第80話 副団長と伝承

王城の奥、冷たい石と紙の匂いが重なる大図書庫。

高い書架は天井の梁に届き、梯子が蜘蛛の巣のように掛けられている。

静けさは厚みを持ち、ページをめくる音すら、雪の上に落ちるみたいに小さく沈んだ。


レオンは、しばらくぶりに“本気の静けさ”の中にいた。

革表紙の古文書が机に三冊、隣に紙束を抱えたシリル、向かいにクラリス王女、少し離れてグラハム団長。

全員が、言葉を選ぶように黙々と読む。


「……見つかりました」

最初に声を落としたのはシリルだ。掌に乗る薄い冊子を指先で開き、細い文字を示す。

「年代不詳の記。“光なき穴”――“祈りの温もりを舐め取り、灯と水を淡くする影。名は与え難し”」


クラリスが別の巻子を広げる。

「こちらは北境の修道記録。“精霊を食らうものに遭うとき、器は残り、寄り添いだけが減る。祈りは空回り、火は芯を失い、水は輪にならず”」

王女の声は穏やかだが、その眼の底に硬い光がある。


グラハムは腕を組み、短く唸った。

「“器が残る”か。昨夜の現場報告と符合するな。……厄介だ」


レオンは古い羊皮紙をひっくり返しながら、眉の奥がわずかに疼くのを感じていた。

ページの余白に、かすれた注釈。“精霊付きは狙われる”。

その文字列が、やけに目に刺さる。


(精霊付き、ね……)


喉の奥で、子どもの笑い声が小さく弾む。


――『わたしは火の子! レオは風と雷の子!』


日向の埃。赤いリボン。ちいさな手。

そこまで思い出しかけて、レオンは意識にブレーキをかけた。

(やめろ。今は“伝承”を時だ。思い出す時じゃない)


シリルが淡々と続ける。

「断片は多いですが、共通点は三つ。一、名前が定まっていない。二、祈りの“温度”を奪う。三、“精霊付き”のそばに現れやすい」

「“そばに”か」

グラハムが机を軽く指で鳴らす。

「聖女は無事、王都から離した。ならば残る“そば”は――」


言葉が、そこで空中にとどまる。

クラリスが、ほんの一拍だけ視線をレオンへ。


「……俺を見るな」

レオンは額をかき、肩をすくめた。

「“付き”じゃない。俺はただの騎士だ」


シリルは紙を重ね、事務的に言う。

「“ただの騎士”が、扉の前に立っているだけで封印鎖を無力化するのは一般的事象ではありません」

「言い回しが刺さるんだよ」


クラリスは小さく息をつき、言葉を選んだ。

「伝承を鵜呑みにするのは早計です。ただ――王都は、あなたが立っているだけで落ち着く。事実です」

「……立ち仕事は得意だからな」


冗談に逃がす。けれど、胸のどこかが冷える。

伝承は、幽霊みたいなものであってほしい。

“いる”と決まるより、“いないかもしれない”ほうが楽だ。


「副団長」

シリルが最後の巻子をそっと差し出す。

「もうひとつ、補足。精霊付きは“二度目”に気づく――という記述」

「二度目?」

「最初は祝福、次は責め苦。“寄り添い”が重くなる瞬間に、己が“付き”であることを知る、だそうです」


レオンは返事をしなかった。

机上の灯が、わずかに揺れた気がした。

風が、背に一筋だけ通る。

(……知らない。知らなくていい)


クラリスは席を立ち、結論を落とした。

「伝承はあくまで伝承。けれど備えは具体的に。水場と灯を管理、祭祀場と祠は封鎖せず、“人の気配”を絶やさない。――その上で、レオン。あなたはいつも通り歩いてください」


「……また散歩か」

「王都が一番、よく息をする散歩です」


レオンは肩で笑った。笑いながら、指先で羊皮紙の端を撫でる。

そこに残る古い手垢は、伝承が誰かの“現実”だった痕跡だ。

軽くは、ない。



昼下がり、赤鹿亭。

暖簾をくぐった瞬間から、揚げ油の匂いと、客の噂がぶつかってくる。


「聞いたか? 精霊喰いだってよ」

「昔話じゃなかったのか」

「昔話が今話になったんだよ。副団長様が踏み潰すから大丈夫だけどな」

「踏み潰してねぇ」


レオンは反射的にツッコミを入れ、カウンターの端に腰を下ろした。

すかさず、看板娘が笑いながらジョッキと小皿を置く。

「新作~、“副団長水割り・伝承仕立て”!」

「もう名前で混線が起きてる。どっから皆そんな情報仕入れてやがるんだ…」


壁の黒板――“井戸端板・出張版”には、白墨でずらり。


> 【伝承まとめ(赤鹿亭式)】

・精霊喰い=灯と水の蜜を舐めるやつ※怖

・副団長様=蜜の管理人(強)

・“付き”は狙われやすい(守れ!)

