第14話 不法侵入と、伸びるタコと、ピザ

西新宿の空を貫くかのようなタワーマンションの最上階。

その広大なリビングの、床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような東京の夜景が一望できた。

だが、そのあまりにも美しい光の海は、今の佐藤健司(35)の瞳には届いていなかった。

彼の心は、この広すぎる部屋にぽっかりと空いた一つの「空洞」と、そして今、まさにその空洞を埋め尽くそうとしている二つのあまりにも騒がしい存在によって、完全に支配されていた。


「うわ、マジでタワマンじゃん!広っ!てか、何もない!ウケる!」


土足でずかずかとリビングへと上がり込んだ星野輝は、その宝石箱のような夜景に目を輝かせながら、まるで自分の家のように、その広大な空間を闊歩している。彼女は、リビングの中央に置かれたイタリア製の高級革張りソファに、どかりと音を立てて腰を下ろすと、そのふかふかの感触を確かめるように、何度か飛び跳ねてみせた。


「お、お邪魔します…」

天野陽奈は、そのあまりにも豪華な空間に気圧されながら、おずおずと、そしてどこまでも申し訳なさそうに、その一歩を踏み出した。彼女は、玄関で丁寧に靴を揃えると、その小さな背中をさらに小さく縮こまらせて、部屋の隅で固まっていた。


(…なんで、こうなった)


