第82話 副団長とついてくる師匠

川のせせらぎは、いつもより重たく響いていた。

王都から半日の行軍。王国騎士団の一隊が、川沿いの街道を遡って進んでいく。


その中央に、副団長レオン・アーディルの姿があった。

鎧は着けず、軽装にマントを羽織っただけ。腰の剣も鞘に収まったまま、彼は飄々とした顔で歩いている。


だがその背後に並ぶのは、グラハム団長自ら率いる十数名の精鋭。

前列の旗には王国の紋章――銀の盾と蒼の剣が陽を反射していた。


「……空気が湿っているな」

誰に言うでもなく呟いたレオンに、後ろからひょいと顔を出したのはジークだった。


「湿ってるのは川沿いだからだろ。お前、そういうのを“勘”だの“気配”だの大げさに言う癖がある」

「癖じゃねぇよ……なんか、嫌な感じがするんだ」

「ほら出た」


グラハムが振り返り、眉を寄せる。

「……師匠殿、なぜここにいる」

「嫌な予感がしたから、ついてきた」

平然と答えるジークに、団員たちの肩が同時に落ちる。


「副団長。これは正式任務だ。勝手な随行は――」

「まあまあ、団長」レオンが手を挙げて笑う。

「師匠だから、しょうがないです」

「……そなたの縁故でなければ、今すぐにでも追い返しているところだぞ」


「まあ、追い返してもいいがな。その場合は、穴が開いたときに俺のせいにするなよ」

ジークは懐から干し肉を取り出して、のんびり噛み始める。


(……本当に勝手に来たんだな)

シリルは半眼でため息をつき、帳面にさらさらと書き込んだ。

「師匠殿、随行。理由:嫌な予感。……記録しておきます」

「やめてくれよ、シリル……」レオンは頭を掻いた。



昼過ぎ、最初の村に入った。

だが迎えたのは賑わいではなく、不安げな沈黙だった。


「ようこそお越しくださいました、騎士団の皆様」

村長が深く頭を下げる。皺だらけの顔は疲労に覆われていた。


「川の水を飲んだ牛が、次々に倒れまして……井戸も濁ってきております。祭りの灯籠も、火がすぐ消えてしまうのです」


村人たちは怯えたように顔を見合わせる。

「精霊様が怒っておられるのでは……」

「いや、きっと呪いだ……」


重苦しい空気が広がったそのとき、村の子どもに声をかけられた。

「副団長さま……昨日、お母さんが『副団長さまの笑顔を見たら水が澄んだ』って……」

「いや、それは気のせいだろ」

「気のせいでもいいです! だから笑ってください!」


突然のお願いに、周りの大人たちもざわつく。

レオンは苦笑しつつ、子どもたちに頭を撫でられて「はいはい」と微笑んだ。


その瞬間――風がさっと流れ、井戸の水面が一度だけ澄んだように見えた。


「……!」

村人の間に小さな歓声が上がる。


「副団長さまが、やっぱり精霊を鎮めてくださった!」

「ありがたや……ありがたや……!」


「いやいや、俺何もしてないからな!? 本気で信じるなよ!」

レオンが慌てて否定するが、時すでに遅し。

村人たちの間では新しい伝説が生まれつつあった。


「……また一つ項目が増えましたね」

シリルは帳面に“副団長、笑顔で水を澄ませる”と書き込む。

「だから書くなって!」



その日の夕刻、川をさらに上流へと遡った一行は、奇妙な痕跡を発見した。


岩場に、不自然な黒い焦げ跡。

周囲の草木はまだ新しいのに、その部分だけ焼け焦げ、そして――まるで“何かを吸い尽くしたように”周囲の水気が消えていた。


「……おい」

グラハム団長が低く声を発する。

「これは……ただの自然現象ではないな」


「精霊が宿るはずの場所で、痕跡だけが消えている」

シリルが震える声で呟く。

「まるで、精霊そのものを食らったかのように」


ジークは険しい目でその場を見回した。

「噂じゃなかったか……“精霊喰い”の伝承」


空気が凍り付く。

副団長でさえも、無言のまま岩に触れた。指先に、何の温もりも返ってこない。


(……あの頃の感覚に、似ている)

妹が「私は火の子! レオは風と雷の子!」と笑っていた記憶が、一瞬脳裏に蘇った。

だが次の瞬間、彼はその映像を振り払うように首を振った。


「……とにかく、村に戻って報告だ」

レオンは冷静に言った。

しかし、その声の裏で僅かなざらつきがあったことを、シリルは聞き逃さなかった。



夜。川沿いの野営地。

焚き火を囲みながら、騎士たちは今日見た光景を口々に語っていた。


「副団長が笑ったら水が澄んだって、村で噂になってますぜ」

「次は“副団長、焚き火を睨んだら炎が整う”とか出そうだな」

「やめてくれ……」レオンは額を押さえる。


だが団員たちの笑い声は、恐怖を和らげる薬になっていた。

グラハムは杯を掲げながら、焚き火越しに副団長を見た。


(……あの男がいなければ、皆の心はもっと折れているだろうな)

(だがその底に何を抱えているか――それを、私はまだ知らない)


炎がはぜ、夜空に火の粉が舞った。

風が吹き抜け、どこか遠くで水音が低く響いた。


異変は、まだ始まったばかりだった。

 

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