・結論:副団長様の近くが一番安全




「最後の結論がおかしいだろ」

「合ってます」横からシリル。いつの間にか背後に立っていた。

「副団長の否定は、伝承では“お約束”に分類されます」

「伝承に分類されるな俺」


別の卓では、若い連中が勝手な説を生やしている。

「“光なき穴”ってさ、どこにでもあるんじゃない? 心が弱るとできるとか」

「じゃあ副団長は光ありすぎ穴塞ぎ?」

「新語を作るな」


ジークは相変わらず木のカエルを弄び、グラハムは無言で野菜を噛む。

何でもない光景。

だけど、伝承という言葉がこの空間を一枚、薄く変えている。


レオンはジョッキの縁についた結露を親指で払った。

雫がすべって、小皿の縁で止まる。

(――“二度目”に気づく、か)


胸の奥で、からん、と小石が鳴る。

思い出すな、と思うほど、思い出しそうになる。


――『レオは風と雷の子!』


「副団長」

シリルの声が、現実へ引き戻した。

「午後は井戸筋の巡回です。例の“滑車鳴き”が二箇所、復活しているようで」

「滑車は伝承関係ないからな? 油差せば治るやつだからな?」

「“副団長様が差した油は効き目が違う”という伝承が、今まさに生えています」

「生やすなぁ!」


店内が笑いで揺れる。

笑いは伝染する。

伝説も、だいたい同じだ。



夜。王城の執務室。

窓の向こうには、灯籠の火が淡くつらなり、石畳に細い光の筋を落としている。


クラリスは机に両肘をつき、軽くこめかみを押さえた。

その向かいで、シリルが今日のまとめを読み上げる。


「水場の監視体制、拡充済み。祠は閉鎖せず、見張りを置く。街路灯の油は薄めず、灯心の交換を優先。……“人の気配”を切らさないための小規模な夜市を、四つに分散させて運用します」

「良案です」クラリスが頷く。

「人がいる場所に“穴”は空きにくい。――伝承が真か偽かに関わらず、私たちができるのは気配を継ぐこと」


「それと……」シリルが声を落とす。

「“精霊付き”の件。公にせず、しかし想定には入れる。対象者の特定はしません。噂だけが独り歩きし、狙いが定まるのは避けたい」

「同意します」

クラリスは一呼吸置いて、窓の外へ視線を遣る。

五分の一だけ欠けた月が、王都の屋根を撫でていた。


「それでも、万一の時――」

そこで言葉を切り、王女は微かに笑んだ。

「副団長が、立っていてくれれば、大抵は何とかなるでしょう」


扉の影で聞いていたレオンは、静かに頭を掻く。

「……俺、椅子、欲しい」


「立ってください」二人同時。

「合唱やめろ」


クラリスは、レオンにだけ柔らかい視線を返した。

「怖がる人が増えるほど、伝承は“形”を持ちます。だからこそ、笑いと灯を。あなたの“間の悪い否定”も、街を軽くする力になる」

「褒められてるのか?」

「最大級に」


レオンは肩の力を抜いて、窓の鍵を確認した。

外は静かだ。静か――だが、ときおり、耳の奥に湿った呼吸がすべる。


(……来るなら来い。来ないでくれ)


矛盾した願いが、胸に二重に重なった。



夜更け、図書庫から追加の写しが届けられた。

薄紙に、震える手で写された一行。


> 「影は、いつも“精霊付き”の一歩うしろに立つ」




シリルが眉を寄せ、クラリスは目を細め、レオンは紙を受け取って無言のまま折り畳む。

言葉は比喩かもしれない。

けれど――さっき窓辺でした、あの湿った息の位置を思い出す。


(……一歩、うしろ)


風が、背を撫でた。

“誰か”の手を思わせるほど、やさしく。


――『レオは風と雷の子!』


記憶が、今度は痛まない。

ただ温度だけが、掌にひとつ残った。


レオンは立ち上がり、軽く背筋を伸ばした。

「よし。歩いてくる」


「お願いします」

「頼んだぞ」


廊下の灯が一本、また一本と、見張りの手で付け継がれていく。

伝承は、壁に飾るものじゃない。

人の歩幅で、街に置いていくものだ。


王都の夜は息をつぎ、影はまだ“名”を持たない。

けれど、次のページはもう、ゆっくりと指先の下でめくられかけていた。

 

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