第70話 副団長と副団長お守り
夕方、レオンはやっとの思いで詰所を抜け出し、城壁沿いの小道をぶらついた。
休暇――という言葉の化石を拾いに行く、みたいな足取りで。
道端で子どもが紙剣を振っている。
「副団長さま、どうやって一歩も動かず強くなるの?」
「それは……動かないことだな」
「やっぱり!」
「(いや違う、動け)」
別の子が自慢げに木札を見せる。
「見て! 副団長守! これあったらね、母ちゃんが怒らない!」
「それは効くかどうか……どうかな……?」
通りすがりの老婆が手を合わせた。
「副団長様、うちの孫がね、昨夜よく眠れたんだよ。ありがとねぇ」
「いや、俺は何も……」
「いるだけでありがたいのさ」
その一言が、妙に胸に残った。
風が軽く背を押す。
押したのは風か、人か。自分ではない“何か”が、今日も線を引いていく感覚だけは、やはり消えない。
夜。王城の小広間。
クラリスは短い布告をしたため、封蝋を落とす。
> 王国は聖女を保護する。
祈りを乱さず、噂に溺れず、市井を守れ。
副団長をはじめ、騎士団は市中警備を強化する。
焦らず、騒がず、互いを信じよ。
読み上げは最小限、言葉は平易。
民の耳には“難しい理屈”より“短い安心”が効く。
「シリル。寺院筋へは『祈りの場を開く』。騎士筋へは『制服を脱いだ見張り線を倍に』。
副団長の名は表に出さない。だが――偶然通りかかる道は整えて」
「承知しました」
王女は窓へ歩み、夜景を見下ろした。
灯りは均等に、風は柔らかく。
荒立てずに、しかし確実に。
“水際”はいつも、静かな場所にある。
翌朝。
広場の片隅で、吟遊詩人が新作を披露していた。
> ♪青の外套 動かず立てば
刃は鈍りて 風も止む
後ろに立てば 祈りは澄み
前に立てば 雷(いかづち)笑う♪
「……やめろ雷が笑うはやめろ」
侍女連有志は「副団長後方支援部」なるものを結成し、こっそり祈りの手引きを配っている。
> ・副団長様を見かけても騒がない(驚かせない)
・水をこぼしたら静かに拭く(奇跡にしない)
・倒れた灯籠は自分で起こす(風のせいにしない)
有能である。方向性が間違っているだけで。
商人組合の帳場では、簿記役がそろばんを弾いていた。
「今週、王都の観光収入が前週比で二割増。副団長グッズの売上は三倍――」
「版権は?」
「まだ概念だけです」
「気配権の時代だな……」
王都は稼ぎ、笑い、祈り、そして少しだけ怯えた。
その全部が一つの街の体温だった。
王城・小謁見室。
クラリスは短い言葉で告げる。
「副団長。聖女の護衛を――引き続きお願いします。市内の警備も強化を。
表では名を出さない。しかし、必要な時は最前に」
レオンはぼそり。
「……休暇」
「足りないですね」
シリルがすかさず追い打ちをかけた。
「永年欠番です」
「おい!」
侍女たちが笑い、クラリスはわずかに口元を緩める。
笑いは、疲れを半分ほど洗い流す。
夜半。
王都の外れ、小さな運河。
水面を一枚の札が滑っていく。
誰の手からも投げられていないのに、風もないのに、すうっと。
橋の下に立つ影が、札を拾い上げた。
灰の外套、顔は布で覆い、目だけが鈍く光る。
「命は取らぬ。荒らせ。乱せ。移させろ」
もう一人の影が頷き、水面に指を触れる。
波紋が一つ、二つ。
遠く離れた井戸の水が、わずかに冷たくなった。
その時、迎賓館の一室。
聖女はベッドの端に座り、深く息を吐いていた。
(導きに従ったのに――こんな事態に。……でも)
目を閉じると、青い外套が脳裏に浮かぶ。
“いるだけで、守られる”感覚が、体温のように残っている。
「私が来たから、誰かが傷ついたのなら……それでも、私は行きます。
導きが“ここ”だと言う限り」
窓の外、夜風がそっとカーテンを揺らした。
返事の代わりに、静かな水の気配が寄り添う。
翌朝の井戸端板には、さらに行が増えていた。
> 九、王女殿下が副団長に極秘任務(※見た)
十、聖女様の祈りで井戸水がまろやかに(※味覚派)
十一、団長、素手で刺客を真っ二つ(※誇張)
十二、新:副団長、休暇が永年欠番(※公式)
「誰だ“公式”って言ったの!?」
レオンの叫びは今日も広場に吸い込まれていく。
笑い声が重なり、王都は今日も回り始めた。
――そして、路地の底では、冷たい気配がすでに準備を終えている。
噂が守る平穏の膜に、最初の“シワ”が、音もなく刻まれた。
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