佐藤は、心の底から後悔していた。

数時間前まで、彼の人生は、彼の完璧な管理下にあったはずだ。

平日は、システム管理課の課長として、無能な部下と理不尽な上司をいなしながら、淡々と業務をこなす。

休日は、兼業冒険者として、F級ダンジョンという名の退屈な作業場で、ローン返済のための小銭を稼ぐ。

そして夜は、この誰にも邪魔されない孤独な城で、録り溜めた深夜アニメを見て、ビールを飲んで、眠る。

その、あまりにも完璧な、そしてどこまでも空虚なループ。

それが、彼の全てだった。

だが、その平穏は、たった二人の女子高生によって、今、完全に破壊されようとしていた。


「健司さん、すごいねー!こんなとこ住んでるなんて、マジ金持ちじゃん!」

輝が、ソファの上で寝転がりながら、そのあまりにも無邪気な、そしてどこまでも下世話な声を上げた。

「…ローンだ」

佐藤は、その一言だけを、吐き捨てるように言った。

彼は、これ以上この面倒くさい会話が続くのを避けるように、自室へと向かった。

「あ、俺、着替えてくるから。お前ら、適当にしてろ。ただし、家のものには触るなよ。特に、あそこの棚のフィギュアには、絶対に触るな」

彼は、そう言ってリビングの隅にある、アクリルケースで厳重に守られた一体のフィギュアを、鋭い目つきで指し示した。

それは、彼が青春の全てを捧げた、90年代の伝説的なロボットアニメの主人公機。その、限定生産の超合金モデルだった。

その、あまりにもオタク的な、そしてどこまでも真剣な警告。

それに、輝は腹を抱えて笑い転げた。

「ぶはははは!マジウケるんですけど、健司さん!分かった、分かったって!」


佐藤は、その笑い声を背中に感じながら、自室のドアをピシャリと閉めた。

そこは、この広すぎる家の中で、唯一、彼の魂が安らげる場所だった。

壁一面を埋め尽くす、漫画とライトノベル。

床に無造作に積まれた、ゲームのパッケージ。

彼は、その完璧なオタクの城の中で、深いため息をついた。

そして彼は、この全ての元凶である、あの忌々しいピンク色のタコを、断罪するために、AR型コンタクトレンズを付けた。


「――おい」

彼の、その低い声。

それに、彼の目の前の空間に、ぽん、と。

フロンティア君が、その姿を現した。

彼は、主の不機嫌な声色などお構いなしに、満面の笑顔で、その8本の足をばたつかせた。

「お疲れ様ッピ!健司!」

そして彼は、そのARの体を、まるで久しぶりに会った恋人のように、佐藤の視界へと抱きついてきた。


その、あまりにも馴れ馴れしい、そしてどこまでも鬱陶しい挨拶。

それに、佐藤の、最後の理性の糸が、ぷつりと音を立てて、切れた。

彼は、そのARのタコの実体を、まるで物理的に存在するかのように、片手で掴んだ。

そして、その柔らかそうなピンク色の体を、横に、思いっきり引っ張ったり、縮めたりし始めた。

「ぎゃああああああッピ!」

フロンティア君の、甲高い悲鳴が、佐藤の脳内に直接響き渡る。


「テメー、どういう事だよ!」

佐藤は、そのタコを粘土のようにこねくり回しながら、怒りの声を上げた。

「**個人情報、垂れ流してるんじゃねーよ!**なんで、あいつらが俺の家の住所を知ってるんだ!お前が、喋ったんだろ!」

その、あまりにも正論な、そしてどこまでも真っ当な怒り。

それに、フロンティア君は、その引き伸ばされた体で、必死に弁解した。

「健司、痛いッピ!いや、痛覚は正確に言うとないけど、あんまり引っ張るなッピ!」

「うるせえ!」

「違うッピ!これは、僕の独断じゃないッピ!ギルドの規約に、ちゃんと書いてあるッピ!」

彼は、ARウィンドウを強制的に表示させ、その小さな文字で書かれた利用規約の、第千二百八十条の三項を、ハイライトした。

『パーティメンバー間の円滑なコミュニケーションと、絆レベルの向上を促進するため、リーダーの許可なく、限定的な個人情報(住所、連絡先等)を、共有する場合がある』。

「ほら、見ろッピ!僕は、ただ規約に従っただけだッピ!全ては、君のハーレム構築を、サポートするためなんだッピよ!」


その、あまりにも無敵の、そしてどこまでもユーザーを馬鹿にした理論。

それに、佐藤はもはや、言葉もなかった。

彼は、そのタコを、さらに強く、握りしめた。

その、あまりにもシュールな、一人芝居(?)。

それを、終わらせたのは、一つのノックの音だった。


コンコン。

「…あの、健司さん…?」

ドアの向こうから、陽奈の、心配そうな声がした。

「何か、大きな声がしましたけど…。大丈夫ですか…?」

「…っ!」

佐藤は、はっと我に返った。

そうだ。

この家には、もう俺一人ではないのだ。

彼は、慌ててフロンティア君を解放すると、咳払いを一つして、ドアを開けた。

そこに立っていたのは、心配そうにこちらを覗き込む陽奈と、その背後で、ニヤニヤと笑いをこらえている輝の姿だった。

そして、彼女たちは見た。

佐藤の、その真っ赤になった顔と。

そして、その視界の隅で、まるでアメーバのようにぐにゃぐにゃと形を変えながら、元の姿に戻ろうとしている、ピンク色のタコの、その無残な姿を。


「……………」

静寂。

そして、その静寂を破ったのは、輝の、腹の底からの爆笑だった。

「ぶはははははははははははははははははははははっ!」

彼女は、デカくて広いソファで、笑い転げていた。

「**マジ受けるんですけど!フロンティア君、伸び過ぎ!**あはははは、腹痛え!」

その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも無慈悲な笑い声。

それに、陽奈はただ、おろおろとするばかりだった。

「健司さん、まあまあ、落ち着いてください」


その、あまりにもカオスな光景。

それに、佐藤ははあ、はあと息を切らしながら、ただ天を仰ぐことしかできなかった。

そして彼は、はーと、深く、深いため息をついた。

そうだ。

もう、駄目だ。

この城は、もう俺の聖域ではない。

完全に、この混沌の支配者たちに、乗っ取られたのだ。

彼は、観念した。

そして、その場の空気を変えるために、唯一の、そして最も効果的な魔法の言葉を、口にした。

「…とにかく、飯でも注文するか。何が良い?」


その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも平和的な提案。

それに、輝は笑い転げるのをぴたりと止めると、その瞳をキラキラと輝かせた。

「ピザで良いんじゃない?あたし、クワトロフォルマッジに、ハチミツかけるやつ、食べたーい!」

「私も、それがいいです!」

陽奈もまた、嬉しそうに手を叩いた。

「…分かったよ」

佐藤は、そのあまりにも女子高生的なリクエストに、再び深いため息をつくと、電話して、ピザを注文した。

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