第82話 副団長とついてくる師匠
川のせせらぎは、いつもより重たく響いていた。
王都から半日の行軍。王国騎士団の一隊が、川沿いの街道を遡って進んでいく。
その中央に、副団長レオン・アーディルの姿があった。
鎧は着けず、軽装にマントを羽織っただけ。腰の剣も鞘に収まったまま、彼は飄々とした顔で歩いている。
だがその背後に並ぶのは、グラハム団長自ら率いる十数名の精鋭。
前列の旗には王国の紋章――銀の盾と蒼の剣が陽を反射していた。
「……空気が湿っているな」
誰に言うでもなく呟いたレオンに、後ろからひょいと顔を出したのはジークだった。
「湿ってるのは川沿いだからだろ。お前、そういうのを“勘”だの“気配”だの大げさに言う癖がある」
「癖じゃねぇよ……なんか、嫌な感じがするんだ」
「ほら出た」
グラハムが振り返り、眉を寄せる。
「……師匠殿、なぜここにいる」
「嫌な予感がしたから、ついてきた」
平然と答えるジークに、団員たちの肩が同時に落ちる。
「副団長。これは正式任務だ。勝手な随行は――」
「まあまあ、団長」レオンが手を挙げて笑う。
「師匠だから、しょうがないです」
「……そなたの縁故でなければ、今すぐにでも追い返しているところだぞ」
「まあ、追い返してもいいがな。その場合は、穴が開いたときに俺のせいにするなよ」
ジークは懐から干し肉を取り出して、のんびり噛み始める。
(……本当に勝手に来たんだな)
シリルは半眼でため息をつき、帳面にさらさらと書き込んだ。
「師匠殿、随行。理由:嫌な予感。……記録しておきます」
「やめてくれよ、シリル……」レオンは頭を掻いた。
◇
昼過ぎ、最初の村に入った。
だが迎えたのは賑わいではなく、不安げな沈黙だった。
「ようこそお越しくださいました、騎士団の皆様」
村長が深く頭を下げる。皺だらけの顔は疲労に覆われていた。
「川の水を飲んだ牛が、次々に倒れまして……井戸も濁ってきております。祭りの灯籠も、火がすぐ消えてしまうのです」
村人たちは怯えたように顔を見合わせる。
「精霊様が怒っておられるのでは……」
「いや、きっと呪いだ……」
重苦しい空気が広がったそのとき、村の子どもに声をかけられた。
「副団長さま……昨日、お母さんが『副団長さまの笑顔を見たら水が澄んだ』って……」
「いや、それは気のせいだろ」
「気のせいでもいいです! だから笑ってください!」
突然のお願いに、周りの大人たちもざわつく。
レオンは苦笑しつつ、子どもたちに頭を撫でられて「はいはい」と微笑んだ。
その瞬間――風がさっと流れ、井戸の水面が一度だけ澄んだように見えた。
「……!」
村人の間に小さな歓声が上がる。
「副団長さまが、やっぱり精霊を鎮めてくださった!」
「ありがたや……ありがたや……!」
「いやいや、俺何もしてないからな!? 本気で信じるなよ!」
レオンが慌てて否定するが、時すでに遅し。
村人たちの間では新しい伝説が生まれつつあった。
「……また一つ項目が増えましたね」
シリルは帳面に“副団長、笑顔で水を澄ませる”と書き込む。
「だから書くなって!」
◇
その日の夕刻、川をさらに上流へと遡った一行は、奇妙な痕跡を発見した。
岩場に、不自然な黒い焦げ跡。
周囲の草木はまだ新しいのに、その部分だけ焼け焦げ、そして――まるで“何かを吸い尽くしたように”周囲の水気が消えていた。
「……おい」
グラハム団長が低く声を発する。
「これは……ただの自然現象ではないな」
「精霊が宿るはずの場所で、痕跡だけが消えている」
シリルが震える声で呟く。
「まるで、精霊そのものを食らったかのように」
ジークは険しい目でその場を見回した。
「噂じゃなかったか……“精霊喰い”の伝承」
空気が凍り付く。
副団長でさえも、無言のまま岩に触れた。指先に、何の温もりも返ってこない。
(……あの頃の感覚に、似ている)
妹が「私は火の子! レオは風と雷の子!」と笑っていた記憶が、一瞬脳裏に蘇った。
だが次の瞬間、彼はその映像を振り払うように首を振った。
「……とにかく、村に戻って報告だ」
レオンは冷静に言った。
しかし、その声の裏で僅かなざらつきがあったことを、シリルは聞き逃さなかった。
◇
夜。川沿いの野営地。
焚き火を囲みながら、騎士たちは今日見た光景を口々に語っていた。
「副団長が笑ったら水が澄んだって、村で噂になってますぜ」
「次は“副団長、焚き火を睨んだら炎が整う”とか出そうだな」
「やめてくれ……」レオンは額を押さえる。
だが団員たちの笑い声は、恐怖を和らげる薬になっていた。
グラハムは杯を掲げながら、焚き火越しに副団長を見た。
(……あの男がいなければ、皆の心はもっと折れているだろうな)
(だがその底に何を抱えているか――それを、私はまだ知らない)
炎がはぜ、夜空に火の粉が舞った。
風が吹き抜け、どこか遠くで水音が低く響いた。
異変は、まだ始まったばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます