がる。
静かな声で言う。
「行こう。
……聖女にあって確かめなないと。
泣いてるとしたら――泣かされてるんだろう」
グラハムが頷く。
王国騎士団は、無人の村を後にし、
大神殿への坂道へと向かった。
誰も知らなかった。
その坂の先に待つのが、教国の闇の核心であることを。
そして、王都から歩き出した黒衣の影が、
この事態にどう絡んでくるのかも。
ただひとつだけ確かなのは。
夜の精霊すら息を潜めるこの沈黙の中で、
レオンの足取りだけが、異様なほど揺らぎなく確かだったということだった。
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